「ねーえ○○、何か私に言うことはなぁい?」

夕食を食べ終わって縁側でのんびりしている時に、そんな甘ったるい声を出した紫が背中から抱きついてきた。
久しぶりに聞くこの声に、俺の背中からは冷や汗が滝のように流れ、震えも止まらなくなった。
この声を出す時の紫は間違いなく怒っているし、今回紫が怒っている理由に心当たりがあったからだ。

「き、今日も綺麗だよ紫」

「他にはぁ?」

「…晩飯、美味かったよ。いつもありがとうな」

「他にはぁ?」

「あー、えーっと…」

いつもなら多少怒っていても、先程の様に褒めてあげると機嫌を直してくれるのだが、今回はどうやら駄目らしい。
声のトーンは変わらず、俺を抱き締める腕の強さがどんどん強くなっていき、今ちらと後ろを見た時の紫は怖い程に笑顔だった。
なので、俺は観念して白状することにした。

「ご、ごめんなさい。浮気、しました…」

そう、俺は紫という恋人がいるにも関わらず浮気をしてしまったのだ。
ひと月程前の宴会の席で一緒に飲んでいた東風谷と外の世界の話で盛り上がり、実は同じ高校に通っていた事や、密かに片想いされていたこと等を聞かされ、そのまま雰囲気に流されて途中で抜け出して致してしまった。
翌日、自分達が何をしたかを把握した俺達はお互いに謝り倒し、酒のせいとして昨夜のことを無かった事にした。
その後、紫にバレる事を恐れて内心ビクビクしながら過ごしていたが、紫は気づく様子がなく、ひと月が経ってようやく安心してきた所にこれだ。
しかし、紫に隠し事、それもこんな事を言わずにいることは正直心苦しかったので、バレて良かったのかも知れない。
愛想を尽かされてしまっても自業自得、最悪殺されても仕方が無いだろう。
そんな事を考えながら折檻に備えて歯を食いしばっていたが、いつまでたっても体に痛みが感じられず、代わりに俺を抱き締めていた腕や背中にあった温もりを感じなくなった。
恐る恐る振り向くと紫は床にぺたりと座り込み、自分を抱き締めて震えていた。
聞き取れないが、何かを呟いているようだ。

「ゆ、紫?」

呪詛や何かの詠唱でもしているのかと思い近づいて耳を澄ましてみて、俺は改めて浮気などという行為をした事を後悔した。

「う、嘘。嘘よ、嘘。だって、○○の恋人は私だもの。○○は、私の事を好きって言ってくれたもの。大丈夫、大丈夫…捨てられたりしない、○○は私を捨てたり、しない…嫌、嫌…捨てないで…」

嗚咽で聞き取りにくいが、紫は泣きそうになりながらこのようなことを何度も繰り返し呟いていた。
紫は俺が浮気をした事に対し、俺に怒りを向けるのではなく、俺が自分を捨てるのではないかと恐れていたのだ。
それを知り、俺はひどく胸が痛んだ。

「紫、ごめん。本当にごめん」

俺は紫の前に立ち頭を下げ、誠心誠意の謝罪をした。
紫の信頼を裏切り彼女を傷つけたのだ。
謝って済むことではないが、俺にはそうする他なかった。

「ど、どうして、そんな事を言うの?嘘、まさか、本当に…?」

「え?」

思いも寄らない紫の言葉に意味が分からず、間抜けな声と共に顔を上げて俺は驚いた。
そう言う紫の顔は真っ青を通り越して白くなっており、堪えていた涙は溢れ出していた。
そこで俺は漸く理解が追いついた。
どうやら紫は、俺の謝罪を深読みし過ぎて変な意味で…つまり俺が自分を捨てるというように捉えてしまったらしい。

「嫌、嫌嫌!捨てないで!お願い!貴方がいないと私…私ぃ!!お願い!お願いします!!何でもしますから!本当になんでも!だから!!捨てないで!!嫌!嫌あああああ!!!」

耳を劈くような絶叫だった。
紫は俺の足に縋り付き、必死の形相で泣き叫びながら懇願しだした。
いつも冷静な紫からあまりにも掛け離れたそんな姿に俺は目眩を覚えた。
しかし、これは自分の蒔いた種であり、ここで俺まで狼狽えているわけにはいかない。

「落ち着いてくれ紫。それは勘違いだ、俺がお前の事を捨てるなんて有り得ない」

「嘘!だ、だって、私の知ら、ないところで!女を、だ、だ、抱いたんでしょう!?」

「う…そ、それはそうだけど、誓って東風谷とはその一度きりだ」

「…こ、東風谷…早苗?山の…巫女の…?」

動揺して浮気相手の名前を出してしまったのは間違いだったようだ。
こちらを見上げる紫の表情が怯えから怒りに変わる。
どうやら、俺に抱かれた女に対する怒りが俺に捨てられるのではないかという懸念を上回ったようだ。
それは、それなりに長く付き合いがある俺でさえ見た事のない、ゾッとするような、静かな憤怒だった。

「…そうよ、○○が浮気なんてするはずが、私を捨てるはずがないもの。あの巫女が下品に誘ったに決まってる。売女が…私の○○に手を出してタダで済むと思わないことね」

その場を満たす程の強大な妖気を放ちながらゆらりと立ち上がった紫は、慣れた動きでスキマを作り出し、そこに入ろうとする。

「ま、待ってくれ紫…」

「大丈夫よ、○○。直ぐ終わるわ」

紫は自信たっぷりに言うが東風谷には二柱の神様がついていて、そんなに簡単に終わる筈がない。
神と対峙すれば紫もタダでは済まないはずだが、紫は頭に血が上っていてそれが分かっていないようだ。
だから俺は、妖気に当てられて気を失いそうになりながら呼び止めるのだが、紫は恐ろしい笑みを浮かべるだけで止まってはくれない。
だが、絶対に止めなくてはならない。
俺は紫を失いたくなかった。

「○○、待ってて…」

「紫!待てって言ってるだろ!行かないでくれ!俺から離れないでくれ!俺の傍に居てくれぇ!!」

「!」

俺の渾身の叫びに紫の足が止まり、同時に放っていた妖気もピタリと消えた。
それにより体が動くようになった俺は、力がはいらず震える体で紫の元へ駆け寄り彼女を後ろから抱き締めた。

「行くな紫!東風谷に何かすれば二柱の神様が出てくる。いくらお前でも、あいつら相手じゃ無事じゃ済まないぞ!」

「…私を心配、してくれるの?」

「当たり前だろ!大切な人が、恋人が危険な目に遭うのを黙って見過ごせるか!」

「…でも、あの女がいたら、貴方は私を捨て…」

「有り得ない!俺が愛しているのはお前だけだ!」

「………」

「金輪際東風谷とは会わない、浮気なんて二度としない、お前だけを愛し続ける。だから、どうか許してくれ。どうか、俺の隣に居てくれ…」

言いながら自分勝手な話だと思った。
紫が東風谷の所へ行こうとしているのは元はといえば俺のせいで、俺がこんな事を言うのはおかしな話だ。
だが、紫がいなくなってしまうと思うと言葉が勝手に口から溢れたし、それは心からの想いだった。

「…うん、わかった」

「本当か紫!」

「ええ。私も、○○と一緒に居たいもの…でも、代わりに、私のお願いを聴いてくれる?」

「もちろん!」

俺の説得でわかってくれたのか、紫は思いとどまってくれたようだ。
それが嬉しくて紫のお願いとやらを俺が二つ返事で了承をすると、紫は身をよじってこちらに向き直り、嬉しそうに抱きついてきた。

「本当?嬉しい!…じゃあ、さっそくお願いを叶えてくれる?」

「ああ、俺に出来る事ならなんだって叶えるよ」

「ふふ、では目を閉じて下さる?」

悪戯っぽく笑いそう言う紫を愛おしく感じながら言われたとおりに目を閉じ …俺の意識はそこで途絶えた。

「ふむ、いくつか質問してもよろしいですか?」

俺が話を終えると、横でメモを取りながら相槌を打っていた天狗の少女、射命丸文がそう言い詰め寄ってきた。

「それは良いけど、死にたくなかったらもう少し離れてくれ」

「…おっと、これは失礼しました」

俺の言葉に首を傾げていた射命丸だが、少し離れた所にいる紫からの視線に気づいたのか後ろに数歩下がる。

「紫さん、些か心配症が過ぎるのでは?」

「…まあ、俺は前科があるからな」

本当はこの取材の間も俺の横に居ると言っていたのだが、射命丸が人間視点の話を邪魔されずに聞きたいと言うので頼み込んで離れてもらったのだ。
まあ、紫と藍さんと散策をしている時にいきなりやって来て取材をさせろと言ってきた挙句にこれなので、紫が怒るのも無理はない。
とはいえ、射命丸には幻想郷に来た当初色々と世話になった恩があるので、今回だけということで紫は引き下がってもらったのだ。
しかし、藍さんが紫に傘で叩かれながらなんとか宥めてくれているが、紫から妖気が漏れ出しているため限界は近いらしい。

「ということで、聞きたいことがあるなら早くしてくれ」

「すみませんね。それでは1つ目ですが、紫さんが始めに怒っていたのは本当に浮気が原因だったのですか?」

「と、いうと?」

「○○さんに捨てられる事をあれ程までに恐れていた紫さんが、浮気を知っていてあの態度を取れるとは思えません」

「あー、それはだな…」

初っ端から痛い所を的確に突く鋭い質問だった。
そしてこれは女性には出来れば言いたくないことなのだが、射命丸を言いくるめられる気がしないので諦めて素直に答えることにする。

「実は、その日が俺と紫が付き合い始めて1年の日だったんだよ」

「…それはまた、盛大にやらかしましたね」

そう言う射命丸は所謂ドン引きをしていた。
女性は記念日をやたらと作りたがり重要視する、という価値観は幻想郷でも例外ではなかった。
要するに、俺は記念日をすっぽかした挙句に浮気したという事実を紫に突きつけるという最悪のコンボを決めてしまったのだ。
後日それについて改めて怒られ、色々と買わされ
、一日中甘えられるという事もあったのだが、長くなるので今回は省略させてもらう。
射命丸は今までにない速さでメモ帳に何かを書いているが、多分そこには俺、または外の世界の男についてのマイナス方面の記述がされているのだろう。
だから言いたくなかったんだ、と内心うんざりする。

「…まあ、このことについては言及はしないでおきます。時間が無いので次の、というか最後の質問です」

俺の心の内を読んだのか、あるいは紫を恐れてか、射命丸にしてはあっさりと次へと話を移した。
まあ、質問の内容は聞かなくても分かるのだが。

「紫さんのお願いとは何だったのですか?」

「そうなるよな」

俺の意識が無くなったという所で話が終わったのだから当然の質問である。
しかし、

「お前なら気づいてるんじゃないのか?」

「あー、お会いした時から違和感は有ったんですが、その言葉で確信が持てました。その妖気…○○さん、貴方、人間じゃなくなりましたね?」

「うん、正解」

そう、今の俺は人間ではない。
紫のお願いとは、俺を自分の式にする事だった。
式になると主の力を分け与えられる事で相当強くなれるし、寿命も伸びる。
俺はただの人間だったが、紫の式になったことで紫と同等程度の寿命を得たらしい。
また、式は主が命令した事には基本的に逆らう事が出来ない。
主が望めば生死さえ自由だろう。
寿命を伸ばす為か、もう自分を裏切らせない為か、あるいはその両方か。
何故俺を式にしたのかは聞いてはいないが、多分そんな理由だろう。

「むむむ…しかし、恋人が主人というのはどうなのでしょうか」

俺の返答を聞いた射命丸が腕を組み難しそうな顔をする。
恋人でありながら主従関係であることに疑問があるようだ。

「主従関係って言っても、俺は紫の式になってから何かを命令されたり強制されたりした事はないぞ。あいつもそんな事するつもりはないみたいだし。まあ形式的なものだ」

「念の為の保険という事ですかね?」

「ああ、それが一番近いかも」

有り得ない事だが俺が万が一もう一度浮気をするような事があれば、紫は確実に躊躇い無く主の権力を行使する。
まあ、有り得ない事だから保険は保険のまま終わるだろうけど。

「あー、あと一つ」

「なんだ?」

「○○さんは、紫さんの式になって良かったのですか?」

「ああ、人間であることにそんな執着はなかったし、なにより俺は紫を愛しているからな」

紫の隣に並んで歩けるのなら式になるというのはむしろ最高の選択だろう。
射命丸は俺の言葉を聞いて驚いた顔をしたが、やがて満足そうに頷いた。

「ふふ…いやはや、それはどうもご馳走様です。なるほど…どうもありがとうございました。記事…にするかは分かりませんが、貴重な話を聞けました」

「おう」

「では、紫さんが飛び掛ってくる前に私は退散しますね」

そう言うと、射命丸は一礼をして山の方へ飛び去って行った。
飛んでいく射命丸を見送っていると、背中に軽い衝撃が走る。
見ると紫が抱きついていた。

「長いですわ」

「まあ、そんなに短い話でもなかったし」

「そんなの知らないわ!○○は私のなのに!」

少し離れただけだというのに泣きそうな声で紫は拗ねていた。
なんというか、紫のこういう所は本当に愛おしい。
藍さんもそう思っているのか、少し離れた所で微笑ましいものを見る目で俺達を見ていた。
ああ、そう言えば後で紫を引き受けていてくれた事に礼を言わなきゃな。

「ほらほら紫、藍さんも見てるし取り敢えず帰ろう」

「…抱っこ」

「あー、うん」

外でお姫さまだっこを強請る事に少しでも恥じらいを持ってほしくて言ってみたのだが、藍さんが見ているということは紫にとって取るに足らないことらしい。
紫が俺の腰に回していた手を離したので、紫の方に向き直って紫を抱きかかえる。
お姫さまだっこというものは案外抱いている側も抱かれている側もしんどいのだが、紫が嬉しそうに俺の首に腕を巻き付けているのでまあ良いだろう。

「○○」

「なんだ?」

「好きよ」

「奇遇だな、俺もお前が好きだ」

「…そういうのは私がいない所でやってほしいのですがね」

そうして俺達は、そんないつものやり取りをしながら、自分達の家へと帰るのであった。

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最終更新:2015年06月16日 23:17