これほどまでに、はらわたが煮えくりかえしそうになった事は、過去になんて一度も無かった。
 誰に対しての憤りか、それとも不甲斐無い自分に対しての叱責か。
 ああ、そうだ。今目の前で、ただ泣きじゃくるしかない彼女を抱きしめる事も、触れる事も、声をかける事も、見る事ですらも出来ない自分への怒りだ。



 眩しい、そう呟いたのは誰だったか。ああ、そうだ、目の前の真黒な球体だ。
 夏季のこのくそ熱い日差しに対して誰もが苦言を漏らすのも仕方が無いと言えるが 丁度太陽の光が俺に掛からないようにする様に付き纏う、黒い球体。
 触れる事は出来ないのか黒い球体に手を伸ばしてもすり抜けるばかり。それが顔にかぶされば視界は黒一色何も見えやしない。太陽が眩しい事よりも視界が見えない事に苦言を漏らす。

「光の下に生きて何が楽しいの?」

 そうは言われても、光が無ければ人間はなにも見えんと反論すれば「でも眩しい」とのこと。どうしろと、どうしようもない。

「お前はそうやって付きまとって、何か楽しいのか?」
「君の反応が面白い」
「帰れ」

 「私が帰るのは貴方の元だよ。」その言葉にはいまだに実感が持てない。もうすぐ一年、この黒い球体と過ごす事になって。
 初めて遭ったのが夜の屋根上。月を見ていたら急に月蝕が起こり始めた、かと思えばコレが落ちてきた。真っ直ぐ俺の家に向かって落ちてきたおかげで屋根に穴が開いた。その屋根を修繕させるまでの付き合いだった筈。
 次に逢ったのは昼間の屋根の上。日向ぼっこをしていたら今度は日蝕、かと思えばまたこれが落ちてきた。再び屋根を修繕させるまでの付き合いだった筈だ。
 どちらの時も黒い球体。初めて目にした時、自分はビビりにビビってそのまま失神したことは思い出したくない。目を覚ました時、目の前にやっぱりソレがいて再び失神した。
 何もしてこない事を気になりどうしたのかと鼠のように怯えながら訪ねてみたら屋根を直したいとの事。それは願ったりかなったりと俺はそれを頼んだ。そこからの付き合い。

 コレの、彼女の正体を見たのは何時だったか、最初の時もその次も絶対に見せてはくれなかった。ああ、今からちょうど一年前か。新月の夜に、再び落ちてきて、偶然闇が晴れてしまった時か。
 手元の消そうと思っていた蝋燭の灯火が黒い球体の正体を暴いた。それが間違いだった事ははっきりと言える。

「これからもよろしくお願いします」
「だまれ」

 今思えば、こいつはそれよりずっと前から自分の事を見ていたのだろう、ピンポイントでウチの屋根を壊してくるのもおかしな話だ。
 この前日記を書いているのを見かけて、それをある日にこっそり覗いてみれば日記の始まりは7年前、しかも俺を見かけた時から始まっていた。怖い。

「ずっと一緒だよ」

 その言葉に一体どんな意味が込められているのか。以前の教訓から俺は何も返答せずにただその黒い球体の中心部をじっと見据える。


屋根から、灯火の明かりも無い空を見上げて、綺麗だなと口の中で言葉を転がして、自分で柄にもないとそれを笑う。
 森の中の、小さな一軒家。木の板を繋いだだけの様な質素とすら言えないような小屋が今の、そして昔からの住まいだ。
 親は、母が"外"からやってきた人間らしい、父は"中"にいたタダの農夫。
 そんな父が母に一目惚れして、幾度の求婚に遂に母が根負けして、挙句の果てに二人の間に出来たのが、自分。

 一見これだけを訊けばタダの幸せな惚気話の一つに過ぎなかった。けれど、そうじゃなかった。
 自分は、父の顔も母の顔も、知らない。物心ついた時から、二人は既にいなかった。
 死んだのかと聞かれても答えられない、捨てられたのかと言われても断言できない。
 まるでそれは神隠しのようで、だから自分はそうであると、だからどうしようもなかった、そう思っていたいから、そう信じている。

 両親は死んだんじゃなくて生きている、両親は自分を捨てたんじゃなくて帰ってこれないだけ、そう信じる方が幸せだから。

「そうじゃなきゃ、やってらんねえ」

 吐き捨てるように出した弱音は、夜空に誰に聞かれる筈もなく消えていく。
 こんな森の中に、自分以外の誰かがいるわけが無いのだから。

「ぐわー」

 そんな気の抜けた、演技としか思えないような悲鳴?が空から落ちてくるまでは。
 なんだと空を見続けても、星々が見えるばかりでなにも…、いや、一か所、まさに一点だけ妙な…。
 そうしてやばいと思った時には、即座に屋根から飛び降りた。

 数瞬遅れてグワシャンっと、あっさりと住処は倒壊し、頭痛の種が設立された。

「またお前か、またお前なのか…」

 絞り出すように誰に向けた言葉は返事は返らず、妙に思って散乱した用具の中から火元と提灯を掘り出して、照らし上げる。
 提灯に照らされた、小屋の残骸の下で何やらモガク存在。これが住処を破壊した悪魔の正体かと思ってれば、内心は"またか"と、呆れと苛立ち。
 おい、と声をかけるが「むがー」だの「もげー」だのわざとらしい悲鳴ばかり。

「ぷはっ、ちょっとは心配してくれもいいんじゃない?」
「明日から何処で寝ればいいのかが心配だ」
「私の事を心配してよね」

 ぷんぷんと口に出してあざとく起こるが、そこから先、自分の言葉は出なかった。
 いつも出あれば黒い球体、今までも、そしてこれからもそうであろうと思っていたのに、今目の前にあるのは、黒い球体では無かった。

明かりは手元の提灯と星明かりだけというのにこれはどういうことか。
 月明かりに照らされるような金の髪をひとつまみ、金糸に映える紅は、髪をひとつまみ束ね結んだ髪飾り。
 口元から垣間見える白金の様に綺麗な並び揃った小さな歯に、此方を射抜ぬく二つの双眼は鮮血の紅。

 これが黒い球体の正体か。
 暴く気も無ければ知る気も無く、しかし目の前にはいまその正体が暴かれている。

「それがお前の正体か」
「惚れた?」
「幻滅した」
「どういう意味?!」

 これまたあざとくうっふんとか言い出しやがったから、表現できる限り最大限の落胆したリアクション。
 あり得ないとこの世の全てに裏切られたような表情で慄き嘆く姿は、その言動こそ知ったものであるが、その素顔に正直自分が驚いている。
 口上では平然と軽口を叩いておきながら、その実声音、表情、態度全てがビビっている自分は、失神だけは免れる。

「お前、子供だったのか」
「大人ならよかったのかコノヤロウ、あと数万年したら男も腰が砕ける絶世の熟れた美女だよ。首洗って待ち焦がれて悶えるといいよ」
「カラカラの骨になって首の骨まですり減りなくなるな」

 言葉を交わして改めて、この子供が、あの黒い球体だと実感する。
 妖など、その外見など信用出来るモノではない。自在に姿を、言葉を変え、人間を誑かし、喰らう。そんな奴らばかり。
 信頼はしても信用はしてはいけないのだ。

「で、正直なとこ、どうなのよ。アリ?ナシ?」
「ムリで。名前も知らない相手と付き合えません、この話は無かった事に。きっと良い相手が数万年後に現れます。どうかそれまでお元気で」
「これってもしかしてフラれた?」
「もしかしなくても」
「つまり押しかけオーケー?」
「アウト」

 この黒い球体とのやり取りは、これで何度目だったか。
 初めての会話、初めて出会って最初の言葉は「私と暮らそう。」過程をどこまで飛ばしている?

「とりあえず球体さん」
「いきなり他人行儀になった」
「小屋、直してください」

 それが、初めて黒い球体の、黒い球体の姿以外を初めてみた時の、何度目かの接触。

昼が明ければ月、夜が明ければ日が昇る。
 コッコッと木に鎚を叩く音が一定の間隔で、止まっては鳴り、止まっては鳴る。
 所詮用途を失っただけの木材を集めて束ねて小屋の形に仕立て上げていただけ、雨風なんぞ完全に防げるわけではないし、それがどれだけ小さい子供であっても、屋根の上に落ちれば穴があき倒壊する。
 利点と言えば、そんな薄い板ばかりであるため、例え倒壊しようとも下敷きになって圧死するという事が無いくらい。身体を退かす程の風が吹いてもばらばらだ。

「こんなものかな」

 簡易的、質素、大いに結構。雨風を防げるだけで少なくとも今の季節、凍死だけは免れる。
 少女が小屋を直す姿を見るのはこれが初めてだが、少女にしてみれば何度目かの作業、手なれた手つきで小屋は以前よりも一回り大きく、そして心なしか頑丈になったように見える。
 腰に手を当て額を拭うと、まるで良い仕事をしたと言わんばかりに「ふぅ」と息をついた。

「起きているんでしょ」
「こんな指示を出した覚えは無いな」
「出来る女は夫の意向を聞かずと汲むモノだよ」
「文句は言わんが謝礼も言わん」
「男は背中で語るんだね、大胆なんだから!」

 「ぽっ」と口に出しては困惑させる言葉をつらつらと並べ立て、一睡もしていない自分ははっきり言って眠くてこれ以上言い返す気も起きやしない。
 少女が小屋を二夜にして再建させている間に自分は散乱した生活用具を風呂敷に纏めていたのを、完成した小屋の中に無造作に放り込む。

「どうしてそんなぶっきらぼう嫌うのよー」
「嫌いじゃないさ」
「突然の愛の告白だなんて、ドッキリラブロマンス?」
「ライクの方向で」
「残念」

 少女の言葉は嘘か真か、舌をチロリと出してあくびを一つ。
 手に持つ鎚をクルリと回して空へと投げると、重力に従って少女の手元へ。その片手には息絶えた野鳥が一匹、お見事。
 
「朝ごはんにしようか」
「捌こう」
「もちろん。木の実でも見つくろってくるわ」

 まるでドライな会話、けれども悪くは無い。一人暮らしの身なれば、たまにであらばこんな趣も良いものだ。
 木の実を集め戻ってきた少女と共に迎えた朝は、心穏やかであった。
 素焼きの鳥に齧りついては味のしなくなるまで骨までしゃぶり、木の実を一つ二つと口に運んで終わり。

「そんなわけで今日からよろしく」
「いやちょっと待て」
「ごめんね、木の実はこれだけしか近場に無かったの」
「違う。なんで一緒に住む事になった」
「私が建てた家だから私が済むのに問題が?」
「新しい小屋建ててくる」

 食後の運動とばかりにすぐさま立ち上がり、鉞を手にしていざ森の中。
 後ろから少女がふよふよ漂ってくるが振り向く必要は無い。
 「手伝ってあげようか」と言われるが、手を貸せばやはり一緒に住みつこうとしてくるんだろう。
 人はこれを妖に魅入られた、取り憑かれたと言うのだろう。

「自分はお前の名前も知らないし、お前も自分の名前を知らない。お互い見知らぬ関係。オーケー?」
「うんうん、草木の影で互いの体液が交わるほどに身体を重ねて絡め、熱く長い一夜を一緒に過ごした関係だね、オーケー!」
「言葉とは難しいものだ」

 真夏の暑さに耐えつつも、野獣や妖から身を隠すために草木の陰に隠れて眠っていれば、身体に妙な重さを感じて目を覚ませばコイツが涎を垂らしたのしかかるように眠っていただけのこと。
 おかげで少女と自身の汗が交わり、正直起きていたほうがましだったと思うほどじっとりとしており、ぜめて川で身体を洗い流したい気分だ。
 はっきり言って気分最悪、早いところ身体を洗い流して気分を一新したい。


「なんでついてくる」
「このあたりは野獣が多いのだ、がおー」
「野獣のほうがオマエよりかわいいな」
「なんと…」

 実際ここらにいる野犬などは、既に餌付けしてある程度は慣らしてある。が、そうでない獣が多いのもまた事実。安心などは出来ない。
 犬畜生以下な事実を突き付けられて「なんということだ」と膝から崩れ落ち地面を凝視する少女の姿は滑稽である。

「でも実際、なんでついてくるんだよ」
「怖ろしい野獣から守るためだよ」
「野獣よりオマエのほうが怖ろしい。ほら、お前の方がアイツらよりも格が上だぞ、よろこべ。」
「わーい!…あれ?」

 一体何を隠しているのか、はやり妖は信用は出来ない。たとえどんな事があっても、信用はしてはいけない。
 小川で身体を洗い流している間に、少女は姿を何処かへ消して、戻ってきた時には鉄錆を撒き散らしたような臭いに僅かに咽る。

「近づくなよ?血の臭いが移るだろうが、余計な事で害敵誘き寄せるようなことすんな」
「そうしたら私が守ってあげるよ」

 身体の至る所に獣か妖か、または人か。赤黒い血を満遍なく滴らせた少女が戻ってきても、驚く事は無い。
 少女は妖、その事実だけで十分だ。人が野菜を食べて驚かれるだろうか?犬が骨を齧って怯えられるだろうか?つまりそういう事。
 確かに初めて会った時は、自分が襲われるのかと思い、生存本能の値が振り切って失神したが、そうでないと分かればそんなもの。
 危険だろうと、恐ろしかろうと、自分に害をなさないなら、必要以上の警戒はするだけ無駄。

「君に害なすモノは、私が許さないよ」
「おかげで自分は里にいられなくなったんだろうが」

 少女に何度か出会って、それからの事。
 妖怪憑き、と指を差され、陰口を叩かれ、そして暴力沙汰が起きて、そしてソレは起きた。
 突然黒い弾が見えたと思ったら、喧嘩を吹っ掛けてきた相手が喰われた。それだけだ。
 少女と会う事は少ない、が、少女が自分をみている時間は長い。会ったのは未だに両手で数えられる程度だけれど。
 …妖怪は信用できない。どうしてそんなに自分を見る。自分の何がそんなにお前を引き寄せる。

 ただ分からない事が怖い、知る事が怖い。だから、妖怪が怖い。

「どっせー」

 小川に全身から飛び込む事によって小規模な津波飛沫を撒き散らして少女は笑う。
 全身から赤い滴を滴らせていなければまるで可愛い人間の少女と見間違えてもおかしくは無いだろうに…。
 もっとも、人間らしからぬその綺麗さ、美しさ、可愛らしさが、時折ひどくイビツに見えて、気持ち悪い。

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最終更新:2015年10月06日 11:37