紅葉が風に遊ばれ空を舞っていたのを、儚いと思ったのはいつの事だったか。
山が染まるたび、紅葉が乱れるのを見るたびに、散っていくたび、色を失うたびに、ずっと感じていた。
幼い頃から「ずっとこのままであればいいのに」だなんて子供らしくもなく、しかし今となっては子供染みた想いを飽きるほど抱いていた。
子供の頃に、まだ存命していた両親とそのまた親に連れられて初めて通ったあの道。
紅葉で溢れた並木を、手を引かれて見た時のことを今もずっと覚えている。
降り注ぐ紅葉のその合間に、一目だけ見た、女の子のことを。感じた事を。
パタンと読んでいた本を閉じると、革作りの手提げ鞄へ入れと、まるで吸い込まれるように一枚の紅葉が本と共に鞄の中へ。
長らく腰掛けていた木の幹から身体を持ち上げて、歩き出す。
「会える訳が無いのに、我が身ながら暇な事だ」
青年は自嘲気味に小さく口の中で言葉を転がすと緩やかな坂を下っていく。
紅葉の溢れる並木は風に揺られ、サワサワと耳をくすぐる音を優しく奏でながら、時折パキリとどこかで小枝が折れる音を響かせる。
両親が無くなってから、始めは寂しさを思い出で紛らわすために訪れていたこの場所も、毎年毎年と繰り返しているうちに、今では山が染まると日課のように通っていた。
最初は本当に、ただ両親が死んだことを認めたくなくて。
事実を認めてからは、しかし自身をごまかすため。
完全に受け入れた時には理由を失い、しかし通い続けて。
後付のような理由が、あの日見た女の子に、一目惚れしていたのだと。
胸の内に生まれたこの感情。
言葉を交わした事も、視線を交わした事もない少女の姿に、勝手な幻想を抱いている事は自覚している。
この場所で誰かと出会っても、それがその女の子だなんてきっと気付けないし、相手は自分のことを知るはずも無い。
そう思っていたからこそ、言葉が出なかった。
美しく、儚く、綺麗で、寂しく、切ない。
「―――。」
「………。」
ありえるはずの無い、記憶の中の少女との、一方的な再会。
記憶の中にある少女は、現在と"何も"変わらずに降り注ぐ紅葉の合間を縫うようにして歩いていた。
敷き積もる紅い絨毯を優しく歩き、その髪に一枚の紅葉を飾り付けたその姿は、間違いようが無かった。
およそ十五年も経ったのに本当に何一つ変わらないその姿は、青年の絶え間ない願望をまさしく体現していた。
言葉をかけるべきかどうか。一瞬の躊躇いを吹き飛ばすように一陣の風が吹き、一層舞い散る紅葉が激しく踊る。
風に揺られその身を一歩だけ、後押しされた事によって、パキリと聞きなれた小枝の音が、風の中でも確かに聞こえた。
「あなたは」
「あ、いや…」
音に気付いた少女は、驚くようにこちらへ振り向くと、小さく何事かを呟いた。
だが、風の中でも小枝の割れる音は響いても、少女の言葉を拾う事はできなかった。
なんと声を掛けるべきか、ずっと心待ちにしていたはずなのに、たった一言すら言葉に出来ず、青年はうろたえる。
五秒、十秒、三十秒と、少女と青年は何も語らず、語れずに過ぎ去り、ようやく青年の口から零れる。
「久し、ぶり」
青年は自分を殴りつけたい気持ちでいっぱいになった。相手にとってはじめて会うというのにソレは何だと。
時を巻き戻すことなどできるはずも無く、やってしまったという後悔と恥ずかしさが一瞬にして山のように積もった。
きっと少女は、自分のことを不振な輩と、すぐにも逃げ出してしまうかもしれない。
そう絶望していると、クスリと、眼前の少女が小さく笑った。
「えぇ、こんにちは」
山吹色の髪を揺らしながら少女は慈しむように、ささやくように返答した。
あれ?と思い、少女が聴き間違えたのか、口に出した言葉を自分で聞き間違えたのか?そんなふうに考えるも、少なくとも怪しまれているようではなかった事に少し安堵する。
しかしそれでも、積もった恥辱の念は青年をはやし立てるばかり。
「じ、じゃあね」
「はい、また」
結局はその場から青年は逃げ出すように走り出してしまった。
少女は特に気にした様子も無く、そのまま彼を見送ったが、青年は振り返る余裕すらなく、紅葉に隠れた木の根に足を引っ掛け盛大に転んでしまった。
積もりに積もった山のような恥ずかしさが遂に雪崩を起こしそうになり、ようやく青年は振り向くが既にそこに少女の姿は無く、安堵と共に小さな落胆を感じた。
青年は、その日は家を出る気になれなかった。
先日の醜態が尾を引いて、しばらく誰とも顔を合わせたくなかった。
食事をする度、食器を洗うたび、洗濯をするたび、トイレに行く度、何をするにもあのときの醜態が頭を過ぎり、悶え苛立った。
外を歩く気にはなれない、誰かと話す気にもなれない。今日はずっと本を読んでいよう。そう思って本を開いた途端にまた脳裏に蘇る失態。
上の空。
何も手が付かず、振り払うように拳を床に叩きつけても、もやもやとやるせない感情が胸のうちに燻り続け深々とため息。
戸を叩き大家が自分を呼ぶ声が聞こえるが部屋から出る気も、ましてや歩く気力すら湧かない。
だらりと壁に背を任せて、ぼーっとして居留守を決め込んでいるうちに、遂に戸を叩く音が止み、静寂が訪れた。
だが、静かになればなったで再び蘇る失態。これは重症、もはや呪いのようだ。
「早く忘れてくれ」
あの子も、自分も。あの失態を忘れてそしてもう一度やり直したい。
今日初めてまともに口に出した言葉は、静かな部屋にはただ消えて、ぐったりと畳に身を任せる。
天井の染みを数える柄ではないが、今くらいはそれに興じてみるのも良いかと、一つ…二つ…。
―ガチャ―
「っ?!…え?」
三つと数えようとしたところで、その音に全身の毛が驚きで逆立った。
まさか大家か?と思ったが一向にその後扉を引くような音は無く、猜疑心と、どこからか来る恐怖心から忍足で玄関へ向かう。
しかし玄関の鍵はしっかりと掛かったままで、きっと先ほどの音は大家が扉を叩いてずれていたのが戻っただけなのだろう。
「……。なんだ、ただの気のせいか。」
―ガチャリ―
「うあぁ!?」
唐突に開かれた扉。
思わずしりもちをついて情け無い声を上げてしまい、指の先がじりじりとしびれる感覚が走る。
「なんだい、いきなり大きな声出して。いるならいるって言ってくれなきゃ」
「な、なんだ。大家さんか。」
扉の向こうから現れたのは部屋の鍵を持った大家だった。
なんでも今月の家賃を受け取って無いとか。そういえば払い忘れていたとその言葉で気付き、すぐさま財布から受け渡す。
ひーふーみと大家は金額を確認したところで何かに気付いたように「ちょいちょい」と指で耳を貸せという。
「ま、まだ何かあるのか?」
「あんた、彼女さんいるのかい?」
「は、はぁ?いないよ」
大家は「ふぅん」と言ったきり何も言わず、家賃のごまかしが無いことを確認し「確かに」と言って大家はそそくさと部屋を出ていった。
我ながら小心者だなと、未だに若干震えている足を軽く叩いて、部屋に鍵をかけて、その日を終えた。
紅葉の並木に顔を出したのはそれから七日後の事。
長いというべきか、それでも自分にしては短かったと言うべきか。どちらにせよあのまま転がって腐れているよりは気もマシになるはず。
相も変わらず地面には紅葉の絨毯がしかれており、変わり映えの無いその光景が少し懐かしく感じた。
「流石に、いないか」
八日も前に出会った少女の姿は流石にそこには無く、本当に後悔だけが心に残ってしまった。
けれども少女がそこにいなかったという事実だけでも幾分か諦めがついてしまったのか、荒れていた感情が妙にストンと収まった。
いつものように適当な木に腰掛け、鞄から文学本を取り出して読みふける。
一冊、二冊、三冊…。6冊目を読破し終えたところで流石に体が冷えてきた。冷たい秋風が体温を少しずつ奪っていく。
見上げれば紅葉の天幕の隙間から覗く空は既に茜色に染まって、もう数刻もすれば真っ暗になってしまうだろう。
今日はもうこれまでと、読書を切り上げて本を鞄へ戻し始めた所でふと違和感を感じて振り返ろうとする。
「もう、帰るので?」
強く吹いた風の音に紛れるように、静かな、水面に波紋が広がるような印象を受ける声が耳をくすぐった。
心臓が飛び出すかと、思わず立ち上がりかけていた身体が硬直しそのまま尻餅をつき、その声の主に驚愕する。
手に持っていた本をズルリと足元に落とし慌てて回収しようとすると、横から自らのものではない白い手が先に本を拾い上げた。
「どうぞ」
「え、あ…えっと」
あまりの状況になんと言葉にすれば良いのか。
山吹色の髪をした少女は拾い上げた本を青年に手渡すと「どうかしました?」と、首を僅かに傾けて疑問符。
「ありがとう」、「ごめん」。そんな二言もうまく口に出せずにしどろもどろにうろたえる姿を、少女には次第に面白く見えたのかクスッと笑い。
「ごめんなさい、おかしくて」
「あ、いや…。こっちこそごめん、本を拾ってもらって」
不幸中の幸いか、少女の言葉に流されるようにして、ようやくまともな事を言えたことに、達成感を感じる。
渡された本を落ち着き無く慌てて鞄の中へ納めて礼を言う。
「文学がお好きなのですか?」
「え!あ、いや…。」
不意に問いかけられた言葉になんと解答すべきなのだろうか。
確かに文学は嫌いでは無いが、されど好きというほどでもない。
どちらかといえばその、読んでいるときの雰囲気が好きなだけだ。そんな感じのことを言葉を噛みながら何とか伝える。
「そうなのですか」
「文学が、好きなんですか?」
鸚鵡返しに、問いかけられた質問をそのまま返す。
少女は少しだけ頭をかしげると、「いいえ」と言って自分と差して変わらないと言う。
「あの…その…、なんていうか…」
「はい」
「お名前を伺っても…?」
自分は一体何を口走っているのだろうか。
少女はきょとんとした表情でこちらを見ている。きっとすぐに逃げて言ってしまうんだろうな。
いや、きっと逆に自分が聞かれる立場だったら、先日のようにまた逃げ出してしまっていたかもしれない。
「えぇ、良いですよ。」
しかし少女の反応は違った、青年の希望を快諾してくれたのだ。
自分で期待しておきながらいい返事が返ってくるとは思っていなかった青年は、逆にきょとんとしてしまう。
「私は、―――。」
「え?」
しかし何たる不幸か、あるいは神の悪戯か。
少女が自らの名前を口に出そうとしたと単に一陣の風がざわめき、少女の言葉をかき消してしまった。
当てて聞き直そうとするが、それは流石に失礼ではないかと言葉を詰まらせる。
「よろしくおねがいします。貴方は…、なんというお名前なのですか?」
「あ…」
もう、聞き返せる空気ではなくなった。
青年は焦燥感に駆られながらも勤めて冷静に取り繕いながらも自らの名を口にして、心臓の早鐘を感じる。
少女は何度か青年の名を何度か小さく、噛み締めるよう反芻している。
「覚えました、素敵なお名前ですね」
「ど、どうも…」
どうしよう。
一言会話が繰り返されるたびに、焦りが募る。
日は既に暮れ始め、少女は「また、会いましょう」と一言残して、歩いて何処かへ行ってしまった。
本当に…、どうしよう。
目が覚めたのは翌日の夕方だった。
結局そんなどうしようもない不安に駆られ続けて、眠ったのは月がその仕事を半分終えた頃だった。
眠りすぎて気だるい身体を、質素な布団から出す気力も沸かずだらだらと数時間。きづけは再び外は暗くなっており出歩くような時間ではなくなってしまった。
半分に欠けた月は、それでも雲ひとつ無い空では十分な光で夜道を照らすのだろう。
青年は、ただ気まぐれで光源を持たず、ただ月明かりだけを全面的に頼りによるの世界へ踏み込んだ。
いつもなら賑わう広場も、普段ならごった返す道行も、今このときだけは人っ子一人居やしない丑三つ時。
ふらふらと当ても無くさ迷い歩いてはいるものの、こんな時間では開いている店も無く、語り合う隣人もいない。
月が昨日と同様再び傾き始めた頃、青年はふと歩く足を目的を持ってその進路を変えた。
「やっぱり…」
そう零した言葉は、眼前の紅葉の並木への感想だった。
太陽の明かりは無けれども、欠けた月明かりに照らされた紅葉もまた、鮮やかに彩られていた。
思えばこんな時間にこの場所へ来るのは初めてで、だからこそこの光景を見たのは初めてだ。
はらりはらりと、時折舞い落散る赤の色は、やはり儚く、寂しい。
「美しい。そう思いませんか?」
「………、え?」
風が、青年を中心につむじを巻いた。
散り積もった紅葉は鮮やかに空を泳ぎ、月明かりを赤い天幕のように遮った。
暗い視界、風の唸りの中に誰かの声を知った。
「あるいは、儚いと」
赤の天幕が羽のようにゆっくりと下げられた。
月明かりは再び青年を、世界を、そしてそこにいる筈の無い山吹色を映し出した。
青年は我が目を疑い、自らの正気を訝った。
しかし、それでもそこに在るのは紛れも無い、見間違えるはずの無い存在。
「君は…」
「また、会いましたね」
山吹色の髪に紅葉を飾った少女の姿は、青年は見紛う事など出来やしなかった。
記憶と寸分の違いも無いその姿、昨日にも出会ったその姿。十何年も前から知っているその姿。
青年は息を飲み、そして少女が鮮やかに微笑んだ。
最終更新:2015年10月06日 11:43