22>>23>>25のさらに補完
その晩、烏天狗はある使命を帯びて竹林の奥の屋敷を訪ねた。
最近、紅の館もろとも消え失せたあの男について調査だ。
数日前、里を探索していると稗田家のものに声をかけられた。
当代の御阿礼の子が話をしたいとのことだった。
屋敷を訪ねると、挨拶もそこそこに依頼を持ちかけられた。
あの男のことだ。
彼はあの通りの人物なので、求聞史紀に項目を作りたくてもそれができない。
だから、彼のことを比較的よく知っていると思われる竹藪の奥の連中にいろいろと聞いてきてほしい。
天狗はすぐに話を受けたかったが、その場では答えを出さずに上役に判断を仰いだ。
自分の職分から逸脱すると思ったからだ。
バランス感覚に優れる天狗の面目躍如といったところか。
少しして、上司からゴーサインが出た。
決定が下されるまでどのようなやり取りが上層部で行われたのか。
彼らはどのような利益が見込めると判断したのか。
彼女はそういったことについてあたりをつけられる程度には聡い女だった。
だが、拝命した時にはそんなそぶりを見せなかった。
彼女にとっての賢さとは、まさにそのような種類のものなのだ。
あの男のそれとはまるで逆。
稗田家に依頼の受諾を報告するための道行、そんなことを考えては自分の不自由さをわらった。
彼女はあの男が苦手だった。
それでいて好きだった。
いや、彼女だけではない。
妖怪という妖怪は皆、あの男に引け目と真摯な愛情を感じていたのだ。
あの男が幻想郷に住み着いてから一月ほどしてからのことだ。
彼はそのときすでにちょっとした有名人になっていた。
霧の湖のほとりに滞在し、生き残っている。
これは不思議だ。
彼女は仲間を出し抜いて独占取材を試みた。
結果は芳しくなかった。
何を質問しても、彼は黙殺した。
これでは何も書けない。
だが、彼女はなにか書かねばならない。
結局、わずかな印象を元に彼女流の「真実」を引きだし、それを記事にした。
仲間内での評判は、予想に反してそう悪くはなかった。
だが、それは自分の目の届く範囲での話だ。
陰でどのような口を叩かれているか想像するだけで彼女は憂鬱になった。
彼にも報告しなければ。
出来上がった記事を取材相手に見せるのが彼女の習いだった。
あの男は、記事を手渡すとそれに目もくれずにこう言った。
何も話さなかったのに、新聞なんて書けるのですか。
軽く怯んだ彼女にさらにこうたたみ掛けた。
先日鬼に聞いたのですが、あなた方はずいぶん不自由な思いをしていらっしゃるようですね。
なにを、といぶかしげな様子で天狗が尋ねると、人間はこう続けた。
言い方を変えようか。あんたは自分の居場所を守るために真実を売ったんだ。
瞬間、天狗は全身がひきつり、呼吸が止まるのを感じた。
見透かされた。
緊張の波が去ると、次はひどい脱力感が彼女を襲った。
反論する気になれない。
殺す気にはもっとなれない。
今こそ理解した。
この人間が何故ここで生きて行けるのか。
何故、あのスキマ妖怪が「電卓女」呼ばわりされても手出しできないのか。
妖怪の真価とは何か。
圧倒的な力。
実にわかりやすい、しかし平板な理解だ。
本当はこうだ。
胡散臭さ。
妖怪は強い。
それは事実。
だが、彼らは思わせぶりな態度でその、実際の強さを何倍にも拡大してみせて人間を縛り付ける。
これこそが妖怪の本質。
鬼のいない現在、あのスキマ妖怪がもっとも妖怪らしい妖怪として君臨している理由。
そして、それもいまこのちっぽけな人間に見破られてしまった。
殺しあいも所詮は人と人(妖怪)とのやり取りにすぎない。
そこには腕力でも覆せない、微妙な力関係が存在する。
その点で負けた。
恥も外聞もなく地に伏した彼女の所に男が何かを持ってくる。
それはひとかけらの角砂糖だった。
これが彼のせめてもの贅沢というわけか。
胸の内で呟きつつ、それを放り込む。
甘い。
口に出すと。
男が。
砂糖ですから。
真面目な、真面目すぎるくらい真面目なその調子に軽く笑う。
砂糖ですからね。
そう合わせながら、彼女の心のなかで何か固いものが、それこそ砂糖のように溶けていくのを感じた。
あの、と月の兎が言葉を発する。
天狗は今となっては遠い、甘美な疼痛を伴う思い出から現実に引き戻される。
その、師匠は今出られないそうです、兎が続ける。
玄関先でずいぶん待たされたあげくこれか。
軽く嘆息して覚悟を決める。
こういう場合、てっとり早く自分の要求を通す方法が幻想郷にはある。
あれをやるか。
月の兎の後、抵抗はとくにない。
途中で出くわした年経た兎が眼を伏せ、見て見ぬふりをすると、他のものもそれに倣った。
容易に薬屋の仕事場にたどり着く。
戸を叩いて中に入ろうとしたそのとき、何かが飛び出してくる。
天狗が忌々しげにそれをのけようとした瞬間、それが人間の男、それもすでにここにはいないはずの彼であることに気付く。
なんで、と口の中でその疑問を反芻する。
ひどく憔悴した様子の男を抱き起してもっと良く見ようとした彼女の耳に奥から声が聞こえてくる。
これもだめだ。
それは、はたしてこの部屋の主人のものだった。
ゆらり、ゆらりと歩み寄り、天狗の腕から男をもぎ取ると、抜き手でもって薬屋は彼の胸を何の躊躇もなく貫いた。
どっと倒れる彼に近寄ろうとした天狗を薬屋は一喝した。
やめろ。
天狗も負けていない。
あなたは自分が何をしたのかわかっているんですか。
感情をむき出しにした天狗を見ると、憑き物が落ちたように茫洋とした表情で薬屋は言った。
それは偽物よ。
は、と言葉を失った様子の天狗から眼をそむけ、彼女は続ける。
彼がここにいたときにちょっと「一部」を頂いてね、でっち上げたの。
口を大きくあけたままにしている天狗をおかしそうに見つめたかと思うと、今度はひどく取り乱した様子で喚き散らす。
でも、だめだったの、偽物はやはり偽物、原典ではないのよ、ほら。
男の遺体をぐいと掴むと天狗の顔に押し付ける。
ここが違う、ここも、そう、ここも、ああ、ここも違う、だめ、こんなのは彼じゃない、ほら、ここもこんなになって。
死体が喚起する生理的な嫌悪感だけでなく、もっと根深いところから生じる目の前の女への恐怖に天狗は震える。
大きく翼を広げ、その場から脱出をもくろむ。
待ちなさい。
ぞっとするような金切り声が背中にぶつかり、いよいよ速度を上げて屋敷から飛び出す。
竹藪を抜け、さっと視界が開けるのを確認してからようやく一息つく。
もう大丈夫だ。
だが、それですべてが解決したわけではない。
あれは何だったのだろう。
薬屋の態度に、いなくなったはずの男と彼のクローン。
そういえば彼女の主はどこへいったのか。
ごちゃごちゃとした、それでいて強烈なもろもろの印象が彼女を苦しめる。
今日はもう何もする気になれない。
神社にでも行こう。
鬼を誘って酒でも飲めば楽になれるかもしれない。
天狗は彼女に似合わぬ弱々しい様子で飛び去った。
最終更新:2011年03月04日 00:46