端午もとうに過ぎたというのにどうした訳か今年の春嵐は一向に衰える気配が無い。未だ春一番の勢いそのままに吹き荒ぶ強風が轟々と板戸を揺らしている。
空色は一日中、薄ぼんやりと曇って肌寒い憂鬱な春である。水に温もりが宿り始めてもこの風の中、好んで歩き回る者はいまい。幻想郷の場合では好んで飛び回る者も少なくなった。
さすがに高僧、聖白蓮は然様な俗世の煩いで自らの職務を怠る事はしなかった。
――本日正午。貴宅にて命蓮寺の畳替えに関する諸々を御相談に伺いたい。
との伝言に違わず定刻通りに現れた尼僧は特徴的な色彩の長髪が風に吹かれ
て少々縺れている他、常と変らぬ御伽噺のような身形であった。
「この度は御尽力頂き何と御礼を申し上げたら良いか」
 柔らかな笑みと共に畳に手を付こうとする高僧にはこちらの方が恐縮して思わず制止していた。
「いや、俺は大したことは」
晩冬。命蓮寺の本堂にて作務を終え一息吐いていた舟幽霊を鵺がからかって喧嘩になり、それを止めようとした毘沙門天の弟子が転んで手から落ちた宝塔が暴発し畳一面を焼き払ったそうだ。
俺も話を聞いた時は何が起こったのか要領を得なかったがそれらの原因など些事である。
不味い事には命蓮寺では年の瀬に本堂の畳替えを終えたばかりで、真新しい畳が一瞬で灰燼に帰した故に新たにそれらを購う費用を捻出する必要に迫られたのだ。
これにはさしもの温厚な高僧も諍いを起こした弟子たちをきつく戒め、財宝を集める異能による事の解決を禁じ、隣人との和の重きを知るべく浄財によって修繕を行うべしと命じたのである。
こうしてしばらく寒空の里にて托鉢に立つ命蓮寺の面々が見られた。
程無くして徳の高い僧侶があれではあんまり哀れだ、この畳替えの勧進を役場の方で幾許か融通出来ないかと里の彼方此方から声が届いた。
どこでどう噂が広まったものか役場に寄付を持ち寄って預けていく命蓮寺の檀家衆も現れ始め直に後を絶たなくなった。
聖白蓮の人徳の為せる業か役場内からも賛同の声が多く上がった事もあり、偶々俺が浮いていた役場の予算に集まった寄付を併せて命連寺へと送り届けた。
以上が事の成り行きである。
事程左様に俺の助力などまさしく微力であったのだが白蓮は深く感謝してくれた。この件が落着するまでの間、何度も何度も関係者各位や役場を巡り礼を言って廻っている。俺もこうして礼を言われるのは初めてではない。
「とんでもありません。稗田さんや里の皆様が示して下さった御仁愛は忘れませんよ。今度は寺の者たちと改めて御礼に伺わせていただきます」
 恐らくこの尼僧はそれこそ托鉢の鉢に小銭を投げ入れた者も含めて全ての恩人の家をこれから廻る積りであろう。
「それに私たちのような妖怪ばかりの寺に人里が救いの手を差し伸べて下さるのは奥様のお蔭でもあると思うのです」
 何故そこで阿求の名が出るのか。
「奥様、阿求さんが書かれた書物で人々は妖怪をぐっと身近に感じる事でしょう。それが人と妖怪が平等に暮らす世の中の助けとなってくれているのです。そうですそうに違いありません。奥様にも御礼を」
 自分で自分の表情が少し引き攣ったのが分かった。白蓮の事だからこれは社交辞令ではない。それ故に非常に都合が悪い。
「いや、それには及ばない。妻は今仕事が立て込んでいるようで」
「まぁ、それではまた後日改めて御礼に。そうです来月の――」
「実を言うと近頃は体調があまり優れないようでな。失礼ながら気を使うばかりだから来客は断っているのだ」
 自分の言葉で力を得て更に力を増す。聖白蓮は穏やかな心の中にそういう熱意を内包した御仁である。断る時ははっきりと口にした方が良い。
白蓮はしきりに弟子を伴っての再訪を望んでいたがいずれも丁重にお断りしておいた。
何度も何度も頭を下げて礼を言う尼僧を労ってやりたくなって菓子を持たせ玄関から送り出した。
この強風の中これから何件の家を廻るのだろう。一つの家にこれ程時間をかけて夜までに寺に帰れるのだろうか。遠ざかっていく背中を見送りながら少々心配になる。
だがあの人徳故に集った浄財により広大な命蓮寺本堂の畳替えは無事成ったという。

聖白蓮と少しばかり立ち話をしてから玄関を潜ると異様な物を見た。
花曇りの影に浸された陰鬱な屋敷の廊下を阿求が丁寧に雑巾がけをしている。先程白蓮を応対した客間から玄関までを一心不乱に。
古く磨きこまれた稗田家の長廊下は鏡面のように曇りなく顔が映る程だ。そこに冷たい阿求の瞳が映りこんでいた。
俺が近寄っても顔を上げる素振りさえなく薄闇の中、鈍く光る眼でひたすら床板を磨き続けている。
真白い割烹着を身に着け三角巾できつめに頭髪を纏め上げた阿求の横顔には幼いながらにきりりとした目が更に引き締められて凛々しさと可愛らしさが同居している。
その目が血走ってさえいなければ意味も無く頭を撫でてやりたいところだ。
 どんな僅かな汚れも見逃すまいとする張り詰めた表情からは、執念の様なものまで感じられる。
「阿求。そこは女中がついこの間――」
「汚れています」
「そうか? 塵一つ無いように――」
「汚れて、いますから」
 これだから聖白蓮の再訪を断ったのである。
 あの美しい尼僧が訪れる日、必ず阿求は凄まじく機嫌が悪い。
 きゅっきゅっ、と新雪を踏むような音だけが暗い廊下を満たした。阿求の蝋人形のような血色の指先は機械のように正確に床を磨き上げていく。
自らの指先の仕事の出来を俯いたままじっと見つめている阿求の顔は何かを憎んでいるような或いは痛みに耐えているような表情である。
阿求が深い嫉妬や不安と闘っている時、大抵こんな顔になっている。
 じっと床を見詰めたままで不意に阿求が言った。
「白蓮さんは」
 新雪を踏む音は言葉の間も絶え間ない。
「お綺麗、ですよね」
「一体何を――」
「お優しいですし、溌剌として……明るくて」
「……阿求」
「お話も弾んだようで」
「阿求」
「あなたが好きな胸だって……」
「阿求っ」
 強く名を呼ぶとぴくりと阿求の背が震えて、ようやく床を磨く手が止まった。
「……はい? 」
 薄暗い廊下の影の中で阿求は幽かに微笑んで顔を上げた。全てを正確に記憶し忘れないという異能を持つ阿求は思い詰めていても、聞こえているし見えている。
俺に対して抗議の意図がある事は明白であった。
「その辺にしておけ。体が冷えるぞ」
「はい、もうすぐ終わりますから」
白々しく微笑んで阿求はそれきり口を利かなかった。
夕食の時も。風呂の中でも。眠る時も。必要な事以外は。
無言は不和。即ち夫婦喧嘩の温床と成り得る。
流石に俺にも今までの夫婦生活の経験がある。ああ、これは喧嘩になるなという覚悟はしていた。阿求の方も同様の覚悟が出来ているであろう。

 一般の常識に照らせば風呂まで一緒に入っておいて何が夫婦喧嘩か理解し難い事であろう。
更に理解し難いだろう事に、俺と阿求の夫婦喧嘩は寝床の中で互いを固く抱き締め合ってから開始される事が最も多い。
阿求が眠る際、俺の首筋に抱き着いて眠るのは毎夜の常だが、その晩は特に四肢の全てを蛇のようにきつく俺の体に絡めた。
闇の中でも互いの吐息の熱を感じる距離では阿求の目付きが怒りで鋭くなっているのが分かる。

こうして閨の闇に二人きりとなってようやく阿求はその心情を吐露し始める。
「――ですからおかしいじゃないですか。あちら様は御礼をしにいらしたのでしょう。それを菓子折りまでお渡ししては他意を疑われて当然でしょう」
 阿求は俺の頬を両手で挟み込んで鼻と鼻を擦り付けるようにして詰問した。
「どこがおかしいのだ。互いが互いに礼を重んじただけだろう。いやそれ以前に来客に土産を持たせて何が悪い」
 少し阿求が窮屈そうだ。腕枕の位置を変えてやった方が良い。
「そんな事をしてもあちら様が余計に気を使うばかりでは? それに今、一般の礼法についてお話ししている訳ではありません。
あなたが女の人、特に美しい方にばかりお優しい事についておかしいと言っているのです。別にあなたが普通の態度であればこんなお話なんてしていません。何ですか白蓮さんが来る度にデレデレして」
 今度は俺の肩が布団から出ているのを阿求が見つけた。小さな手が俺の肩に布団を掛け直す。
「はっ。俺がいつデレデレなどしたのだ。えぇ、言ってみろ阿求。どうせいつものように監視していたのだろう。お前が白蓮を苦手にしているだけではないのか」
 そろそろ泣くかと思って阿求の頬を掌で撫でて濡れていないか確かめた。今の所、涙は流れていない。代わりに阿求がスリスリと頬擦りを返してきた。
「別に苦手などではありません。せっかくのお菓子をわざわざお土産にあげてしまうような事をデレデレしていると言うのです。あれでなければ私も何も言いません」
 阿求が布団の端をくいくいと引っ張る。これは一緒に頭まで布団を被ろうという合図である。
「だからあの菓子の何が問題なのか聞いているのだ」
 頭まで布団を被ると僅かな光も遮られた漆黒となった。愛おしい者の熱と匂いの充満した狭く柔らかな闇に閉じ込められた弾みで互いの唇が触れた。ついでにどちらからともなく口づけた。
更に阿求がぐいぐいと体を寄せて来て俺の腕を引っ張った。これはもっときつく抱き締めろという合図である。
「忘れたんですか? あのお菓子は今度のお休みに二人で食べようって約束して私が御用意しておいたんじゃないですか」
尻の辺りから抱え込むようにして抱き止めると、感じるのは阿求の柔らかな体と互いの息遣いのみとなった。
「忘れていた訳では無い。茶菓子など別に何でも代わりになる。どうでもいいことだろう」
 俺の胸の辺りに顔を埋めていた阿求がもぞもぞと俺の体を虫が這うように上ってきた。
「どうでもいい? どうでもいいですって。どうしていつもそんな言い方しか出来ないのですか? ……もう知りません。怒りました。明日はお着替え畳んであげませんから」
 売り言葉に買い言葉で興奮しているらしい。そのまま俺の頭を抱えるように抱き締めた阿求の鼓動は大きく聞こえた。
「おい、ふざけろ。脱ぎ散らかしておけと言うのか。……面白い。それなら俺も明日は一緒に風呂に入ってやらん」
「それとこれとは関係ないでしょう? そんなのただの嫌がらせではないですか? あなたのそういう所は本当に子供っぽいですよ。
では明日は一緒にお茶の時間は無しという事でいいのですね。ちょうどご用意したお茶菓子も誰かさんのお蔭で無くなりましたし。寂しくなっても知りませんから」
「ふん。こちらの台詞だ。お前こそ明日俺に甘えたくなっても知らんからな」
阿求は無言で一層強くぎゅうと俺の頭を抱き締めて返答した。

翌朝。
「阿求。俺の新しい足袋はどこだったか」
「……知りません」
身支度を整える際に聞くと阿求は生気の無い声でそれだけ返事をした。まだ機嫌は直っていないようだ。何か言いたげにちらりとこちらを見た阿求と目が合った。
その表情にも生気が無く、なんだか顔色も悪いように見えたがすぐに俯いてしまった。
仕方なしに一人で顔を洗いに行く。冷水で頭を冷やしながら煩悶した。こう長引くと仲直りの切っ掛けが掴めないものだ。
廊下を戻ると阿求の姿はなく真新しい足袋が置かれていた。
その日は稗田家内の雑事を片付ける為に自分の書斎で一日を過ごした。村政や金繰りや奉公人たちの陳情に目を通していてもどうにも気が散って仕方がない。
何より一人で飲む茶の味気無さには辟易した。
阿求も今こんな気持ちだろうか。阿求も自室で仕事をしている筈である。この書斎を出て少し歩いて阿求に会いすまなかったと伝えればこんな思いはせずに済むのだ。
ああ、下らない意地を張った。さっさと謝りに行こう。とようやく決意が出来たと同時に俺の書斎の襖が開いた。
「……どうした阿求」
そこに立っていた阿求は何も答えないままトボトボと書斎へ入り襖を閉めた。俯いていると今朝よりも一層、顔色が悪いように思える。
「阿求」
名を呼ぶと阿求は下を向いたまま、しかし迷い無い足取りで近寄って来ると無言で座っていた俺の膝の上に身を投げ出した。
「仕事はもういいのか」
 阿求は俺の腹の辺りに顔を埋めたままぎゅっと抱きついて動かない。
「……もう書けません」
 固い声で阿求は言った。
「疲れたのか」
「もう、駄目。書きたくありません。手に付かないんです何も。ですから、もう書けません」
 拗ねた幼い子供の声は俺の体に口を押し付け喋るのでくぐもって聞こえた。
その細い首筋を撫でてやりながら出来る限り優しい声を出した。
「阿求。喧嘩の事なら俺が悪かった。丁度今から謝りに行こうと思っていたところだ。機嫌を直してくれるか? 」
「……いえ。いいえ、悪かったのは私です。それにもう、そんな事はいいんです。どちらにせよ私は、もう……。
楽しそうに話すあなたと他の女の声が耳にへばり付いて……だから、二人きりの世界へ行けばこんな思いしなくてすむのにって、そんな事ばかり考えて、仕事をしていても気付くと紙がぐしゃぐしゃで。とにかく……とにかく……」
 阿求の背はぶるぶると震えていた。
「あなたっ! もう書けません! 一緒に逃げましょう! 」
 突然顔を上げた阿求が切羽詰った表情で叫んだ。
 かと思うとすぐ膝に顔をぐりぐりと埋める。
「もういやあー。いやですぅ。疲れましたぁー。ギュッてしてぇー」
普段の阿求とは別人のようだがこれは〆切間近などに稀に起こる阿求の発作である。
阿求ほど筆働きに慣れた者でも調子の悪い時はある。
阿求は大々的に出版される有名書籍以外にも大小の執筆を依頼されており先祖の書物の改訂及び編纂作業も相まって一日中筆が手放せない程に忙しくなる事もある。   
そういう極端に煮詰まった仕事などの懊悩が限界に達した際に起こる発作がこれだ。遠慮せず弱音を吐き恥も外聞も無くひたすら俺に甘え続ける。
今回は俺との喧嘩による心労が引き金になったものであろう。関係修復が遅れた為にここまで追い詰めてしまったのだ。
このわがままな子供への退行が阿求なりのストレス解消方なのである。早ければ一刻ほどでいつもの澄ました阿求に戻る。だからこの変貌に余り心配はしていない。
またこの退行が阿求の不安定な精神を保つ事に大きな助けとなっている。俺も結婚前のような事態に陥るのはなるべく御免蒙りたい。阿求がこのような状態になったらなるべく甘やかすことにしている。
阿求も阿求でこういう箍が外れた時に思い切り甘える事を楽しみにしている節がある。
「遠くへ。どこか遠くの誰もいない山奥に行ってずっと二人きりで暮らしましょう。ねっ。いいでしょう。あなたぁ」
「そうかそうか。辛かったな阿求。とりあえず紅茶をおあがり」
 伴侶なのだからこういう時の扱いは慣れたものだ。その上俺にも過失がある。つい過剰に甘くなってしまうのも致し方ない。

膝に顔を埋めたまま動かない阿求の背をぽんぽんと叩きながら語りかけてやる。
「真面目に聞いてくださいぃ。私は真剣にお話しているのですよ。あなたさえお許し下されば私は誰にも見つからない住処の一つや二つ簡単に算段を付けられるのですよ。実はすごいんですから私」
 大袈裟ではないだろう。この見事なお子様ぶりからは想像も出来ないが殊に、頭脳に関して言えば阿求は妖怪の賢者たちにも比肩し得る。
策謀と交渉によってあらゆる邪魔が入らない愛の巣を本当に作りかねない。
「えへへ……。そこで小さいけれど住み良い家を建てて朝も昼も夜も二人っきりで誰に気兼ねする事もなく一日中睦みあっていましょう」
 夢のような日々を想ってようやく阿求の頬が緩んだ。そうして俺の膝に頭を預けたまま阿求はうっとりとした現実逃避を続ける。
「俺はこの屋敷での生活も気に入っているが」
「うぅ。どうしてあなたまでそんなに意地悪を仰るんですかぁ。私と二人きりではご不満ですか? 」
 阿求の小さな頭が再びぎゅうっと俺の膝に押し付けられた。
「絶対に素敵な暮らしになるのに……。どうして分ってくれないんですか。ふん、もう良いですよ。いつかあなたを無理矢理に連れ去ってしまいますから」
「分かった分かった。ほら頭を撫でていてやるからこのまま少しだけお休み」
「そんなので誤魔化されませ……あ、ふぅ。あなたぁ……。手も握って下さい」
 要求に従い手を握りつつ頭を撫でてやる。さらさらと阿求の髪が指の隙間を通り抜けた。ふとその指先に妙に熱が篭っている事に気が付いた。
握り返した小さな手もぐったりと力が無く重く熱い。
「む。妙に体が熱いな。熱があるぞ阿求」
「ふぇ? 」

「ただの風邪ですよ。心配しないで下さい」
「うむ……。しかしな」
「平気ですってば」
 すわ大病か、と早とちりした女中や使用人たちが大慌てで用意した床の中で阿求は澄まし顔で軽く微笑んだ。
恐らくは季節の変わり目の偶々冷え込んだ日に暗い廊下で一日中拭き掃除などした所へ気苦労が重なったせいであろう。さすがに俺も責任を感じる。
「阿求様、旦那様。永遠亭に遣いを出す支度は整って御座いますが」
 年嵩の女中が廊下から声を掛けた。俺が女中を呼んだ途端、阿求の退行は止まった。いつもの事だが人目がある時は別人のような変貌ぶりである。
「ああ。結構ですよ。せめて明朝までは様子を見ます。それで酷くなるようならその時改めて八意先生に往診をお願いしましょう」
 奉公人の厚意を気遣って病床の中で微笑すら浮かべている阿求には先程までの子供じみた様子など微塵も無い。発熱に気付いてから時間が経ち徐々に熱も上がりつつある。
それなりに辛いだろうに阿求は落ち着いたものである。むしろ、やれ医者を呼べ、常備薬を持て、湯を沸かすのだ、と騒ぐ俺や使用人たちを宥めて諭していた。
「この家の人たちも、あなたも少し私にたいして過保護というものです。お陰で寝ているのが申し訳なくなってしまいます」
 ただの風邪に御阿礼の子の儚さを想い沈んでいた俺に阿求は柔らかな声音の軽口を利いた。その気遣い一つ一つが先程まで俺の膝の上で甘えていた少女と同一人物とは思われない。
更に悪くなった顔色に涼やかな苦笑を浮かべ寝乱れ一つ無い行儀良さで静かに身を横たえている。その年齢に似合わぬどこか超然とした微笑こそ稗田家当主、稗田阿求のものであろう。
「畏まりました。それでは旦那様。しばらくお願い致します」
 女中は心配そうに阿求を一瞥して襖を閉めた。
 廊下を遠退いていく女中の足音が聞こえなくなった途端である。
 寝床の中から病身とは思えぬ勢いで阿求が思い切り飛び付いてきた。
「うぅわあああん。辛いです苦しいですしんどいです。なでなでしてくださいあなたぁ」
やれやれ少なからず感心していたのだが。予定外の発熱により中断はしてもストレス発散は続くようだ。
しかし幼児退行を起こしている時に寝込んでいるとは面倒なものだ。風邪の時はただでさえ弱気になるものだというのに。
「うう。喉が痛いです。鼻も詰まって苦しいですし節々も痛いですし寒気もしてきました。いよいよ駄目です」
 苦笑したが矢張り余計な心労を掛けた俺の落ち度でもある。今日は一日相手をしてやろうと決意した。
「ああ、あなた。あなたと結婚して幸せな一生でした。お先に私たちのお墓でお待ちしておりますから。四季様にあなたの事はお話ししてありますから心配しないでまっすぐ私に会いに来てくださいね。
あなたに抱き締められて逝けるなんてこんな末期は望外でした。でもその幸せともお別れなのですね。ああっ……死後も一緒ですから少し離れ離れになるだけと分かっていても身が裂かれる思いです。
庭をご覧下さい、あなた。あの木の最後の葉が枯れ落ちた時、私も死ぬのです」
「そういう台詞は冬に言うものだ。気が長い話だな」
「どうしてそんなに冷たいのですか。もっと甘やかして下さいよぅ。もう絶望です。あなたが冷たくするから希望が絶たれました。これでは助かる者も助かりません。
生きる望みも無いですし、死んであなたの枕元に化けて出ます。そうして一生あなたに憑り付いて……あっ。それはそれで良い気もしてきました」
幻想郷では洒落にならない脅しである。
「それは残念だな。今日は一日傍に居て食事を食べさせてやったり体を拭いてやったりしてやろうと思っていたのだが」
「………………もう少し生きてみようと思います」

「しかし弱りましたね。紫様から急ぎ整理するように頼まれていた文献整理が残っているのですが」
「そんな事は気にするな。紫には俺から話しておく。今はゆっくり休め」
 甘え疲れたのか随分言動は大人びてきた。それでもまだ俺の膝枕の上、目は潤んだまま寝床の中で自分の指を甘噛みしている。
「慧音先生に授業で使う書の見本も頼まれているのです」
「上白沢先生には俺から使いを出して遅れると伝えておく」
「博霊神社宛てに祝詞の清書が」
「あの巫女はどうせ祭事の直前まで確認せんだろう」
「お夕食の仕込みもまだです」
「こんな時ぐらい奉公人に頼め」
「……でも、私はいつもこんなですから、出来るだけ夫婦らしい事がしたいんです」
「それなら今日は俺が用意する」
「まぁ。あなたがですか? うふふ。それではお願いしましょうか」
「それより、お前の場合はただの風邪でも油断がならぬ。矢張り一応、八意先生に往診を頼んだ方が良いか」
「もう。今さっき過保護だと言ったでしょう。少し横になっていれば平気ですから」
「ならば他に何かして欲しい事は無いか、阿求」
「うーん。そうですねぇ」
 微笑して阿求は目を閉じ考える振りをした。その額に汗で髪が張り付いている。明朗に振舞っているが決して見掛けほど楽ではないのだ。
この落ち着いた振る舞い様にはこちらの方が力を貰う。偶に少し甘えるぐらい何であろうか。
「まぁゆっくり考えておけ」
そう言って俺は阿求の頭をそっと枕に戻し立ち上がった。この上余計な心労まで掛ける事は出来ぬ。普段の仕事に加え今日は家内の雑事も全て俺が始末する必要がある。
「あなた」
 寝室を出ようとすると寝たきりの阿求に声を掛けられた。
「どうした」
 俺は思わず体ごと阿求に向き直った。その声が、先程までの明るさが嘘のように空ろにか細く聞こえたからだ。まるで寒さに凍える者のように力無く響いたからだ。
「いえ、あの。どちらへ行かれるのかな、と思いまして……」
 俺が大袈裟に振り返ったので阿求は少々気まずそうに目を逸らし、声は尻すぼみに小さくなった。
「粥でも作ろうかと思ったのだが」
「……今は食欲がありません……それより、その……今日はずっと傍に居て下さるのですよね? ……お、お添い寝して下さいませんか? 」
 妙な所で遠慮しなくてもいいのだ。
阿求の隣に横になるとその小さな体が俺の方に擦り寄ってきた。
「ん、ふふ……あなた。頭なでなでとお背中とんとんもして下さい」
 頭と背中から伝わる熱は更に上がりつつある。少し長話が過ぎたようだ。
熱に火照ってはいたが幸せそうな顔でじきに阿求は眠りについた。なんだか本当に阿求が年相応に幼くなったように感じる。
幼子の寝息というのは聞いているとこちらも眠くなってくるものだ。
いつしか俺の目蓋も落ちた。
どれ程時間が経ったろうか。茜色の光が障子紙を透かしている。
廊下から俺を呼ぶ女中の声で目が覚めた。
「旦那様。命蓮寺の御住職様がお会いしたいとの事で御座います」
ぼんやりした頭で記憶を手繰り寄せる。
ああ、例の件の続きだろうか、と推量した。
「すぐに行く。お待たせしておいてくれ」
女中が廊下を足早に戻っていく気配がした。
何だか体が重いが来客ならば起きて身形を整えなければならない。身を起こそうとすると、成程道理で重い訳だ。
阿求が何やら切羽詰った様子で必死に俺にしがみ付いていた。
「……行かないで下さい」
「阿求。少し話をするだけだ。すぐに戻る」
「いや、嫌です……行かないで。私より白蓮さんの方が良いのですか」
 その瞳は熱のせいで虚ろであった。高熱に浮かされて正常な情緒を欠いているのだ。
「それでは今日は話せないと言いに行く。それだけ伝えに行かせてくれ」
 そう言えば俺も何だか体が怠い。阿求の風邪がうつったかもしれぬ。
 女中にお引き取り願うよう伝言を頼もうかと思ったが既に気配は遠ざかっている。
 色々考えて体を起こそうとした、その時。
「死にますよ、私」
 ぞくり、とした。
 その声に昼間のような甘えはない。多分本気だ。
 思わず見詰めた阿求の顔は、何かを憎んでいるようでもあり痛みに耐えているようでもあり。
 何よりもまず阿求を安心させてやりたくなった。どうせ女中を呼ぶなら大声を出さざるを得ないし面倒だと思った事も有る。
とにかく気付けば大きく息を吸い込んでいた。
――聖白蓮殿。度々の御足労、誠に痛み入る。しかしながら今、我が最愛の妻を愛でるに手が離せぬ。寝乱れた姿を晒すのも心苦しい。
後日俺から伺おうから本日はお引き取り願う。ご容赦あれ。
 稗田家の屋敷は広い。玄関まで聞こえたか分からなかったが、後で使用人に聞いた所によれば、急に顔を赤くしてそそくさとお帰りになったという。
その用向きは、見事な鯉が手に入ったが庫裡ではなるべく生臭物を避ける事もあり何より阿求の体調が優れぬと聞き是非精を付けて頂きたいと持参したとの事であった。
 叫んでしまった後で猛烈に後悔した。どうやら矢張り俺にも風邪がうつっているらしい。ぼうっとした頭で馬鹿な事をやったものだ。
 頭を抱えている俺をくいくいと布団の端を軽く引っ張る阿求が現実に引き戻した。
 見ると阿求は風邪とは違う熱で蕩け切った顔であった。
 阿求の潤んだ瞳に何かを言う前に暖かな闇が俺を包み込んだ。
喧嘩も仲直りも、阿求にとって俺と二人きりの世界は狭ければ狭い程良いらしい。
「おい待て阿求。何故脱ごうとする。暑いのか」
「はい……。はい。とっても熱いのです。堪らないんです……あなたぁ」
 夢現の判断が今一つ付いていない阿求の熱が更に上がっては堪らない。
もぞもぞと動きながら俺を呼ぶ阿求を安静にさせるべく抱き締めてもう一度目を閉じた。
最終更新:2016年03月29日 20:45