「付き合った日数の分だけ、お主の借金を減らしてやろうかい?」
茶屋の中でマミゾウは唐突に○○に告げる。
何気ない会話の中でふと言われたこの言葉は、借金を抱える彼にとって
みれば、とても有り難く受け取られる筈であると、彼女は軽く考えていた。
 会話の中の軽い冗談、遣り取り、彼女からしてみればいわば、
そういった類いのものである筈であるのだが、彼からすれば酷い
裏切り、不意打ち、そういった類いのものであった。

 其れまでの雰囲気は何処へやら、険しい顔をして無言に
なってしまった彼を見て、彼女も漸く自らの失敗を悟るが、
喋り出した勢いは止まらない。寧ろ毒も食わば皿までと言わ
んばかりに、言葉は踊り出す。
「一日あたり一円として、どうじゃ一ヶ月もあれば、大分減ろう?」
 彼女にしてみれば、彼を其れ程買っているとでも伝えたかったであろうが、
生憎彼には届かない。薄い硝子の器に入った亀裂を塞ごうと手で必死に
割れ目を押さえるも、水は忽ち減ってゆき、遂には押さえつけられた
硝子が砕け散る。-失望した-と彼は彼女に告げ、そのまま挨拶もせずに
その場から去っていった。

これでも彼は、彼女を憎からず思っていたのである。赤白の巫女の
ような強欲さが美徳である、金を貸すという非情になる輩が
幅を効かせる商売をしながらも、他の人妖とは異なり彼女は理知的で
ありつつ、情がある。彼女の丸い眼鏡から見える目は、
彼にはさながら翡翠や瑠璃といった、綺麗な宝石の持つ人を引きつける
魅力をを放つように、彼は密かに感じていた。
 しかし彼は今の彼女は嫌いであった。国宝と呼ばれるような壺にも
罅が入ると価値が落ちるように、彼女の目にチラリと見えた冷たさは彼をがっかり
させたし、何よりも我慢が出来なかったのは、僅かに浮かぶ厭らしさ
であった。悪人が良いことをすると非常に目立つというが、こと
彼女に至っては、真逆に作用したと言えるであろう。

 一方の彼女も、面構えは堂々たる親分風を吹かせていたものの、
内心酷く狼狽していた-化け狸の癖をして。彼に恩を売り、あわよくば
距離を近づけようとした策が裏目に出たばかりか、彼との仲を
決定的に違えるに至っては、とても平静ではいられなかった。
 普段の温厚な人柄からは全く想像がつかないような、不快感を露わに
して去って行く彼に向け、彼女は縺れる舌で呼びかけるが、彼には
全く届かない。彼の背中は拒絶を雄弁に語っており、離れて行く
後ろ姿を止めることができずに、彼女はもはや項垂れることしかできなかった。

 数日が過ぎ彼が仕事に行こうと扉を開けると、五尺も離れていない所に
マミゾウが立っているのが目に入ってきた。先日の彼女の言葉を思い出した
彼は、そのまま無言で彼女の横をすり抜けて行くが、彼女は色々話しかけてくる。
やれ済まなかったやら、本当はそんな積もりでなかった等という声を聞くと、
彼はかえって腹が立ち、一層足を速めるのであった。
 無視をしていれば、その内立ち去るだろうと思っていた○○であったが、
存外マミゾウは彼に付いてきた。昼が過ぎ、夕方になり、遂には日が暮れて、
家の扉を鼻先で思い切り閉めた後も、暫くは呼びかける声が聞こえていたのだから、
相当であるといえよう。その日は腹の虫が治まらず、○○は酒を流し込んで
眠りについた。
 翌朝、○○が頭痛に苛立ちながら家の戸を開けた時には、五寸しか扉と離れて
いない所で彼を一晩中待っていたマミゾウを見ることとなり、その瞬間彼の頭痛
は一層酷くなった。彼はその日も彼女を無視したが、昨日までの怒りの中に、
幾ばくは恐ろしさも混じりつつあり、仕事をしている最中に幾度も気がそぞろに
なったが、兎も角彼は彼女と目も合わさずに、家に帰ることができた。
しかし家に居ても彼女が呼びかける声が聞こえてきており、それも昨晩
よりも遅くまで聞こえるような気がして、彼は布団を頭から被って、眠りについた。

 翌日とうとう彼女が、扉にしがみつくように立っているのを見たときには、
彼の心臓は大きく飛び跳ねて悲鳴を上げた。そのまま駆け足で家から逃げ
出すものの、彼女はやはりついてくる。一昨日は弁解、昨日は謝罪、そして
今日は懇願になった彼女の声を、後ろの方から絶え間なく聞きながら、
諦めるどころか一層悪化している状況で、彼女から逃れようと彼は夢中で
走っていた。
 彼がふと気がつくと、いつの間にか先日彼女と仲違いをした茶屋に着いていた。
荒れた息を軒先で整えて一息付くと、急に彼の腹の虫が騒ぎ始める。走っている
ときには気づく余裕すら無かったが、そういえば朝から走りっぱなしで、何も食べて
いなかった事を思い出した彼は、蕎麦をすすり食事を満喫するのであった。
 いやに代金が安い事にはついぞ気づかないままに。


 久々にマミゾウから逃れて食事を満喫し、晴れ晴れとした気分で彼が店を出ると、
茶屋の影から誰かが声を掛けてきた。普段ならば気にも留めない声であったが、
気分が良くなっていた彼は、不用心にそちらに近づいていき、
  振り切ったはずのマミゾウに出くわすこととなる。
「やはりきてくれたんだねぇ、お前さんは。」
などと妙に嬉しげに話し始めた彼女を見ると、彼は無性に腹が立ってきて、
壁にマミゾウを押しつけて詰問した。もう二度と関わるな等と強い言葉で
彼女に告げるのだが、彼に話しかけられた事に舞い上がっている彼女には、
全く通じない。終いには感極まって、彼の服に手を掛けて顔を寄せるマミゾウにに
気味が悪くなった彼は彼女を突き飛ばし、重くなった胃を抱えて遁走した。
-三十六計逃げるに如かず-と将棋では言われるものの、大駒落ちどころか
歩三枚しか自分の持ち駒が無いのであれば、あまりにもあんまりで早晩
行き詰まるのであるのだが。

 あまりにも速く走ったせいで、彼は途中胃袋を空にする羽目になったが、
それだけあってどうにか家に帰り着くことができた。しかし彼が家に着く
頃合いを見計らったかのように、またもやマミゾウの声が闖入していた。
 完全に恐ろしくなった彼は、扉を開けて直ぐそこにいたマミゾウの肩を掴み、
大声を上げて前後に揺さぶるのであるが、彼女の頭はぐらりぐらりと揺れ動くも、
彼に触れられて顔に益々笑みを浮かべる姿を見るに至って、彼はある決心をした。
最早殺すしか無いと。


 ○○はマミゾウを家に放り込み、扉を閉める事も忘れてのし掛る。
怒りの形相を浮かべて力を込める彼に、マミゾウは目を見開きつつも彼の
腕を掴むのでは無く、彼の肩の後ろに手を廻して自分の側に抱き寄せてくる。
嬉しい嬉しいとか細い声を漏らしながら、彼女の息を顔で感じること暫く、
彼にとっては長いようで、彼女にとっては短い時間が経った後、動かなく
なった彼女を見て彼は、遂にやったかと思い彼女から体を起こし、
その後手を離そうとするが、指が固まって動かせない。
 そこまで強く力を込めていたことに思わず苦笑いを零し、彼は手の力を抜こう
とするが途端に彼女の胸元に引き戻された。
 安心した所から一転、死んだ筈の相手が生きていて驚く彼に、マミゾウは耳元で囁く。
「お前さんそんな位で、妖怪が死ぬと思ってたのかい?
人間の問屋が卸そうとも、妖怪の借金取りがそうは卸さないよ。」

 男の行方は以後知れず。

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最終更新:2016年03月29日 22:09