不死の病
私は今、幸福の絶頂にいる。
彼が私を好きになってくれた訳ではないが、
私は彼の恋人として振る舞っている。年老いた
父親に色々言われることを避けたいがため、
という消極的なものであるのは残念だが、
彼と一緒に居られることで自然に嬉しくなってしまう。
もし彼とずっと一緒に居られることが出来るなら
どんなに素晴らしいかと思ってしまうのは、仕方がない
ことであろう。
彼は村にいる若者である。何でもない人であるが、私が炭を
売っている最中に彼を見かけて以来、何故か頭から離れず
村を歩く最中に、ついつい彼がいないか道すがら目で捜して
しまっていた。
これが恋だと気づいたのは何時であろうか。慧音と夏目ウナギ
屋で夜遅くまで飲み明かした日であろうか?それとも、偶に
彼を見つけた時に茶屋で話した時出有ろうか?あるいは一目
見た時からかもしれない。蓬莱人として長く生きてきたが、
まるで御伽草子のように単純に恋したことは、私にとっては
初めての事であり、それ故に無味乾燥な中で生きてきた中に、
甘く脳髄をとろけさせるような、水飴よりも濃いものが入って
きたときには、衝撃を受けた。
このような感情を輝夜が弄んでいたことに、少しどす黒い
感情が胸の中に湧き上がったが、彼と話をする度ごとにその
蟠りが気にならなくなるような、余裕が出来るような、そんな
気分になっていた。
こんなにも彼に対する感情が膨れあがっていたのであるが、
私は彼に気持ちを伝えることが無かった。恋が甘ければ甘い
程、これを失うことが恐ろしく、頭の脳裏にそんな気持ちが
忍び寄った時には、甘い感情は吹き飛び心は千々に乱れ、この世の
終わりのように手先が凍え、視界が灰色となる。失神をした
人ならば分かるかも知れないが、視界に光は入っている筈で
あるのに目の前から色が消えていき、こうなったら最後、
私は胸を押さえて只嵐が収まることを待つことしかできない。
失恋を考えただけでさえ、このような絶望が襲ってくるので
あるから、彼に告白するなどという恐ろしいことは私には絶対に
することができなかった。私にできるのは彼と話をして、徐々に
距離を縮めることだけであった。勿論彼にもっと近づきたいと
いう感情は私の中から溢れていたが、私は自分の心にしっかりと
蓋をして、ジリジリと焦燥に駆られながらも唯々怖がっていた。
本当ならば乾坤一擲と大勝負にでるべきなのかも知れない。
しかし不死鳥と呼ばれる力を身につけても、或いは自分の体は
死んでも元に戻るようになってから、私は逆に失敗に臆病に
なった。失敗することが無くなり、失敗を恐れるようになる。
再生の炎もこの病には効果が無い。
そんな煮え切らない日々を送っていた私であったが、ある日
幸運が舞い込んできた。彼が私にしか頼めないことだと言って、
自分の恋人の振りをしてくれないかと、頼んできたことだ。
彼に近づく女の噂は、理性では聞かない方が良いと耳に蓋を
していても、本能が求めているのか彼に恋をして以降、引っ切り無しに
耳にするようになっていた。彼に近づく邪魔な女を引きずり下ろせと
心の奥底から声が聞こえ、時折り夜中に彼が他の女に取られる悪夢を
見て目が覚めることが増えてきた中で、まさか彼の方から私に
そんなことを言ってくるとは思ってもおらず、思わず冷淡に彼の
申し出を受け止めてしまったのかもしれない。
しかし、私は幸運を掴んだ。彼の父親は以前から彼に、恋人を見つけるように
言っていたらしいが、その父親が病気となり具合が悪くなってしまった
ことから、彼も父親を安心させようと、取り敢えず恋人の振りを
してくれる人を見繕うとしたのであった。彼を何とも思っていない
人物ならば、大いに怒るか弱みに付け込んで大金でもせしめるのであろうが、
私は何の条件も付けなかった。生憎彼は、私が何の見返りも求めなかった
意味を感じることはなかったのであるが、私はそれでも満足であった。
彼と仮初めででも恋人になったということは、私にとって何物にも代え難い
ものであった。
彼と私との交際は、彼の言葉通り外面上のものであった。彼の
元に時折通うが、彼は私に触れようともしない。私としてはこのような
上っ面の関係を越え、もっと深い関係になりたいと思っていたのであるが、
彼は自分が言い出したことには妙に頑固であり、一線を踏み越えよう
とはしなかった。
何か切っ掛けでもあればこの仲が進展することもあろうが、
私は自分からこの関係を壊すことがやはり恐ろしく、彼に仕掛けることが
できなかった。それでも彼に近づく女を排除することができ、私は満足して
いた。いや、正直に言うと問題から目を背け蓋をしていただけである。
幸運の女神には前髪があるのであるが、後ろ髪はない。ただ待っている
だけの者は、彼女を捕まえることはできないのである。
彼の父親の病気が悪くなったと聞いた時には、普通の恋人ならば悲しんだり
彼に同情したりするものであろうが、私が最初に感じたものは恐怖であった。
私は卑しくも彼の父親が死ぬことで、彼が私との関係を終わらせることが
何よりも怖かった。彼との関係に身を甘んじていただけで、満足し彼に
近づくことを怠ったばかりに、今彼を失うことに酷く怯えている。彼が
居ないこの日常に耐えることは今の私には到底できず、千年前に感じた絶望を
また感じることになると思うと、私は平静を保つ事が出来ず頭を掻き毟っていた。
ばらばらと髪が落ち畳に零れた様子を見て、私は漸く少しだけ落ち着いた。
そうするとどん底に落ちた所為か、不思議と彼との関係が終わっても仕方が無いと
思えるようになり、彼の父親の見舞いに行く見舞い品を選ぼう。そう思った。
しかしその時ふと自分が千年前に手に入れた、贈り物のことが浮かんだ。
それはまだ自分が持っており、彼の父親に使えば死ぬことがないであろう。
父親が永遠に死なないのであれば、彼もまた私を永遠に必要とするであろう。
そうすれば、私は永遠に彼とこの関係を続ける事が出来る。そう考えると
私は居ても立っても居られず駆け出した。
きっと明日は素晴らしい日になるであろう。
最終更新:2016年05月23日 21:47