夜も眠れず


 紅魔館に命からがら逃げ込んで、彼女に匿ってもらい早数カ月。
以前から自分に声を掛けてくれていた彼女が、妖怪であることは
そこで初めて知ったのだが、妖怪に狙われていた自分にとっては
それが却って好都合となったことは、運命の皮肉であろうか。
 門番として働く彼女にとっては、自分を付け狙っていた低級の
妖怪なんぞは歯牙にもかけることはなく、イタチの妖怪を正に一撃で
粉砕する場面を見た時には、自分にとって彼女は命の恩人に思えた。

 しかし困ったことがある。妖怪に狙われた時よりも一層、彼女が
自分のことを気に掛けてくるのである。敢えて語弊を恐れずに言う
ならば、自分に執着しているとでも言えよう。
 件の妖怪は既に死んでいるのだから、自分はもう狙われることは
ないのであるが、彼女は自分が目の届かない場所にいることが片時も
ないように、自分をいつも見張っている。いつも「御守り」として
持ち歩くように言われている星型のバッチは、発信器として働いて
いると薄々感ずいているし、それをポケットにいつも入れているの
だから、少しは自由にさせて欲しいと感じる。

 妖怪から逃げてきた先でまた、妖怪に捕まっているのだから、
三文喜劇として文々新聞の小説欄で掲載すれば、さぞ人気を博する
のであろうが、当事者としては中々受け入れがたい物がある。
 そう感じ始めると何故だか急に、外にふらりと出たい感情が
湧き出し、月が出ているのをこれ幸いと、散歩に出ることとした。
普段は持ち歩いているバッチをベットの枕元に置き、懐中電灯も
持たずに上着を引っ掛けてこっそりと屋敷の裏門より外に出る。
 最近は一人で外に出る機会が無かったため、わくわくする
ような、少々後ろめたいような気分で空を見上げると、頭上には
大きな月が輝いており、自分には仄かに赤みが掛っているように
感じられた。

 月が赤く、不吉に感じられたが、慣れないことをしているだけだと
自分に言い聞かせ、夜の湖の岸辺を歩く。かつては昼間によく歩いた
道であるが夜はそれとは異なり、しんと静まり返っている。日中は
暖かくなってきた春先であるが、夜はひんやりとしており風が体に
吹きつけて冷たく感じた。静寂に満ちた小道を歩きつつ久々の解放感
に浸っていると、不意に自分の周りの空気がねっとりとしたように
感じた。

 男は一瞬、気温が上がったかと考えたが、風は相変わらず冷たく
自分の頬を撫でており、触覚は彼に今の温度を正しく伝えている。
ならば今、感じているこれは何なのか?男が暫し考えた末に、忘れ
かけていた事を思い出した。昔妖怪に狙われた時に感じた、第六感
が発するこの独特な、魂が侵されるような感覚を。
 いくら彼が紅魔館で働くといっても、所詮彼は唯の人間。迂闊に
夜の世界に入り込んだことは、気が抜けていたと評されても仕方が
ないことであろう。男は前から来る妖気に背を向けて、一目散に
駆け出すが、獣のような速さで近づいてきた妖気に、直ぐに捕まって
しまう。遂に食い殺されてしまうのかと身を固くした男に、背後から
抱きしめた影はこう言った。
「ああ、よかった○○さんが無事で。」

 「もう、本当に心配したんですから。」
 男を抱き寄せた美鈴はこう言った後、ひとっ飛びで男を紅魔館に連れ
帰ったのであるが、ここで話が終われば、目出度し目出度しとなったであろう。
しかし現実は御伽草子のように、登場人物の望んだように奇麗には終わら
ずに、ドロドロとしたどす黒いものが溢れ出す。

 美鈴に部屋まで連れて帰ってもらった彼であるが、肝心の妖気は
止むことが無く、むしろ強まるばかりである。数カ月前にどこぞの
野良妖怪が彼を狙ったときのように、美鈴から妖気が溢れ出す。
 彼女は笑顔のままで彼に抱きついて、そのまま寝台に押し倒し、
彼の体を蛇のように締め付ける。
「勝手に外に出るような○○さんは、動けなくしないといけないですね。」
そう聞き分けの無い子供に言い聞かせるように、彼女は彼に告げると
器用に自分の足で彼の足を挟み込み、えいと気を込めて骨を折ってしまった。

「気を込めていますので、じっとしていれば痛くないですけれど、一度
動けば激痛が走るので、動かないで下さいね。」
彼女は普段の優しい顔のまま彼にそう告げるのであるが、折られた彼の
方としては堪ったものではない。
「すまん、悪かったから、止めてくれ。」
彼が必死に彼女に謝り体を捩って逃げ出そうとするが、足を動かした
瞬間に激痛が走り、身をくねらせる。涙目になりつつも逃げ出そうと
する彼を抑え込み、彼女は更に残酷なことを告げる。
「そんなに暴れるのなら仕方ないですね。肋骨も折りますから。」
そして左手を彼の背中に入れて抱きしめて、右手を胸に当てて押すと
哀れ彼の胸も右足と同じ運命を辿ることとなった。

少しでも胴体を動かすと激痛に見舞われ、腕と片足しか動かせ
なくなった彼を見て、美鈴は好物を見つけた子供のように、にんまりと
笑みを深くする。
「男性の人は危険に晒された時の方が、返って興奮するんですね。
大丈夫です。私が動いてあげますから。」
そして彼の頭に腕を回し、口づけた彼女は耳元で囁く。
「妖怪って、何日も眠らなくて良いんですよ。だからもう逃げる
ことが出来ない様に、夜も眠れないくらい愛してあげますね。」
最終更新:2016年05月23日 22:11