魔女の契約

 魔法の森には魔女がいる。そう聞いた少年は満月の夜に魔法の
森に出かけていった。里の酔っ払いが少年に喋った話では、魔女は
満月の真夜中に森の外れにある小川の畔に生える、月光草を摘みに
来るという。その話を聞いた少年は居ても立っても居られずに、家
の在庫として埃を被っていたランタンを失敬し、夜の森へと里を
抜け出すのであった。
 夜は妖しの時間である。昼の間ならば人里は勿論のこと、余程人里離れた
妖怪の山のような場所でもなければ、妖怪は堂々と彷徨いたりしない。
しかし夕暮れになると、村の外れに人食い妖怪が出没するようになり、
夜になると人里ですら危ういものとなる。そのため村人は夜には余程
のことがない限り家から出ようとしないし、どうしても外出する用事
がある時には、神社で魔除けの札を買うか霧雨商店から魔除けの香を
買っておき、それを頼みとして夜の道を歩くのであった。

 それを考えるとこの少年は無謀を通り越して玉砕、自殺行為といった
ものであろう。夜の闇に紛れてポツリとカンテラに照らされる少年は
低級の妖怪からすれば、さながら海に浮かぶホタルイカであり-つまり
簡単に見つける事が出来て、美味しく頂かれるということ-この少年が
そういった輩に見つからずに目的地までたどり着けたことは、単純に
運が良かっただけの話であるが、それは果たして彼にとって良かったのか
を考えると疑問が残るものである。即ち、人生万事塞翁が馬。

 少年が小川にたどり着いたのは真夜中の少し前、雲が僅かに浮かぶ
空の中で、月がもう少しで南に辿り着くころであった。小川は穏やかに
流れており水辺には月明かりに照らされて黄色の花が咲いている。
妖怪がいる森を緊張しながら抜けてきた彼にとって、普段見ることが
ない幻想的な風景は心安まるものであり、思わず月光草に見とれてしまって
いた。そして目の前の風景に心を奪われていた彼は、後ろから近づく
影に気づかない。


 少年に話しかけたのはアリス・マーガトロイドであり、彼にとっては
目的の人物であったのであるが、彼は驚いて彼女に話しかけるどころで
は無く、ただ呆然としているだけであった。そんな中アリスはランスを
持たせた人形を操ったのだから、彼は自分が魔女に殺されることを想像し
て失神してしまった。
 アリスは彼を憑けていた妖怪を手元の人形で始末した後、暫く考え込む。
薬の調合に使う月光草を取りに来たものの、そこには見慣れない少年が一人。
放って帰ってしまっても誰も見咎めないのであるが、彼をそのままにして
置くと、確実に先程の妖怪と同じような奴が寄ってきて、彼を食い殺し
てしまうことは確実であった。そのことに少々罪悪感を感じた彼女は、
少年を自分の家まで連れて帰ることとした。少年を見捨てられなかった
彼女は人が良かったのかも知れない。しかしこの場合、彼女が善人である
ことには繋がらない。魔女は人成らず、即ち人でなし。

 彼がアリスの家で目覚めた時には、彼女は家で紅茶を煎れている最中
であった。少年が魔女に力を貸して欲しいと頼むと、彼女は微笑んで
言った。

「君に手を貸したとしても、私に何の価値も無いでしょう?それでも魔女
に何か欲しいのなら、対価を何か差し出さないとね。」

少年には何も無い-そもそも有るのならば、わざわざ危険を冒してまでこんな
里から離れた魔法の森まで来ることは無いのだから。そしてそんな少年が
対価として差し出せるのは、自分自身のみ。

「僕の魂を差し出します。」

「へぇ、本気なの?魔女にそのことを言うなんて。それじゃあ契約成立ね。」

少年がもう少し慎重であったら、契約書の細かい文字までしっかりと見たので
あろうが、しかしその文字が異国の神聖文字で書かれていたり、薄暗い室内で
手元の照明が其処だけ上手い具合に影を落としていたりするのであろうから、
結局は意味が無いのであろう。斯くして少年は魔女に異能を求めた。対価には
少年の魂を、利息は複利を。



 少年はアリスより力を得たのであるが、彼は其れを人里での商売に利用した。
一人でに動く人形、若返る薬、魔物を退ける退魔の結界、こういった物は誰もが
欲しがる物であり、魔女の力を使って魔法の商品を作り出す彼の店は、人里にて
忽ち人気となり、並ぶ者がいない程の繁盛を見せた。
 何も無かった少年は立派な青年に変わったのであるが、元となった魔女との契約は
時折心の奥底より湧き上がり、思い出さずにいられない。しかしこれほどまでに彼は
行動力があったので、魔女の契約より抜け出す策を考えていた。彼は考える。
魔女との契約は自分の魂を賭けていた。しかし魂そのものを返すとは誓っていない、
ならば他の物で代えることができるのではないかと。

 青年は過去に一度だけ行くことが出来た魔女の家に行く。あの後で何回かアリスの
家に行こうとしたのだが、魔法でも掛かったかのように、彼女の家に行くことができ
なかった。まるで魔女がまだ来る時ではないと彼を拒んでいたかのように。
 あっさりと彼女の家に辿り着いた彼は、依然と変わらない扉のベルを鳴らす。
軽やかにベルの音が鳴ると、彼女は昔と変わらない姿で扉を開けた。

「貴方に借りたものを返す時が来ました。」

「あら、そうなの。じゃあ中に入って。」

自分が彼の魂を握っているためか、自信たっぷりに彼を招き入れる彼女。彼は自分が
作った最高傑作を懐に入れ、彼女の家に入った。

「それで、借りを返すということだけれど、どうやって返すのかしら?貴方は魂を対価に
したはずよ。」

「僕の魂を対価にしましたが、僕は魂を支払うとは言っていない。代わりに魂に匹敵する
物をお渡しします。」

-何かしら、面白いわね-と余裕の表情を崩さない彼女に、僕の自信作を突きつける。
賢者の石、魔法を志す全ての者にとって憧れを対価にすることで、僕の魂を魔女より
取り戻す。そう決意して魔女に石を渡した。暫くアリスは手で石を触り、魔力を流したり
していたが、青年の眼前の彼女の顔は余裕の表情を崩さない。彼女が一向に驚く様子を
示さない所か、にやにやとした笑みを浮かべる姿を見て、青年の内心は反対に落ち
着かなくなっていた。やがて焦れた青年はアリスに挑むように話す。

「どうですか、本物の賢者の石でしょう?」

「ええ、本物ね。」

なら、と言いかけた青年の声を遮るように、彼女は告げる。

「私の力を使って。」

「貴方の力を使おうとも、それは僕が作り上げたものだ。」

「ええ、そうね。私も昔其れを作ったことがあるわ。」

-魔界にいた時だから、いつだったかしら-と昔を思い出すようにしている彼女を
見て、青年は自分の見込み違いに気づく。

「まさか賢者の石はそんな簡単に作れる物なのか…。」

「普通の人間には無理でしょうね。其れこそ魔女の力を借りでもしないと。師匠の技を使った
だけでは、師匠は超えられないという事。」

「ならば、僕の魂を回収すれば良い。魂だけをね。あの強欲な商人ですら出来なかったけれどね。」

「あら、本当にして良いの? 魔女にとって魂を抜くことは何でもない事。まあ、契約には複利計算
と書いておいたから、今は膨大な利子が付いているわよ。何せ今の貴方が持っている物は全て貴方の
魔道で作り上げた物だから、回収し甲斐があるわね。」

両手で頭を抱え、唸り込んでしまった青年に魔女が近づき優しく告げる。甘い言葉で更に彼を籠絡する
ために。

「まあ貴方が私の物になれば、全てチャラになるけれど。結婚でもする?」

「年を取らない貴方が魔女なのは、直ぐにバレるさ。」

破れかぶれになった青年の言葉も直ぐに返される。

「あら、魔女にとって姿を変える事なんて容易い事。決まりね。」

青年にとって幸か不幸か、人生万事塞翁が馬。

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最終更新:2016年05月23日 22:34