芥川の河童

 私が彼を訪ねたのは秋も深まる頃であった。
彼は一ヶ月程前より精神病院に入院しており、
一週間と少し前に閉鎖病棟に移されたと、電話
で話した彼の家族は言っていた。
 彼は以前は普通の生活を送っていたのであるが、
或る時に誘拐事件に巻き込まれ、事件の後遺症で病院
にかかっているらしい。小学校の時に同級生
であり、中学以降は学校が異なることからあまり
会う機会が無かったのであるが、年賀状の遣り取り
は欠かさず行っていたし、偶に会う時には一日中
遊んだものであった。だから、彼がそのような痛ましい
事件に巻き込まれた時には心を痛めたし、今も
こうして彼に会いに来ているのである。

 私は彼の病室の前で、彼の家族と電話で話した際に
聞いた話を思い出していた。彼は誘拐、或いは失踪
した際に、神隠しに遭い河童に世話になったと、S県
の山中で放心状態で彼を発見したO巡査に証言したらしい。
 勿論そのような戯れ言には警察は取り合わずに、
懸命に誘拐犯を追ったものだが、彼が行方不明になった
時に他府県の警察本部や、大勢の警察犬すらも動員して
捜索を行ったにも関わらず、煙のように消えたことと
同じように、全く誘拐犯の影も形も見えることがなかった。
 そのため警察や彼の家族は、誘拐の際の恐怖で少々
記憶が混乱している。つまり精神に異常をきたしている
として、彼をT県にある精神病院に入院させることとした。
其処でも彼は相変わらずに河童の世界に迷い込んだと
看護師や見舞い人に言って、通り一遍に受け流されている
らしい。これを聞いた時には、妄想の対応としては初等精神科
の教科書に載っている位当たり前の対応であるが、何だか
少し彼が可愛そうに感じてしまい、せめて私だけは彼の話を
聞いてやろうと思うのであった。


 彼の病室のドアを看護師に開けて貰うと、思ったよりも綺麗な
病室に、白いカーテンと清潔なリネンが敷かれたベットが有り、
そこに彼は横たわって漫画を読んでいた。彼は私が来ると
退屈していたのか非常に嬉しそうな表情を見せ、やあやあ
と手を上げて歓待の意を表してくれた。私が彼に具合はどうだ
と聞くと、彼はすこぶる具合は良いと答え、君と会うのは
久しぶりだと言った。
「病院はどうなんだい?」
「いや、体は健康そのものなんだが、医者が言うには僕は頭がおかしく
なってしまったらしくて。暫くここに缶詰という訳さ。」
 精神科の医者の癖に、精神病者に気狂いなどど放言するとは何事だと私の中で怒りが燃え上がったことを彼は感じ取ったのか、
「いやいや、別に医者に直接言われた訳では無いんだよ。ただ、記憶が正常に戻るまでは休養した方が良いと、彼らは言うんだけれど、
僕の記憶は終始一貫していて、曇り一つ無い位なんだからね。
君も僕の家族からある程度は聞いているんだろうけど、僕は
河童の世界に迷い込んでね。どうだい、話の種に聞いていくかい?
世にも珍しい河童は実在したと、テレビ局に投稿でもすれば
昼のワイドショーに出演ぐらいできるんじゃないかい?」


 私は勿論彼の話を聞くと言ったが、同時に彼を疑っている訳では無いと、
強く彼に念押しした。寧ろ彼の周囲の人間が誰も彼の話を信じないの
であれば、自分こそが唯一彼の話を信じることが出来ると。
「ふむ、そこまで言ってくれるのは流石に君だけで、とても嬉しいことだよ。友達冥利に尽きるというやつかな。それでは始めよう、僕の体験を、芥川の河童の話を。」


 さて、僕は河童の世界に迷い込んだ訳なんだけれど、始めに、二つばかし君に謝っておくことがある。一つは河童の世界と言ったが、別に河童しかいない訳では無いんだ。いや、たしか芥川の小説の方にも、何やら他に居たような気がするんだが、そういう居るか居ないかを覚えていない些末の話ではなくて、もっと直接的に、あの世界には河童以外の妖怪が居たんだよ。むしろ河童以外の妖怪が多い位だった筈だ。妖怪以外にも閻魔大王や神様なんてものも居たりして、兎に角人間以外の種類が八百屋に並ぶ野菜の数程多い所だったよ。
 もう一つは妖怪には女の人が矢鱈多くてね。真面目な話だよ、茶化していないことはあそこにいた神に誓おう。しかも美人ばかりで、おやおや呆れているね。よし、それなら追加であそこにいた閻魔大王に誓おう、勿論彼女も美人だがね。結局、芥川龍之介が描いた
「河童」とは似ても似つかない世界だったんだよ。なら何でそう言ったかって?やはり世間の人にとっては河童は百物語に出てくる妖怪だからね。
芥川の話ならば直ぐに皆思い描くことが出来るって訳さ。まあそのまま病院に放り込まれるとは、予想もしていなかったけれどね。


 僕が河童の世界に辿り着いたのは、丁度山の中でうろうろしていた時のことだった筈だ。何だか霧に包まれたと思ったら、急に周りの木が鬱蒼と生い茂るようになっていてね。今までいた山の中もやっぱり木は多かったんだけれども、やはり現代の森と言うべきか、均一的な
人工的な雰囲気が少しは入っていたんだけれど、この森はそういったものが一切無くって、原生林とでもいうような様子だったんだよ。
 そこで暫く僕は彷徨っていたんだけれどね、一時間ばかりしたところで第一村人たる河童に遭遇したって訳さ。その河童はにとりと言ってね、僕の生活を支えてくれた恩人なんだけれど、まあ
要するに僕は河童に拾われて、彼の小説のように河童の世界で過ごすことになったわけなんだ。


 そこの世界は今の世の中よりも遅れていてね。大体日本の明治位の世界だったんだけどね、当然今の世の中よりは遅れているのだけれど、その分妖怪や超能力といった人外の力が働いていた所為か、あまり不便を感じることは無かったんだよ。まあ、僕の世話をしてくれた河童はなんでも、エンジニアとやらをしているようで、結構な機械を持っていたから、その分もあったかもしれないね。しかし其処での
世界は色々あったんだけれど、特に言うとすれば中々スリルに満ちた
日常であってね。まあ、その世界から僕が逃げて来たのもその所為が半分以上あるんだがね。兎に角、僕の話をしてみようじゃないかい、世にも不思議な芥川の河童の話をね。

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最終更新:2020年08月29日 03:11