鈴奈庵の薬売り設定を活用


季節は梅雨の明け程か。日中は蒸し風呂のように暑く、夜はそれなりに冷えることもある。
気温の変化が激しく人間にも食物にもダメージを与える。鼠も出る。ゆえに商売時なのだ。

「――ごめんくださいな、薬を換えに来ました」

そう言って暖簾をくぐると奥からすぐに若い男の返事が聞こえる。

『――はぁい!暫しお待ちを! 』

この方、名を○○さんという。里で鋳掛屋と瀬戸物焼き継ぎを合わせたような商売をしている。
要は穴の開いた鍋や釜、割れた茶碗などの修理屋さんだ。

鈴仙・優曇華院・イナバことこの私は今、人里で薬を売り歩いている。
毎月のはじめに薬の訪問販売と補充をするのが仕事だ。
商売をするにあたり、我々が人に非ざる者であることは伏せている。
薬販売や医療を生業とする永遠亭が、外部との関係を断っている我々が、
幻想郷の危ういパワーバランスの上で生きてゆくためには必要なことなのだ。
だが彼には、○○さんには私が人間ではないことがばれている。

 さかのぼること半年と少し。

 季節外れの大雪となった霜月の始めの頃。私はいつも通り雪を小気味よく踏み鳴らしながら
 里の人間たちに薬を売り歩いていた。連日の雪で通りに人影は少なく、夕暮れ時というのもあってか
 ただでさえ冷たい風が更に冷たく感じる。幸い今日の訪問は終えているのだが、手足がかじかんで辛い。
おまけにずっと歩いているものだから、だいぶ疲労が蓄積されている。

「すこし休んでいこうかなぁ」

私は決断を下してから行動するまでが早い。早速帰り道を外れ、里の端にある空家へと向かった。
薬を売り歩く中で里の人間から色々な情報を得る事ができる。
この小さな庵はかれこれ数年はだれも足を踏み入れていないそうだ。
なので数か月前からここを休憩に使っている。裏通りの、しかも袋小路の奥にあるためか全く目立たない。
だが見られていないとも限らないので、能力を使い自身の「波」を弄って目立たないようにする。

「うーさむいさむい…!異変か何かなんじゃないの…?」

少々気の早い大雪に文句を言わずにはいられない。
暫く歩き、庵につく頃には雪にまみれて傘地蔵さながらの姿だった。

「はぁ…師匠もこんな雪の日ぐらいゆっくりさせてくれたっていいのに。人間だってそんなに脆くはないでしょう」

ぶつぶつと独り言を放ちながら中へ入り、被った傘を外して雪を払うとゆっくり腰を下ろした。

「ああんもう…耳に皺よっちゃう」

 今日は何だか部屋が狭く見える。はて、こんなに壁が近かっただろうか。
あぁ、そんなことよりも暖をとろう。確か竈か囲炉裏がどこかにあったはず――


『あのぅ……妖怪さん?少しよろしいですかな? 』

ゆるゆると立ち上がった私に突然声が掛けられた。

「ひゃいっ?!?! 」

いつの間に!?しかも「妖怪」だって?!という事はそこに居るのは人間か。
これは不味いことになった。薬売り=妖怪だとバレれば今後の仕事に甚大な影響が出るだろう。
そうなれば私の首が危ういかもしれない。とりあえず私が人間に見えるように暗示を仕込んでそれから…


『滋養剤とかないですかね。元気出る奴やつ』
「はぇ…?」

あまりに唐突な問いかけに思わず間抜けな声が漏れた。なんだこの人間は。というかなんでここにいるんだ。

「え…いや、あるにはありますけど……。ていうか何なんですあなた!これ見えてます?!」
『ええ、みえてますよ。長くてしわしわの耳が』

「じゃぁなんで――」
『あなた里で見かける薬り売りでしょう?』

「えっ…ばれてる…」
『声と格好でなんとなくわかります。というわけで、もしよければ売ってくだいな』

 彼は屈託のない笑顔でそう言った。このご時世に妖怪と知ってなお薬を買い求めるとは
 全くもって不思議な人間である。興味が湧いた私は滋養剤を売る代わりに色々と質問してみた。

 曰く、彼は長いこと里の鋳掛屋で修行を積んでおり最近になって独立を許されたものの、
 肝心の仕事場がなく、紆余曲折あってこの立地の悪い空き家…というか空き庵を得たらしい。
 年明けから開業すべく準備のため昨日から荷物の搬入をしており、荷持の整理がひと段落したころ、
 さも当たり前のように上がり込んでいる私を見つけて驚いたが見たことのある薬売りの格好をしていたため
 声をかけた……というのが事の顛末。
 まぁ…そんな出会いではあったが、彼が滋養剤の定期購入を希望したので月に一度会う関係になった。

「――はい、これで必要な手続きはおわりです。これからどうぞご贔屓に、○○さん」
『あっ、はいよろしくお願いします。ええと……』

普段なら自ら名を名乗る事はないけれど、この不思議な人間、○○さんに対しては何故だか……

「――鈴仙と、呼んでください」
『…はい!』

 もっとも、手持ちの滋養剤の数が少なかったため後日何度か会う事になったのだが。


 かくして、図らずも固定客を得た私であったが、同時に「正式な」休憩所も得ていた。
 最初は「元々そこは私の休憩所だったんだし良いでしょう」という軽い理由で言い出したのだが、
○○さんが思いのほか乗り気であっという間に決まった。

 薬を売るのは月に一度だが、里の契約者全てを回りきるのに数日かけている。
 薬の中には粉でなく瓶に入っているものもあり、一度に運べる量には限界があるからだ。
 そのためお昼過ぎや仕事終わりに彼のもとで休憩することにしている。

 ○○さんと交流を進める中で、彼の存在は私の中で少し特異な存在になっていった。
 人間の里においては「妖怪は敵」という認識がある。これは幻想郷のバランスを維持するには必要なことだ。
 ゆえに薬を売るには妖怪である事を隠さねばならない。これが私にとって大きな負担となっていた。
 この耳を上手く隠し、笠を目深に被っていればうまくごまかすことが出来る。
 しかし、あの時魔理沙に見破られたように、過去に面識のある者は気付いてしまうかもしれない。
 その上、里の中にも妖気の類を感じ取れる人間もいる。
 一度バレれば商売は続けられない……それが重圧となり、私の自慢の長い耳は鮭とばの如く「しわしわ」になっている。
 そんな私にとって、何の気兼ねもなく接することができる◯◯さんの存在はある意味で心の支えとも言って差し支えなかった。

 彼と一緒にいる間はいつも通りの私のままでいられる。溢れる妖気を抑えなくてもいいし、言葉の端々に気を配らなくてもいい。
 だから彼には色々なことを話せた。

 日常の愚痴。
 月に居たこと。
 色々あって幻想郷で暮らし始めたこと。
 その事でだいぶ悩んだこと。
 この里での商売をする苦労。
 最近お気に入りの甘味。

 彼は聞き手であることが多かったが、一つ一つ私の言葉を受け止め、様々な反応をしてくれた。
 だから彼と会う事がとても楽しみだった。

 そんな事を続けて数か月。如月のはじめ、今月も私は薬を背負い、里へと向かう。


師匠がいつか言っていた。『どんなに優れた薬であっても、それを飲むだけでは効かないも同然である』と。
要は薬を飲むなら、過信せずにきちんと効能が出るような行動しなければならないということだ。
○○さんはそれをしなかった。

彼は年明けに開業すると息巻いていた。それだけならば良かったのだが、
滋養剤を飲んだから…と、この数か月間無理を続けていたらしい。
体が最大限のパフォーマンスを発揮出来るように体調を整えるのが滋養剤の役目であり、疲れない体にはならない。
当然身体を壊してしまい、そこに私が訪れたというわけだ。

『いやはや…なさけないかぎりです…』
「あぁ…言ったそばから起きないでくださいよ…!」
『ほんとうにもうしわけない』

布団の中でもそもそしては隙を見て起きてくる程のやる気とは恐れ入る。
てゐに半分分けてあげてほしいものだ。だが過ぎたるは猶及ばざるが如し。
病状が芳しくないうちはおとなしく寝ていてもらおう。

いま私が彼の元に居るのは、永遠亭の規則に則るがゆえである。決まりでは症状が重い場合は2,3日に
一度会って症状に合わせて薬を処方し、それで一週間様子をみることになっている。私が手に負えないようだと師匠を呼ぶのだが。


「――はい、おかゆ出来ましたよ。こんな時だからこそ何か食べないと」
『しょくよくが、ありません』

「この薬は胃に負担がかかるので食べてください。胃に穴を開けたいなら結構ですが」
『わぁい。しょくよくが、わいてきたぞ。いただきます』
「…ふふっ」

彼の世話までしているのは、その規則に加えて、休憩所代わりに訪れる私の相手をしてくれるお礼がしたかったからだ。
彼に食事と薬を摂らせ、床についたのを確認してから永遠亭へ戻る。そんな生活だ。


「……まるで通い妻ね」

帰り道で一言つぶやいてみたが、恥ずかしくて顔が熱くなった。いけない、いけないとブンブンと顔を振り、
そのまま永遠亭まで走る。内側から湧き上がるその熱はどこか心地よいものでもあった。


それから一週間後、師匠の薬の効果によって彼は見違えるほど元気になった。ああよかったと胸を撫でおろす。
しかし○○さんが快方に向かうのと反比例して私の体は重くなっていた。まさか二次感染だろうか。

「今日から四日間、これを夕食後に飲んでください。昨日までとは違って一日一つですので気を付けてくださいね」
『夕食後一つですね。わかりました。…しかし一週間でここまで良くなるとは』

「ええ、○○さんも見違えるようですよ」
『これも鈴仙さんのおかげですよ。何から何までしてもらって』

「いえいえ、気にしないでください。これも仕事ですし、毎月お世話になっているのでそのお礼も兼ねてです」
私は笑いながら言った。実際、その言葉に嘘偽りはない。

『なにはともあれ、きっともう大丈夫でしょう。これで仕事もはかどります』
「滋養剤を飲んだからと言って身体に無理をさせないように!いいですね?」
『あはは…気を付けます』

そうして彼と別れ、また「月一度の関係」に戻った。
だが、それを境に私の中で何かがおかしくなりはじめた。頻繁にボタンを掛け違えたり、Yシャツを表裏逆に着たりするようになった。
それだけならばよかったのだが、手に持っていた湯飲みを落として割ってしまったのだから笑えない。
とうとう見かねたてゐに呼び出されてしまった。

私はこれまでの出来事をてゐに話した。薬を売っていたらある人間…○○さんに出会ったこと、
私が妖怪だとバレたこと、彼はそんなこと微塵も気にしなかったこと、たくさん話したこと、彼が病になり経過を診ていたこと、
彼が快方に向かうにつれ自身がおかしくなり始めたこと、全部。

『あぁ、恋だね、それ』

一言そう言うと、てゐは心底愉快そうに笑いながら部屋を出ていった。
まるでそれ以上伝えるべき事など無いとでも言うように。

しかしてゐの言葉で全て合点がいった。気付いたのだ。私は○○さんに恋をしている事に。
月に一度の薬の補充の際に話し込むことが多かった、とても楽しかった。
○○さんが体調を崩したとき、心配もしたが何より心が躍ったのも、彼が快方に向かうにつれて矛盾した感情が湧き上がってきたのも、
全ては大好きな彼に会えるからだったに違いない。

自分の感情に気付いて以来、それまでのようにどこか抜けたような行動をとることはなくなった。
だが日毎に○○さんへの思慕は強まるばかりだった。
日々の仕事で忙しい彼に用もないのに会いに行くのはきっと迷惑になるだろう。そんなことをしたらきっと嫌われてしまう。
それだけは絶対に嫌だった。だから彼に会えるのは現状月に一度の薬の補充のときだけ。
でもどうしようもなく彼に逢いたい、お話したい。でもそんな事を繰り返したら彼の仕事の邪魔になる。
彼に迷惑がかかる。ああどうしよう、どうしよう。そんなことを考えて数日。

「――!」

ふと、恐ろしい考えが頭を過った。普段ならそんなものは理性が止めにかかるだろうが、恋をした私に視力など無いに等しかった。
私は決断を下してから行動するまでが早い。ふらふらと導かれるように倉庫へと向かうと小瓶をいくつか掴み、自室へと戻った。

それから数か月の間、時間を見つけては薬剤調合の勉強をした。混ぜると効果が増すものから薬効を打ち消してしまうものまで、何を使えばどうなるか全て。
安全に、でも確実に‘効果’が出るように。

試作品の試験も兼ねていくつか調合した物の評価してもらった。そのときの師匠の評価はこうだった。

『着眼点はいいけれど、この種の薬に貴女のこれを混ぜると薬効が著しく低下するわ。
時間が経つと薬効成分が打ち消しあっちゃうから7~8割はもってかれる。
全く効かないってわけじゃないけど――』

一通り評価を終えて一人部屋に戻った。普段ならここでがっくりと項垂れているのだが、今回ばかりは「成功」だ。
声も無く静かに笑う私の耳はここ最近で最もハリのある状態になっていた。

そして水無月のはじめ、いつものように彼の庵を訪問した際、週に一度愛飲している滋養剤を
適当な理由をつけて入れ替えた。免疫と代謝を低下させる薬品を混ぜたものに。

その瞬間から、このいびつな関係が始まった。


文月のはじめ、季節は梅雨の明け程か。日中は蒸し風呂のように暑く、
夜はそれなりに冷えることもある。気温の変化が激しく体調を崩しやすい季節だ。

「ごめんくださいな、薬を換えに来ました」

そう言って暖簾をくぐると奥からすぐ○○さんの返事が聞こえる。

『はぁい!暫しお待ちを! 』

あたかも元気そうに振る舞っているが、いつもより声にハリがない。
それに彼の「波」見れば相当体調が悪いことがはっきりと分かった。
私の予想通り、完璧なタイミングで完璧な状態だ。
会話を続けるほど、それは確信へと変わっていく。

『あぁ…やっぱり分かっちゃいますか…』
「ええ、顔色がよくありませんので……はい」
『実は先月末に突然体調を崩しましてね。滋養剤も飲んでいたし、無理もしていないつもりだったのですが…』
「ここのところ気温の変化も激しいですし、そのせいかもしれません」

そんなわけない、確実に私のせいだ。顔色の悪い彼を見ると罪悪感がじわじわと浮かび上がってくる。

「病状を見た限りだとこのままお薬を渡すだけでは少し不安ですので…あの…私がまた数日に一度様子を見に来ますね」
『あぁ…はい、お手数おかけしますが、どうかお願いします』

そうしてまた2、3日に一度、彼の元を訪れる事になった。する事は前とほとんど変わらない。
薬を渡し、少しばかり雑談を重ねる。そして時間があるときは料理を作ったり、掃除をしたりする。
初めのうちは彼を苦しめてしまったことへの罪悪感が胸をチクリ、チクリと刺していたが、
彼が師匠の薬によって快方へと向かっていく姿見るたびに、彼に会って些細な会話を続けるたび、
罪悪感はささやかな幸せへと変換されてなくなってゆく。

そうしている間、光陰は矢の如く過ぎ去り、気がつけばもう10日目になる。
彼の容態はというと、折り返しといったところか。
本来ならば既に往診を終了、いや、病そのものが完治していてもおかしくはない。
しかしそうはならなかった。

彼はいつまでも休んではいられないと言って4日目には仕事を再開した。
昼は仕事をこなし元気なふりをして頼まれたモノを直す、夜はただの病人となっておとなしく私の看病を受ける。そんな生活だ。

師匠がいつか言っていた言葉を思い出す。曰く『どんなに優れた薬であっても、それを飲むだけでは効かないも同然である』と。
彼は薬を飲んでも十分な休息を取っていない。ゆえに病状が間延びしているのだ。


『中々治りませんね』
「症状に合わせて処方しているので…あとは生活習慣をどうにかするしか」
『そうですか…あはは…やはりそれしかありませんか』
「あの、そう気を落とさずに。時間はかかりますが、その…私が一緒にいますので…!」
『鈴仙さん…』

こうなったのは元々私のせいなのだから、ある意味当然といえば当然のことなのだが
そんな表情をされると、ズキリと心が痛む。だが彼の支えになれているこの状況に酔いしれずにはいられない。ごめんなさい○○さん。
あと数日、あと数日で良くなりますから。頭を垂れる彼にそう言おうと口を開いた瞬間―――

『鈴仙さんが居てくれて本当によかった』

「――!」

硬直した。今何と言った?彼が言った言葉を認識し、その意味を脳が理解した瞬間、幸福感で思考が遮断される。
視覚も、聴覚も全てが真っ白に染まってゆく。つつまれるようなしあわせ。
彼としては特に意味も込めていない言葉だっただろう。しかし、その何気なく放った一言が私に強烈な‘何か’を残してしまった。

『――さん、鈴仙さん!』
「ひゃいっ?!」

私は耳がいい。だから耳元で大きな音を出されるととても驚く。一瞬で現実へただいまをした。

『あの、大丈夫ですか?』
「へ……?あれ、私何か」
『何やらボーっとしていたようなので』
「あ…、こ、これはとんだ失礼を」
『いえ、どうかお気になさらずに。鈴仙さんに色々させてしまったので、きっとお疲れなのでしょう。』
『お薬もいただいていますし、私は大丈夫ですので。どうか今日のところはお休みください』

正直あの程度で疲れてはいなかったが、○○さんがあまりに心配するのでそれを無視するわけにもいかず
半ば押し切られるようにして彼の庵を後にした。

帰り道、彼の言葉が脳内で反響する。ああ、なんて心地よいのだろう。
思い出すだけでふるえる。夢見心地だ。歩いているのかまっすぐ立っているのかよくわからない。ああ、でも――


結局、永遠亭に戻るまでの間に2、3回ほど竹に衝突した。


それから数日後、また彼のもとへと向かった。

「こんにちは、○○さん。お仕事ははかどっていますか? 」
『ああ、鈴仙さん!おかげさまで、どうにか溜めていた分を捌き終えました』
「それはよかったです」

彼の顔色は見違えるように……とは言えないが前回よりもだいぶ良くなっていることはよく分かった。
このままいけば再来週には全快間違いなしである。そうすれば―――

「あと少しでお薬を飲む必要はなくなりますよ」
『それはつまり…』
「ええ、そうです。私がこうしてお邪魔に入ることもなくなるでしょう」

そうだ、彼の全快はこの関係が終了する事を意味する。そうすればまた「月に一度」の関係にもどってしまう。

『――』

○○さんが何かつぶやいたが、私には聞き取れなかった。

『何にせよ、鈴仙さんにはお世話になりっぱなしですね』
「これも仕事ですし、好きでやっているところもあるので。はい、どうかお気になさらずに」

笑顔でそう答える。○○さんは順調に快方へと向かっている。喜ばしいことには違いない。
だが私にはどうしても「あの一言」が忘れられなかった。思い出すだけで甘い感覚に体が震える。
足りない。あの時のソレはもっともっと幸せだった。ぎゅっとされているような、頭をなでられているような。
また感じたい。もっと味わいたい。しかし、残された時間はあとわずかだ。
もう一度、彼からあの言葉を引き出すには…時間が足りないかもしれない。

困難に当たった時、脳は無意識のうちに記憶の中を徹底的に洗い出し、解決策を導き出そうとする。
それが良いものであっても、悪いものであっても。

…ああ、そうだ。今処方している薬に例の調合を施そう。薬効が激減するアレに。

しあわせをつかむために、うさぎははねる。


一服盛った薬を処方し、一週間が過ぎた文月の半ば、
きちんと毎食後に飲んでいれば、一週間たってようやく一段階良くなる、といった具合だ。
流石に効いてないのは不味いのでちゃんと回復をするように調合してある。
私も自信を持っていたし、この調合パターンを師匠に評価してもらった上での使用なので確実なのだ。

しかし、彼の病状は前回よりも悪化しているように見えた。もしかして効いていないのだろうか。あるいは副作用の類か。
一抹の不安が頭を過ったが、師匠の評価に疑う余地など無く、結局は「元気なころの彼と無意識に対比した結果、相対的に今の彼がやつれていっているように見える」と結論付けた。

例え気のせいだとしても、やつれた彼を見るのは心苦しかった。この胸の苦しみが、私を繋ぎとめている最後のアンカーかもしれない。
彼から得たしあわせが抜けてくると、罪悪感により内側からこの身を裂くような苦痛に襲われる。私を正気に戻す痛みに。
その痛みから逃れようと、また彼の世話をしてしあわせを得る。

今していることが、病の完治を遅らせる事が、○○さんのためにならない事は良く理解している。
それでも彼の薬に一服盛ってしまうのはこの耳以上に歪んだ心のせいだろうか。

これは彼の完治を遅らせる。その分彼を苦しめる。でも彼に会える。ああうれしい!
これは師匠への裏切りだ。完璧な薬にドープをする。でも彼とおはなし出来る。ああしあわせ!
数々の後ろめたい事実が、唯一つの甘美な幻想に塗りつぶされる。

「ごめんくださいな、薬を換えに来ました」
『今日もゆっくりしていってください』
「ありがとうございます。ですがまずお薬を――」

そうして得られるささやかな幸せ。

「ああ、そうだ○○さん!実はこの前ですね――」
『ほうほう、それは興味深い噂ですな。実は里でも――』

――――
――

『おやおや、もう日が傾き始めているな』
「ああ、本当ですね……では名残惜しいですが○○さん、今回はここまでということで」
『そうしましょう。長々とお付き合い頂いてありがたいことです』
「いえこちらこそ。ではまた明日お薬をお持ちしますので。あの…○○さんもお大事に」
『お気遣いありがとう。日は長くなりましたが、鈴仙さんもお気をつけて』

そうしていつも通り彼の庵を後にし、帰路で今日の彼との他愛ない会話を脳内で反芻する。
しかし竹林に深く入る頃には幸せな間隔は抜け落ち、強烈な後悔と自己嫌悪に苛まれる。

「――ぁぅ”ぅ”ぅ”ぅ”っ”!」

またやってしまった!嗚呼!これで何度目だ!私はまた○○さんを苦しめる方向へ進んでしまったのだ!なにが「お大事に」だ!
絞り出すようなうめき声を上げ乍ら私は竹に何度も額を打ちつけ、ギリギリと歯を鳴らし地面を踏みつける。

さながら「薬物中毒」の様相を呈している。私が薬を使う側ではないのは強烈な皮肉だろう。
こうして気が済むまで“頭を冷やし”、その後で額に軟膏を塗り、長い前髪で隠すようにして永遠亭へ戻るのだ。
身長の低いてゐには傷が見えてしまうが、ぼーっとしていたら竹にぶつかったなんて言ってごまかす。
何も知らない彼女は「盲目のキツツキか」なんてからかってくる。
確かに盲目になっているのだろう。彼と会っている間、自分の都合のいい事以外に。
こんな日々が続くのだろうか。その可能性にほんのわずかにでも喜びを感じてしまった自分に吐き気がした。

しかし翌日にはそんなことは忘れていた。今日は○○さんと何を話そう。○○さんはどんな反応をしてくれるのだろう。
驚くかな。それとも笑われるのかな。ああ、たのしみ。そうして今日も○○さんの往診へ向かう。
ささやかな幸せをつかみに。

だが歪な日常が音を立てて崩れ去るのにそう時間はかからなかった。



彼に‘新しい薬’を渡して数週間、葉月の始めの頃

夕暮れが迫る中、私はいつもより早く契約家庭を訪問し終え、足早に彼の庵へと向かっていた。
数日前、彼に会った時に猛烈な違和感を感じてしまったから
――いや、以前から感じていた違和感を終ぞ隠せなくなってしまったからである。

自身の薬は自他ともに認める「完璧」な調合だ。牛歩だが確実に効能が現れることは間違いない。
だが彼の容態は快方へ向かうどころか目に見えて悪化の一途を辿っている。
薬が完璧なはずなのにどうして彼の容態は悪化するのか。
理由が分からない事がいかに恐ろしいものなのかを身をもって味わっている。
とにかく彼に会って詳しく話を聞かねばなるまい。生活習慣、食べた物、他の薬を飲んでいないか。山ほど。

「――ごめんくださいな、薬を換えに来ました」

そう言って暖簾をくぐると奥からすぐに○○さんが返事をする。
彼はいつもそうやって私を迎えていた。だが今日は全く様子が異なった。

「―――あれ?」

彼の返事がないどころか、物音一つ聞こえては来なかった。
何か起きているのだろうか。…いや、何か起きてしまったに違いない。
玄関口で大きな声で呼んでみる。

「…○○さん!」

しかし返事はない。
私に思い当たる事は唯一つしかなかった。それを想像した瞬間、途端に鼓動が早くなり顔から血の気が引くのがわかる。
背負っていた荷物をその場におろすと、彼の名前を呼びながらゆっくりと中に入ってゆく。
ああ、どうかただ眠っているだけでありますように。

襖をあけ、彼が寝室として使っている部屋へとたどり着く。
私の目に飛び込んできたのは、暗がりの中、物音一つ立てずに布団の中にいる○○さんであった。

「まさか死んでいる、なんてことは……」

だがその心配は稀有に終わった。胸が上下している。彼が生きていることだけは確かだった。
ああよかったと胸をなでおろす私だったが、身体の震えは止まらなかった。
私の意識の外から発せられた、強烈な違和感に対する警報。
この違和感を、見えないものを見るためには何をすればいいか、私は知っている。
そうして彼の「波」を見た。

そして、絶句した。


彼の「波」の形が「死期の迫った者ソレ」になっていたのだ。
その波は歪で、周期は乱れ、波長は伸び切り、振幅はかつてなく小さかった。
大好きな○○さんが、病を長引かされ死への道に足を踏み出そうとしている。
紛れもなくこの私のせいで。私の手によって○○さんが死ぬ。
その結論に至るのは当然のことだった。

「あぁ…ああぁああ…ぁ……ぁ」

自分のした事の重大さを眼前に突き付けられた私は、そのままへたり込んでしまった。
猛烈な嫌悪感と恐怖で思考が澄み渡り最悪な事態が鮮明に浮かぶ。

「や…こんな……ちが……いや…ぁ…」

私が望んだのはこんな結末ではない!断じて!
それを振り払おうと床に頭を打ちつける。
しかし思考は加速し、ありとあらゆる最悪の展開が次々と浮かんでくる。
まともに息が出来ず、喉笛を噛み千切られた者のようにひゅうひゅうと音が鳴る。

私のせいで○○さんはこうなった。死ぬ。○○さんはしぬ、しぬ…
いやだいやだ○○さんが死んでしまう殺してしまう

殺した殺してしまった私のせいだ私のせいだ私の――


『鈴仙さん……ぅ……何…を……?』

ふと声のした方を見ると彼が辛そうに首をもたげ、こちらを見ていた。
キツツキのように床に頭を打ちつける私の姿はさぞ不審に見えただろう。
今にも死にそうな弱々しい声だったが、私を現実に引き戻すには十分だった。
しばらくの間固まっていたが、それから弾かれたように玄関へと向かった。

「…………っ!○○さん!待っててください!もう大丈夫ですから!」

そうだ、彼はまだ死んでいない。死んでいないのであればどうにでもできる。
要は死なないようにすればいい。
玄関に戻った私は背負ってきた背嚢を開き、中身をかき分けて小さな箱を開けた。
そしてソレを掴み無我夢中で○○さんの寝室へと戻った。

気が付くと私は○○さんの寝室で座り込んでいた。
傍らには見慣れぬラベルのアンプルと注射器が、手の中には粉薬が包んであった薬包紙が握られている。
自分がさっき何をしたのかはよく覚えていない。必死になって何かを注射し、何かを飲ませたことはうっすらと覚えているが。
……待てよ?注射?私は何を打った?!
一瞬で我に返り、震える手で目の前に転がっているアンプルをつかみ取った。
一緒に添い遂げたいと思うあまり‘よからぬ薬’を注射してはいないだろうか。
蓬莱の薬なんてことは万が一にも無いことだが、冷静さを欠いていた私が適切な医療行為を行えたのかはっきり言って疑問だ。
今まで医療行為と称して本来の薬効がほとんど消えた薬を渡してきたのだから尚更だ。

急いで○○さんの様子を確認する。体温は、脈は、呼吸は、顔色は。
今までに得た全ての知識を総動員して確認する。

「大丈夫……うん、大丈夫。正常値、範囲内、おさまってる…」

幾度も確認をしてみたが、模範的かつ完璧な処置だった。彼の顔色は少し良くなっているようにも見える。
処置の効果はあったようだ。半ば錯乱していた時の方が適切な処置を行えているのはなんとも皮肉なことではあるが。

そして今さらのように手中のアンプルのラベルを確認する。使用したのは手持ちの中でも特に薬効が強く、かつ即効性のあるものだった。
そこでようやく彼の身から危機を除いたという確信が得られた。
安堵から今にも気絶しそうな自分を奮い立たせ、規則正しく呼吸をする彼を横目に処置の後始末を始めた。


「波長を操る程度の能力」というのは便利なものだ。
音の波長を長くして里から離れた永遠亭に声を飛ばすことが出来る。
耳のいい因幡達がこれを聴き、それてゐに知らせることで、一方通行だが無線のような使い方も可能だ。
私は「急患の処置」「経過観察中」「帰りが遅れる」の三つの符丁を声で飛ばした。
これで永遠亭への連絡は済んだ。あとは彼が起きるまで見守り、薬を渡して一先ずは対応完了である。

ここにきてようやく思考に余裕が出てきたせいか、今までは考えもしなかった問題が出てくる。そう例えば――

「この薬…そういえば結構なお値段だったような…」

彼に注射したアンプルの中身のことだ。非常に有効な薬だが同時に高価でもあるため、本当に急を要する場合しか使用できないのだ。
しかし、今回ばかりはお代を頂くわけにはいかない。元々私がきちんと‘正しい’薬を出していればこんなことにはならなかったのだ。
幸い、損失は私の蓄えで補填することができそうだ。暫くの間甘味を我慢しなければならないけれど。

だが、そんなことは些細な問題だった。

「……っ」

そう、口に出さずともわかっている。○○さんのことだ。
今までの自分の行動振り返るだけで自己嫌悪のあまり胃が裏返りそうになる。
私が彼にしてきたことは、私欲のために彼の薬をすり替えたり、薬効の妨害成分を添加したりと常軌を逸した行為だ。
一度だけ、一度だけと言いながら薬物中毒者よろしく何度も何度も繰り返す。
その果てに苦しむのは私ではなく○○さん。
恋だ何だと言っては、自身の欲求を満たすために○○さんを‘使って’いたのだ。
恋とは相手を想うもの。
私はどうだ。彼が大好きなはずなのに、その彼を苦しめて自己の欲求を満たしている。
なんとあさましいことか!ああ!そんな自分に腹が立つ!

「――ッ!」

ガンッ、と思い切り床に頭をたたきつける。しばらくして生暖かい感覚が顔を撫でおろしてゆくのを感じた。
だが、こんな事をしたところで私のしたことが消えるわけではない。誰かが慰めてくれるわけでもない。
結局、私は彼の目が覚めるまで後悔と自己嫌悪と額の痛みに耐えながら、ひたすら膝を抱えて震える事しかできなかった。

それから数時間後、すでに日は没し夜も深まろうとしたころに彼は目覚めた。顔色は優れなかったが「波」には活力が戻っていた。
たった数時間でここまで回復するとは流石は高価なだけのことはある。この様子なら次に薬を渡す頃にはだいぶましになっているだろう。
私は彼に‘正しい’薬を処方すると、おぼつかない足取りで永遠亭へと戻った。

自室に戻った私はそのまま布団に倒れこんだ。
難しい事は起きてから考えればいい。事態を先延ばしにするだけなのは分かっている。
分かっているけれど――

「○○さん…」

とにかく今は何も考えたくなかった。そのまま目を瞑り意識を手放した。
願わくば、このまま永遠の眠りに付かんことを。


だが現実は非常だ。まだ日付も変わらないうちに現実へ戻ってしまった。
彼への想い、自分のしたこと、何もかもが頭の中をぐるぐるとまわり、気が狂いそうだった。

私はこの先どうすればいいのだろうか。
彼が好きなことには変わりない。でもこのままじゃ、彼が体調を崩した時にまた同じことをしかねない。
私が願うのは何か。少しでも彼とお話をしたい、一緒に居たい。ただそれだけ。
でも彼といれば、いつかきっと、きっと私は彼の幸せを壊してしまう。今回のように。

葛藤の末、彼を想った思考の行きつく先にはどう足掻いても私の姿は存在しなかった。
彼の幸せのためには私が彼の元から離れる事が一番だという結論になる。
そうだ、○○さんが私ごときのせいで傷ついてはいけないのだ。そうにきまっている。
彼に暗示をかけよう。私への感情を平坦で事務的なものにしてしまおう。
これで私が彼に好意を匂わせたとしても、彼はそれを突っぱねる。只の客になる。
ああいいこと思いついた。薬を買うために致し方なく接しているような暗示にしよう。

里で薬売りを続ける為に真相は吐き出さず、私の心の中だけにとどめておく。
罪悪感で胸が苦しいが身勝手な私への罰としてちょうどいいだろう。

これは私から彼への精いっぱいの贖罪、そして自分なりのけじめのつけ方だ。
ずっと苦しみ続ければいい、それでいい、それがいい。
○○さんを苦しめた臆病で矮小な兎への罰だ。

明日、彼に会う時にはきっちりとけじめをつけるんだ。
そうすれば彼との関係は元に戻る。月一で会う薬売りと客の構図に。
途中で気が変わらないように、持って行く薬はてゐに準備させよう。
もう十分だ、結論は出た。

なのになんで私は泣いているんだ。どうして涙がとまらないんだ。

泣いて、悔やんで、また泣いて
そうして最後に残ったものは
いつも以上に真っ赤な瞳と、いつもと変わらない月明かりだけであった。


翌朝、まだ少し薄暗い竹林の夜明け。皮肉なまでにすっきりとした目覚めだった。
汗を流すために着替えを掴んで廊下に出る。そこには私よりも早起きが一人。

「ねぇ、てゐ。ちょっとお願いしてもいいかな」
『おはようれーせん。開口一番が朝の挨拶じゃなくて頼み事とはね。運気下がるよ』

早寝早起きと朝の挨拶が長生きの秘訣とは彼女の言葉だ。これは至言だと思う。

「あぁ…ごめんごめん。おはよう。てゐ」
『よろしい。んで?頼み事ってなにさ』

「今日の訪問先に持って行く薬なんだけど、ちょっと準備しておいて貰えないかな」
『えぇーそれあたしの仕事じゃないんだけど』

紙を受け取ってさっと目を通している。もっと文句をいわれると思っていたけど案外あっさりとしていた。いつもはこうはいかないのに。

『これだけだね?あとから言ったら追加料金とるから』
「大丈夫、これだけだから」

そう言って顔を上げると、てゐがまじまじと私の顔を見ていた。

『あんたの眼、いつも以上に真っ赤だよ』
「晩に色々あったのよ」
『そう』

それ以上は何も言わなかった。何か悟ったような口調ではあったが、彼女はいつものように軽い足取りで廊下に吸い込まれていった。

「……今の私、どんな顔してるのかな」

誰もいなくなった廊下でつぶやいた。でも鏡を見なくても何となくわかる。
きっと余命を受け入れた病人みたいな顔をしているのだろう。
ゆっくりと息を吐き出した私に、もう迷いの色は無かった。


その日の夕方、薬を渡すために彼の元へ向かった。
これですべてが終わる。彼はしあわせを得る。私はそれを眺めるだけ。

「――はい、ではこの薬を一週間飲み続けてください」
『わかりました。ご迷惑おかけしてもうしわけない』

こんなやりとりは何度目になるのだろうか。こういう時、彼は開口一番に謝る。
わたしはそれに対して「気にしないでください」と返すのだ。
それも今回で最後になるかもしれないと思うと寂しい。でも、もう決めたことだ。

「では、○○さん。どうかお大事に」

色々な気持ちを綯交ぜにして、深々と頭を下げた。
視界の端がうっすらと紅く輝き始める。
私は決断を下してから行動するまでが早い。
これで彼の眼を見れば全ての幕が下りる。
息を軽く吸って、吐いた。

そして、ゆっくりと頭を上げて彼の眼を――


『――鈴仙さん、すこしよろしいでしょうか』

止まった。遮断器が一斉に作動し、回路が切れる。狂気の瞳から輝きが消える。
ほんの一瞬の出来事だった。どうにか口を動かし、言葉を紡ぐ

「…なんでしょう?」
『あなたに謝らなければならないことがある』

謝るだって?何を?謝るのは私の方なのに。動揺を隠せない私をよそに彼は言葉を続けた。

『鈴仙さん、ここ最近私はずっと体調を崩していましたよね』
「ええ」
『一度は快方に向かったのに、途中から悪化し始めた事に気づいていましたか?』
「…気付いています」
『それについてです。それが昨日の出来事につながってしまったのです』

それについて?どういうことだ。確かに彼の体調はこちらの予想に反して悪化していった。
でもそれは私の薬で病が長引いたせいで…それに○○さんの身体が耐えられずにああなってしまったんじゃ…

『私は途中で薬を飲むのをやめました』
「――」

死角から突然殴られた様な衝撃を受けた。彼の言葉に思考が追い付かない

『あなたが忙しい合間を縫って休憩しに来てくれる事も』
『お一緒に話をしている間も』
『あなたに看病して貰えている間も』
『とても楽しかった。小さなしあわせを感じていました』
『しかし、病が治ってしまったら、また月に一度の関係にもどってしまう』
『だから、私は――』

私は必死に何かを言おうとしていたが、鯉のように口をパクパクさせるだけで何も言えない。
つまり彼は、私に会うために薬を飲むのをやめて、わざと病状を悪化させたというのか
だったら、私が調合した‘新しい薬’も一切飲んでいなかったことになる

『でも、昨日のあなたの様子を見て我に返りました。あんなに必死に…』

驚愕。それ以外に例えようがない。
だってこの人間、○○さんのしたことは、まるで私とおなじで…そんな…そんなことが…

『だから、そのことについて謝らせてください。』

もはや私はその場に立っている事すらできなかった。彼が謝罪の言葉を口にしようとしたその瞬間、私はその場に崩れ落ちた。

彼がとっさに私を抱きかかえる

『鈴仙さんッ!だ、大丈夫ですか!』
「そんな…こぁ……ぁ」

全ては互いの勘違い。すれ違い。彼の言葉を聞いたせいで今までため込んできたもの、抑えていたもの、昨晩の結論、今朝の決意、そのすべてが崩れた。

「う“ぇあぁぁ…あ”ぁぁぁ!こ“へ“んな“ざ”ぁぁいぃ“ぁあぁぁ”!」
『!?』
「う“ぁ”ぁ“ぁ”ぁ“あ”ぁ“あ”ぁ”ぁ“!」

彼はさぞ困惑しただろう。謝っていたと思ったら謝っていた相手が急に顔をぐじゅぐじゅにして泣きながら謝りはじめるのだから。
泣けば泣くほど溢れてくる。理性は障子紙にも等しく、それに任せて私は全てを話した。

私が彼に好意を寄せていた事
彼と話したいがために滋養剤に免疫を低下させる薬品を混ぜたこと
彼の薬に効能の妨害成分を添加したこと
そのことを後悔してもやめられなかったこと
鼻水をじゅるじゅるとすすりながら、包み隠さずすべてを。
途中から嗚咽混じりで自分でも何を言っているかわからなくなっていた。

それでも彼は私を抱きしめていた。ぎゅっとしてくれた。「あの言葉」よりもずっと優しくて、安心して、しあわせで。
結局、私が落ち着くまでそれは続いた。

――

『おちつきましたか?』
「ぅぁぃ…もうっ…だぃ…だぃじょうぶぇす…」

袖で鼻水を拭きながら答える。おおよそ少女が人前でしていい仕草ではないのだろうが、もうそんなこと気にならなかった。
美少女な私は鼻水じゅるじゅるでも可愛いことには違いないのだから。
落ち着いた後で急に照れくさくなってしまったため、色々と話したい事もあったが特に何もせず彼の元を後にした。

当初の予定と随分異なる幕引きではあったが、私にとってはこれ以上ないくらいものだった。
互いの好意を正しく認識し合う事が出来たことが何よりである。
純白の幸福感に浸った私の耳は艶よし、ハリよし、受信感度良しの三拍子そろっている。純狐さんも大満足だろう。
だが永遠亭に戻ったところで「じゅるじゅるな袖」を思い出し、すぐに耳が「しわしわ」になった。


波乱の一日を終え、敷きっぱなしの布団に倒れこむ。昨日の自分と同じ場所にいるのに、感じる世界は全くの別だ。
正直、○○さんの好意はこんな私にはもったいないくらいだと思う。だからこれからは彼の幸せのために精いっぱいできることをしよう。
そしてほんのちょっぴり、私の願いも聞いてもらおう。

とりあえず、そこまで考えたところで少し早い眠りについた。
次に彼に会う事を楽しみにしながら。


秋が迫るも残暑は健在、そんな長月のはじめ
私はいつも通り薬の訪問販売を行っていた。

「――ごめんくださいな、薬を換えに来ました」

そう言って暖簾をくぐると、元気そうな○○さんが出迎えてくれる。

『――はぁい!暫しお待ちを! 』

薬の販売は月一度。また以前の関係に戻るだろう。それが決まりだ。
しかしそれは後退ではなく前進だ。
彼の想いを知った今、薬売りの格好をしてわざわざ理由をつけてまで訪れる必要はない。

暫くしたらまた会いに来よう。この前割ってしまった湯飲みを持って、彼の客として。
そう考えながら彼の愛飲する滋養剤を補充し、一枚の手紙を添えた。

「○○さん。今回からは‘余計なものは入っていない’ので安心して飲んでください」
『ええ、鈴仙さんの本音を聴いてからはより一層あなたへの信頼が増しました。
ですのでこちらも今回からは‘用法容量を守って飲みます’から、安心してください』
「あ、でも飲んだからって無理はしないでくださいね!また体調を崩してしまいますから」
『あはは…気を付けましょう。…それでは鈴仙さんこちらお代です。暫くは暑さが続くので、そちらもお体には気を付けてください』
「ええ、ありがとうございます。今後もどうぞご贔屓に。では」

髪を結わえて笠を目深にかぶる。今日はまだまだ訪問先がある。
それに加えて雲一つない晴天にこの暑さだ。
道を往く人々は誰も彼も、雲は出ないか雨は降らないかという顔をしている。

しかし、今日は自ら新しい一歩を踏み出すことが出来た。それゆえこの暑さと日照りですら私を祝福しているように感じる。…やっぱり無理。暑い。かき氷食べたい。
段々いつもの調子にもどりつつあったので思考を‘新しい一歩’へと戻す。

[  ○○さんへ

今度、おすすめの甘味処を紹介します。
 もしよろしければご一緒にいかがでしょうか。

                 鈴仙・優曇華院・イナバ より  ]

仕事が軌道に乗り、忙しくする彼から芳しい返事が得られるとは限らない。
様々な返答を想像し、それが無意味な事だという結論に至る。なに、毎回の事だ。
思わずため息と一緒に言葉がもれる。

「まぁいいか、どうせ明日も休憩しに行くんだし」

夏の日照りの中を歩く私は いつになく晴れやかな表情をしていた。


終わり。

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最終更新:2017年01月09日 22:26