「もう、○○さんったら、ちゃんと御飯食べているんですか。」
清流のような涼やかな声が狭い一軒家に響く。一応表向きは恋人と
「している」東風谷であるが、実態は其れとはやや異なる。恋人との間
には尊敬、敬意、そして愛といったものが、少年漫画の友情やらと
同じ様に必要であるのであろうが、自分と彼女との間にあるのかは
少々疑問である。彼女の愛はやら献身を疑う訳ではないのであるが、
むしろ其方の方は少々以上に過剰である位であるのだが、実の所
此方から彼女への諸々が僅少過ぎる。彼女には世話になっているので
あるが、家の世話から仕事の口利きから、果ては日常の家事まで
早苗の世話になっている現状では、彼女のヒモとでも称する程にまで
落ちぶれてしまっていると言えよう。
愛とは惜しみなく与える物と、聖書には書かれている。しかし其れは
聖人との間には成立するのであろうが、施される側からすれば、ぬるま湯に
浸かるようなものである。聖人程人が出来ていない此方からすれば、
余りにも過剰な愛は堕落するだけである。鉢植えの植物に水を与えすぎれば
根腐れをおこして枯れる様に、唯ひたすら彼女の愛と好意に甘えすぎた
結果が今の状態である。東風谷が居なければ、生活すらままならないような
現状。曾ては人前に気後れせずに出られる程の人間が、今はこの低落である。
喫茶屋の女中と別れた後、肩に纏わり付く気配を感じる。肩にそっと
重みが掛かり、直ぐ後にいつもの声が掛けられる。
「ひひっ、いつもながらに○○は愚図だねえ。」
自分をからかう声に此方もいつもながらに答える。
「ほっとけよ、
諏訪子。そんなに見るのが嫌なら、見なければいいじゃないか。」
しかし早苗の「自称保護者」は、そんな程度では引いたりしない。
「早苗の守護霊としては、おいそれと引く訳にはいかないねぇ。大事な
子供が下衆な男に引っかかることを見過ごす親はいないさ。」
「へえ、ご愁傷様なことで。生憎早苗と別れる気は無いさ。」
此方のあけすけな答えに、背後から前にするりと空を飛んで回り込み、
渋い顔で答える。
「ああ、早苗を振ったら一生呪ってやるさ。」
矛盾する答えに呆れながら質問を投げかける。
「お前さ、俺を早苗と別れさせたいんじゃないの。」
「早苗がお前以外の人を好きになれば、直ぐに殺すよ。だけれど、
今は駄目だ。早苗が壊れる。」
悲しむでも苦しむでもなく、壊れる。過激な表現に馬鹿にされた様に感じた。
「へえ、それはそれはご大層なことで。」
「おや、本当だよこれは。そうやって馬鹿にしているようだけれどね、
早苗がお前をどれだけ思って居るか、聞かせてやりたいよ。」
「子供の恋愛まで関与するのは、やり過ぎじゃないか。」
「それだけ早苗が思っているってことさ。」
答えになっていないことを真面目に語る幽霊に手を振り、さっさと家に入る。
この家も早苗の力、あまり深くは聞いていないが、どうせ父親にでもせがんで
実家の金でも使っているのであろう。背伸びをして恋人の役に立つことが
自分の存在意義と考えているような人種には、自分のような愚図が擦り寄り
甘い汁を吸う。自分を大切に思っていないような者は、折角の幸福を自ら壊そう
とする。いつか外界で読んだ心理学の記事を思い出しながら、早苗が持って来た
高級そうな酒を呷りながら布団に寝そべる。高級な日本酒は厄介である。
口当たりが良いのでついつい飲んでいくのであるが、何時しか頭にアルコールが
周り、すっかり世界が犯されている。そうなってはもはや酔いが覚めるまで
待つしかないのであるが、飲んでいる本人は自分の世界が回り、正常に動けなく
なるまで気づかない。正確に言うと、気づいてはいるのだがまだいけると思い無視して
いる、のであるが。
ヤバい。それが第一声であった。口論の弾みで普段会っていた女中に飛びかかり、
そして無我夢中で暫くの時間が経った後であるが、文字通り後の祭りであった。
動く者が自分しか居なくなった合い引き用の部屋で、必死に考えを巡らせようとするが、
死体の恨むような顔を前にするとまともな考えが纏まらない。ここから動かすべきかと
思い、女の腰を持ち上げようとするが、まるで鉄の塊を持ち上げるような重みを感じ、
ピクリとも動きはしない。口では頻りに小声でヤバいと呟くのであるが、肝心要の行動には
少しも移せそうにない。
かつてテレビで見た、死体を放置して立ち去り、最後には警察に逮捕される痴情の
縺れの殺人犯を想像してしまう。視聴者だった頃には間抜けめと嘲笑っていたので
あるが、いざとそうなると、もはやどうしようもない。一億二千万人もの人が居る
現代でも犯人はほぼ全員捕まっているのであるから、狭い幻想郷の中では逃げおおせる
ことは出来ようもない。
ふと都合の良い考えが浮かぶ。早苗に連絡すれば、どうにかなるのではないか。
あれだけの金を都合できるのであるから、きっと権力者に近いのであろうし、そも
そも早苗に初めに頼っていれば、目の前の美人局をしようと脅してきた女をどうにか
することも無かった筈である。ならば、恋人の早苗は自分を助けるべきではないのか。
もはや、妄執となった考えを持ちながら、早苗に連絡をしようとして、ふと止まる。
どうやってここから離れた所に連絡をするのであろうか?
殺人。それは現代でも重罪であったが、ここ幻想郷でもそれは変わらない。
閉鎖された村社会では秩序の維持の為に、凶悪な犯罪は厳しく処罰される。そもそも
刑務所という、犯罪者を更正させようとする物は近代以降に発明されたものであり、
それ以前は犯罪者の更正という考えは無い。代わりにあるのは罰。古代バビロニア
より続く、罪には罰をという純然たる重い掟だけが存在するだけである。そこでは
刑務所なんていう手間の掛かる物はなく、唯被告を処罰する牢屋と処刑場があるのみ
である。いくら脅されていようとも、死刑を免れることは出来そうにもない。
ふと背後に気配を感じる。騒ぎを聞きつけて様子を見に来た宿屋の亭主であったなら
万事休す、いやここまで来ればもはや一人も二人も同じ。そう即断しながらちぎれかけた
手ぬぐいでもう一度輪っかを作ってから振り返ると、そこに居たのは諏訪子であった。
思わず諏訪子に詰め寄る。
「おい、今すぐ早苗に連絡しろ。どうにかしてくれって。」
普段の人を食ったような冷笑を捨て、諏訪子がこちらに喰って掛かる。
「おいおい、馬鹿を言っちゃいけないよ。早苗を巻き込むつもりかい。何処まで
あんたは腐っているんだい。」
これを逃すと死ぬしかない以上、諏訪子の肩を揺らしながら必死に訴える。
「馬鹿野郎、そんな事言っている場合か!」
「馬鹿はアンタの方だよ!」
一歩も引かない諏訪子であるが、何やら焦っている様である。自分と早苗の交際を
快く思って居ない諏訪子からすれば、荒療治であるが自分と早苗を分断する好機で
あるが、それにしては何やら変である。まるで、時間が諏訪子の方に不利になるかの
ように焦っている。
「さあ、早く自首するんだよ!今なら幻想郷から追放か、座敷牢で生かしといてやる
からさぁ!」
「諏訪子様。それはさせませんよ。」
諏訪子の声を打ち消すように、早苗の声が貫く。
「○○さん。私がどうにかしますね。」
普段の涼しい声であるが、その声は脳に染みる。アルコールよりももっと強く、
脳を鷲掴むように魂を取られたかのように、早苗の方にふらふらと近寄っていく。
諏訪子が早苗に懇願するように必死に呼びかける。
「お願いだよ早苗。それはしちゃ駄目だよ!人間の生死までどうにかしちゃったら、
もはや早苗は神になっちゃうんだよ!人間じゃなくなっちゃうんだよ!」
早苗はいつも自分に尽くすときのような、綺麗な笑顔で自分に語りかける。
「大丈夫ですよ。○○さんのためなら、私何でも出来ますから。」
普段ご飯をよそうような、そんな何気ないような声音で、彼女は僕に
話しかけていた。
最終更新:2017年01月09日 22:30