隆盛を過ぎた夏の西日から射す熱は、未だに肌を焼き、汗を干からびさせる。それから逃れようと、通りの昼の顔を担う青物屋や雑貨屋などは引き潮のように店じまいを始めた。次第に日が山の裾に沈んでいくと、町の様子はやがて少し陰鬱で、どこかわざとらしく騒がしいものへと変わる。飲み屋や一膳屋の主人たちは店先の行灯に火を灯し初めて、古く端がほつれた暖簾を掲げる。私たちは、そんな、行灯の輪郭がない明かりに照らされた通りを歩いている。そして、少しの物足りなさをもて余せてどこかで一杯引っ掻けようかと店を探していた。めぼしい店が見つからずに、人々の落ち着く間もない蠢きの中で少し疲れを覚え始めた時、りんりんと遠くでか細い鈴の音が聞こえたかと思えば、私たちの目の前を黒猫が一匹、颯爽と通り過ぎすぐそばにあった狭い裏路地にそそくさと入っていった。
私たちも、先ほどの足にたまった痛みもなんとやら、急に湧いた奇妙な好奇心にせっつかれて猫を追って路地に入ってしまった。案外奥行きが深くあったその道は、表からの灯りの届かない暗がりのなか、奥から聞こえる打ち水が石畳を叩く音だけが響き、後ろから追う夜の喧騒を置き去りにしていった。少し歩けば、真新しい格子戸が側に備え付けてある小さな提灯に暗闇の中でうすぼんやりと白く照らし出されていた。其処の手前では、小さな童女が虚ろに打ち水を払っていた。私たちに気づくとその手を止め、一礼してカラカラと戸を開けて中へと誘った。礼を言って中へ入るすれ違いさまに、彼女をみやると着物の隙間から小さな金色の尻尾がはみ出ていた。
店の中は十畳くらいの広さで、厨房と客席を板前の台が横に仕切っているだけの単純な造りであった。
「いらっしゃい。」そこでは、白の割烹着を着て右手に菜箸を持った、痩せて派手な顔をした女が私たちを出迎えてくれた。藍だ。


「久しぶりなのかな。」私は席につきながら、親しみを込めて言った。実際、藍と話すのは本当に久しぶりのことだった。
「もう、二十年くらいはまともに喋ってもなかったしね。」ちょこちょこと小皿にへと料理の盛り付けをしながら、彼女は言う。流石に狭い厨房で、自慢の尻尾を出しておくのは邪魔なのかどこかに引っ込めているようだ。
「お互い大変だったもんね。」華仙が歯を出して笑いながら、ピンと小指を立てた。その動作に、私は何と言えばよいのか分からず、ただ茶を濁すように笑っていた。
すぐに出てきたのは、とっくりに入った冷酒と小皿に乗ったあげさんと小松菜の煮浸しだった。彼女の好みか少し甘めの味付けは、いつも自分が作るのとは違って新鮮で美味しい。
「なあ、旦那さんとは上手くいってんの?」女には、よそ様の夫婦関係はよいつまみになる。ついでに壁にかけてあった品書きを指差して、ふたつと唇だけで動かした。
「悪くはないよ、あの人は子供の面倒も見てくれるし。何より、私を愛してくれているから。」そう語る彼女はどこか誇らしげではあるが、またどこかで薄っぺらくて溶けてしまいそうな弱さを感じさせた。
旧友とのなつかしい思い出話は、過去との隔たりを感じさせる悲しさがあるものの、今となっては笑って過ごせる男との失敗談やババアと言っていた昔の上司とそう代わりのない年齢になってしまったなど、話の種にはつきない。。
七輪の上に、金網に乗せられた二尾の鮭の切り身はパチパチと音を立てて透明な油はその肌に滴となって滲んでいる。華仙はすでに付きだしを食べ終えたらしく、品書きをみながら不細工な渋面を作っていた。
そして、藍の顔を見ずに
「豆腐屋も繁盛してるみたいだしね。旦那さんもかっこいいし面倒みもいいから、若い子に騒がれたりするでしょ。」寂しき独り身かな、無意識のうちに華仙はこうやって人様をいじろうとする癖がある。
「まあ、そうね。よく女の子に口説かれたとか、恋文をもらったとかで私に嬉しそうに自慢してくるわ。子供の面倒が忙しくて、私がそんなに甘えなくなったから、かまってほしいみたいね。」独身女のやっかみはこの女には通用しないらしく、えらく余裕があった。
「あはは、妬かないんだ。それとも影では鬼嫁とか?」意外だ、ここの女はみんなそういうことがあれば、すぐにキレてえらいことになるのに。 
「少し前まではそうだったけど、今じゃね。」本妻の余裕か、うちの旦那は浮気なんてしませんよと言わんばかりのご様子で、手際よくいつのまにやら取り出していた蛸を捌いている。藍は火鉢の近くは蒸れるのか、中指で引っ張って少し胸元をはだけさせた。そこに青く変色した歯形らしきものがいくつか見えたのは、華仙は気付いただろうか。
「そういえば、藍の二人目の子供は何歳くらいなったんだっけ。」少し彼女の生臭さに当てられてしまった私は、爽やかな話題に持ち込もうとした。
「もうすぐしたら、二歳になるよ。やんちゃで手がかかるけど、その分愛でがいがあるわ。これ、蛸の酢のもの。」
「ぎゃあ、うまそう。」華仙は大げさに両手をもみこみんで、すぐに箸をつけた。私も大振りのを一つ頂いたが、中々のものであった。


「でも、ーーちゃんも大きくなったね。私が担任していた時はこんなちんまいのに。」
「見た目だけ変わっても、中身はまだまだ子供だけどね。」
ーーとは、先程の店先にいた童女である。私が二年前まで、寺子屋で受け持っていた子だ。
「ああ、美味しい。じゃあ藍と□□の家庭は順風満帆、晴天なりというわけね。」
「そうね。ようやくお互いのことを思いやれるようになってきたし、子供も出来たおかげでまた繋がりが深くなった気がするしね。」静かに表には出さないものの、その穏やかな表情から、夫との信頼関係を築けていることの自負が伺えた。そんな姿を見ていると私は〇〇とに、彼等のような信頼を置いているだろうかと、少し暗い気持ちが熱い茶を飲んだ時みたいにじんわりと湧いてきた。
瞬間無言となった間に、ひゅうと華仙の口笛が響いた。
「そりゃあね、自分の式を一日中見張りに出してたら余裕もるわ。頑張ってる橙にも美味しいもの食べさせてあげてよね。」ぱちりと火花が散るのと同時に、ほんの一瞬だけ、ぱたぱたと団扇で扇いでいた藍の手の動きが止まった。が、すぐにまた動き出して、
「覚えがないわね。」と、また鉄火面をかぶり直したように取り澄ましている。藍さん、尻尾、出てますよ。
会計を済ませた後、主人に見送られて店を出ると、あの童女が表通りに出るまで役を買って先導してくれた。
空気のさざめきと地を歩く音だけしかない静かな道では、自然と会話というものの必要がなくなる。
静かであることは、怖いけれど同時に安らぎと考える時間をくれる。
私は彼のことを考えていた。あの頃はあんなにいとおしくてたまらなくて彼が側にいてくれさえすへば良かったのに、今では彼が私を捨ててしまわないか他の女のところへ行ってしまわないかしか考えられない。
藍のようにお互いのことを信頼している関係が羨ましい。私は彼のことを疑ってばかりいるのに。
「せいが。」そんなことを考えていたところへ華仙に声をかけられた。どうやら表通りについていたはずなのに、私は道の前で立ちつくしていたらしい。
「どうした?あんなので酔った?」彼女は少し皮肉った口調のくせに、心配そうな表情で言った。こういう女なのだ、こいつは。
「ああ、大丈夫よ。ちょっとだけ考えごとしててん。」ごめん、華仙。


その後、鬼の萃香と出会いまた飲みに行くかと誘われたが、少し疲れたから先に帰る心配する華仙に別れを告げて、一人帰路についた。町から少し外れたところにある私の家は、遠くからでも明りがついているのがみえる。後ろ髪を引かれる、そんな思いがつい浮かんでしまう。朝、家を出るときはただ一言二言残して意気揚々としていたのに、今ではこの有り様。
夜の鈴虫の囀ずりは、一人で聞くとこんなにも淋しいものか。彼に会いたい。でも、今彼の前にいれば私はどういう顔色をしてるのか。
そう考えている間に家の前まで着いているのに、戸を引くことさえ逡巡してしまう。
一刻、二刻その場で立ち尽くしていると、不意にがらがらと重いガラス音を立てて戸が開いた。
〇〇だ、気付いた瞬間目を伏せた。
「ーー何しとん。」相も変わらす憮然とした口調でそう言った。
「何も。」何だか、そういうところが無性に憎たらしくなってきて、つっけんどんにこちらも返してしまった。 
「まあ、入れや。蚊飛んでるし」
「うん。」
「ーおかえり。
「うん。」

そのまま服を脱がされて、風呂に入れと促された。それ以外は何も言ってくれなかったし、私も言わなかった。 

湯船に浸かったあと、水を一杯飲み、寝間着を一枚羽織った。そして、きしむ階段を登り、二階の寝室へと向かった。
房間をひいて入れば、蝋燭に火を灯して、彼はいまだに机に向かっている。明日の授業の準備でもしてるのだろう。
私が部屋に入ってきたのに気付いてろうに振り向きもしない。私は静かに彼の後ろまで来ると、膝を畳に叩きつけるようにして座り込んだ。そして、額だけを彼の背にあてて
「なあ。」
「ずっとそばにおるって言って」
そんなことを言うつもりは一切なかった。
「お願い。」少し声が震えた。

目が覚めると、まだ朝と言うにはもの悲しくて夜にしては生気がない時間だった。
私は布団の上で目覚めたのだから、彼が運んでくれたのだろう。
彼は机に突っ伏して、いびきをかいて寝ている。私は急いで肩掛けを彼に掛ける、夏とはいえもう秋だ朝は冷える。
窓から外を覗けば、空は水底のように濁っていて、生き物たちは夢を見ている。
どうやら彼の返事も聞かずに眠ってしまったようだ、彼が何を言ったのか、それとも何も言わなかったのすら分からない。
いや、その方が結局良かったのかもしれない。おかげで、私達はまだ答えを出さなくていいのだから。
「ずっと一緒やで、〇〇。絶対、離さへんから。」
まだ、この顔を眺めていられるならそれでいい。

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最終更新:2017年01月16日 03:36