歯車
 その日僕は河城の部屋にいつものように居た。彼女は僕に何時もの様に色々と話をしてくる。機械を触る所為か油の匂いを染みつかせた作業着を、いつもの様に着ていたところを見ると、大方着替える間を惜しんでこの部屋に来たのであろう。部屋に入って来た彼女は、僕が潤滑油の特徴的な匂いに微かに顔を顰めたことに気付いたようで、空気清浄機のスイッチを入れて椅子に座った。
「やあやあ、○○。元気かい。」
「おかげさまで。この部屋に居ると色々退屈しないのが、せめてもの幸いだよ。」
「無縁塚に円盤ディスクが落ちていたようで、最近香霖堂にたくさん入荷していてね。良かったら今度、姫海堂の所の外来人でも招待すれば良いよ。向こうも君の親友なんだろう……。」
彼女と取りとめのない話をしている時ずっと、僕の視界の片隅には歯車が回っていた。


 僕の親友がこの部屋に来た日に、僕と彼は大変な幸運を得る事が出来た。望外の助けを得てこの地下室から外に脱出することが出来たのだが、僕が天窓から抜け出す時にも、やはり視界の中で歯車は回っていたし、走っている時には段々と数が増えてきていた。しかも僕は地下室から抜け出す時に使った、河城特製の義手を後生大事に持っていたのだが、機械の部品の滑りを良くするグリスの匂いが始終しているように、そう本当は外界ではとうに見られなくなったであろう、自然豊かな山中の獣道を風を肩で切って走っていたのだから、どう考えてもそんなことなど無いはずなのであるが、僕は彼女と結びついた油の匂いが、そこから漂ってくるように感じていた。

 僕が河城に連れ戻され再び部屋に戻ったとき、彼女は申し訳ない様な、すこし悲しそうな顔をして僕を特製のベッドに繋ぎとめて点滴を打った。彼女は何やら栄養補給のヒヨスチアミンとか、鎮静剤のストリキリーネだのが入っていると矢継ぎ早に僕に話かけ、不審がっている僕との溝を埋めようとしていた。一方の僕と言えば彼女の一生懸命な話に真面目に答えるまでもなく、ああだの、そうだのと適当な返事をしていたのであるが、それでも彼女は僕が生返事をすることが嬉しかったようで、しきりに僕の手を握り大丈夫、大丈夫だよと僕の声に掛けていた。僕が目を開けていられなくなっていても、まだ声を掛け続けていた河城であるが、僕の手から力が抜けると堪らずに、僕の手首だけでなく腕全体を掴んだようだが、視界の半分を歯車が埋め尽くした僕には、何もする力がなかった。


 僕はその後も部屋にいて、何をするとでも無く虚空を見上げて暇を潰していた。あれから特製の点滴は一日一回の注射に代わり、僕の視界の大半が歯車に埋め尽くされていた。彼女がいつぞや僕に語りかけた、オールライト、オールライトという言葉を何気なく呟く僕は、はたから見れば立派な狂人か廃人のお仲間なのであろう。僕がそんな気だるい空気に浸かっていると、ドアが開きにとりがやって来た。僕が億劫そうに彼女の方を見つめると、最近益々機嫌の良くなったにとりは僕に声を掛ける。
「やあ、○○。調子はどうかな。」
「…まあ。」
力無く唇を動かし小声で彼女に返事をすると、彼女は笑顔で答える。
「それは良かったよ。いつぞやはこれまでかと思ったんだけれど、君がこうなってくれたのは不幸中の幸いか、或いは何か他の洒落た言い回しでもあるのだろうけれど、まあ、兎に角、僕の愛情を素直に受け取ってくれたということだね。」
ここに座るよ、と言い彼女はベッドに腰かける。僕の返事を聞く気はないのであるが、此方も返事をするような元気も無いのだから、丁度良いのかもしれない。彼女は私服を着ているのだから油の匂いはするはずもないのだが、僕の鼻には微かな油の匂いが漂った。虚空に浮かぶ歯車を手で除けながら、にとりの腕を掴む。歯車が僕の全てを覆い尽くすような気がして、僕は何かに縋りつきたかった。
 僕の不安そうになった顔を見て、にとりは僕を抱きしめて顔を近づける。歯車の中で彼女の姿だけはこの目に鮮明にとらえることができた。気だるい苦痛の中で僕にはもはや、自分で死ぬ気力も無い。ああ、誰か、誰か僕が眠っている時に、僕の首をそっと××××てくれないだろうか。

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最終更新:2017年01月16日 20:50