それからは幻覚を見るのがやけに多くなって着ちまった。それだけならまだしも、夢にでも変なものをみるようになった。だが、夢のほうは主体が俺ではなかった。視界から覗く、服装や発育の具青からして、それは幼い女の子だ。ちょうどそのときの俺とためぐらいかな。でもな、その子の手は、まるでその年に見合わなかった。何度もつらい手作業をしたのか、手のひらは白く変色したこぶだらけ、甲には何かで火傷したのか、大きく焼け爛れてた跡が残っていた。その子は、寒さのためか、森の舗装が行き届いていない道を必死で駆けているためか、のどからぴゅーとどこか間抜けな音をだしながら荒い息遣いをしていた。薄いぼろを着ているせいで、歯は虫の羽のように震え音を立てた。不思議なのが、こんな状況なのに、その子が嬉しそうなんだ。時々ふところにある何かに手を当てると、さらに機嫌がよくなる。ちょうどあの木苺が群生しているところまでにたどり着くと、さらに歩みは速まり、息遣いにも嬉しげな様子がもれ出た。あの広場に突き当たると、一度立ち止まり、ぼさぼさになった髪に二三度手櫛をし、目についたくそを指でぬぐった。満足したのか、深く深呼吸をして、寒さのせいで、ひどくむせた。どんどんと自分のへそのまである草むらを踏みしめて、中心にある家まで歩いていった。その家は近くまで行くと、よく詳細がわかった。一言で言えば、古い。でも、どこか金持ちの家のような気品がある。石造りの、壁には白く塗装がされて、屋根のかわらはところにひびとかかけているところはあったが、あと何十年も持ちそうな丈夫なものであった。地面から、絡みつくように伸びている蔦がどこか間抜けな感じでこの家の雰囲気を硬っくるしいものにせずにすんでいた。扉には鉄製の重そうな輪形の取っ手口がぶら下がっていた。
それは鍵がかかっているらしく、いくらひっぱて見ても少しがたと音がするのみで開かない。そこで、その家の主人。わかってるだろうけど。が帰ってくるまで待つことは出来たろうけど、寒くてたまらなかったんだろう。その子がほかの入り口を探し始めた。壁に手を伝いながら、家を回った。そして、裏手にもう一つ大きな木製の扉があった。それは古くて、硬そうで、汚れのために黒ずんでいた。表と同じ取っ手口があったが、やはりその扉も開かなかった。ため息をついて、彼女は一歩後ずさった。そうすると、とびらの端に小さな何も植えられていない鉢植えが一つおかれていた。その子は何かをひらめいたように、その鉢植えを手に取った。だが、鉢植えの底に汚い紙が一枚貼り付けられていただけだった。その紙には「ひっかかったわね、このどろぼう!」と罵倒の言葉が張ってあった。そのこは、字が理解できないのか、首をかしげた様子ですぐに鉢植えを元の場所にもどして、さらに付近を探した。が、そう甘くはないのが現実。鍵がありそうな場所はどこにもなかった。飽きてしまったのか、疲れたか、少しいじけた様子で、体をゆすり、とびらの取っ手口を指でいじくった。そうすると、かたりと何かが音を立てた。女の子も、それに気づいたようで少し扉を引くと、何の抵抗なしに開いてしまった。
開いた先は、物置のようだった。幅はそこまでだが、奥行きはかなりありそうで、多くの箱と小さな子供用の服、他には人の姿をかたどった石膏なんかも置いてあった。明かりはなく、扉から入る光が部屋の中を照らしていた。箱には、色とりどりの布地や、反物が入っていた。他にも、綿とか、絹の糸が巻かれた棒も何かもあったな。最初、彼女は少しその部屋の暗さとか、置かれている石膏なんかにひるんでいたものの、慣れてくればまるで探検しているみたいな足取りで部屋のあちこちを歩き始めた。ひとつひとつ、箱を開けたり、よくできた石膏とにらめっこをしたりしてな。家の主人はまだ帰ってくる様子はなく、そのことがますます彼女を調子付かせたんだろう。どんどんと、部屋の奥へ進んでいった。資材の山を通り抜けていくと、黒い絹地の幕が部屋を仕切っていた。この瞬間に俺は、この奥へは行ってはいけない気持ちの悪いものを感じた。べっとりとして、濁った嫌な空気が幕間から流れてきていたんだ。女の子はそれに気づく様子も見せずにその幕を興味ぶかそうにみつめ、幕間に手をかけた。彼女は顔だけを滑り込ませて、中を覗いた。
幕間の先は、光に満ちていた。高いところに窓がいくつもあり、光がそこからとめどなく溢れ、流れ込んでいた。部屋には、大人の腰ぐらいの高さの台が左右対称に二つ置かれ、その間には白で革張りの大きい腰掛が置かれていた。その腰掛には、二人の老いた男と女が二人座っていた。お互い、西洋式の白い服を着て、黒い袴も西洋の物を着ていた。その二人は、眠っているようで目を閉じ、お互いの手をにぎりしめていた。女のほうは、男の肩に頭をもたれ掛け、幸せそうな顔をしていた。男のほうも、女に寄りかかって、つないでいる手に、もう一つの自分の手を重ねていた。その二人を、窓から降る光が優しく照らし、一種の完成された光景を作り出していた。彼女はその光景に見惚れてしまっていたが、眼前の光景は俺に強烈な異物感を与えた。嫌いなものを食べさせられているでもなし、誰かに罵倒されたわけでもない、自分の中に空洞があるような、あってはならないものがそこにぽんと置かれているという強烈な違和感が沸いてくるんだ。彼女は眠っている二人に近づいた。そして、その二人の前まで来ると、台の上に何が置いてあるかがわかった。左手の台には黄色い液体が入った小瓶と刷毛。それと、小さな虫眼鏡が一つ。一方の台には、多くの年季の入った小道具がきれいに整頓されて並べ立てられていた。鉄製で、先のほうに黒い斑点のある重たそうな鋏、三本、大中小になべられた剃刀は、刃は新品同然のように輝いていたが、木で出来た柄は長年使用されたものでしかでてこない艶があった。
細身で六角のかなづちは、使われたばかりなのか白い粉が少し磨耗した面についていた。そして、他にも白い杭や、小さな刷毛などがあった。そして、漆塗りの重箱がひとつ。がその中で、一つ気になるものがあった。鑷子(せっし)だ、小さくて、細かいものを並べるときに使うやつなんだけどな、精密な作りでな、こんな見事なつくりは父ちゃんでしか作れないぐらいの一品だった。その先端に何かついてたんだ。そいつは、薄透明で、せみの羽のように薄くひび割れた模様がその表面を走っていたんだよ。その子はその鑷子を手にとろうとすると、ひらりとそれはくるると回って地面に落ちた。すこし、部屋の光が弱まる気がして、その異物感も薄まった気がした。落ちたそれは、地面に落ちるやいなや、あまりの薄さのためにか地面に溶け込むようにどこへ行ったのかわからなくなった。そして、次に女の子の関心を引いたのが、漆の重箱だ。一段、箱を開けると、化粧品が並びたてられていた。二つ置かれた円形の箱には白粉が、白く細かい粉ときらめく銀の輝きがあった。筆先の短い眉筆と少しくどい色をした紅が入った容器は黒く八角の形をしていた。彼女はその紅色を指で掬って、一度眺めた後に唇に少しだけ塗りつけた。彼女は少し、笑った。そして、その二人の老人に目を向けた。彼女は彼らに
―ねえ、
生来のものか、少しおびえた調子で声をかけた。暖かい日に照らされてよく眠っているのか、彼らは何の身じろぎすらしなかった。もう一度、声をかけても反応はない。
―おきて
少し、声を大きくした。声を張ることが少ないためか、ひきつりがあった。二人は、目を閉じ続けて、やはり何の反応さえも見せなかった。またも、その異物が大きく濃く、ふくらみが増していった。今度は、あの子もそれに気づいたか、ひっと悲鳴を上げた。だが、目の前にあるものが、何であるのか。それを理解しようとするには幼すぎた。何故自分が悲鳴を上げたのかさえ、理解できなかったようで、あえぐように声をだしていた。そこから早く逃げ出せばいいものを、枷をかけられたかのように、その二人を起こすことに執着した。どんなに、声をかけてても、一つの身じろぎすらしない二人に、痺れを切らしたのか。自分の手を、ぐいぐい服で拭ったかとすれば、近づいて、老婆の手に重ねて、ちょっとゆすった。
直後、重ねた手が、ぬるっと滑った。視線を手元に移せば、老婆の手の甲の、紙よりも薄い皮膚はぐしゃりと剥がれ、その下から覗いたものは、白い無機質な石膏。皮膚にわずかについた油が、肉の石膏を走っていた。三秒。この子が、これが何なのかを理解した時間。ぺたりと腰を抜かした。四秒。この場から逃げ出そうとするのにかかった時間。仕切りをかいくぐり、地べたをすったまま、積み上げられた荷物を押しのけ、光の差す入り口まで逃げようとした。だが、その光を何かがさえぎった。
アリスだ。足元には、果物が零れでた手さげ袋が落ちていた。女の子は、先ほどの人形を作った人間が目の前にいることに、恐怖して尻餅をついて後ずさった。アリスは、親の物を壊してしまった子供のような顔をしていた。そして、届きもしない距離なのに手をこちらに思い切り伸ばして、こちらに近づいてきた。いやいやと顔を振り、彼女に向かって
―あれは、違うのよ
―友達なの
―頼まれたのよ
―綺麗だったでしょ?
―だから
震えた声で、アリスは弁解を求めてこちらに寄ってきた。女の子はアリスが何を言っているのか理解できずに、許してとか助けてと繰り返しながら後ずさるばかりだ。アリスは
―お願いだから、
と自分の四分の一の年齢にも満たない子供に懇願し、あえぐように口をゆがめ、潤んだ瞳は瞬きをすると溢れるように一本の線が頬を伝っていった。女の子は壁に背がぶつかると、手元にあった紙とか箱に詰められた反物などをアリスに向かって投げつけた、そして、手をせわしなく動かしていると何かをつかんだ。すぐそこまで来ると、アリスは跪いて、女の子の頬におそるおそる手で触れて
―ほら、なんとも怖くない
ひきつった笑顔を向けた。その瞬間、ごつりと鈍い音がした。ぐらりと一度アリスの体が揺れて、そのままゆっくりと倒れ付した。さらさらとした金色の髪は、じわりと血が滲み赤く染まっていった。女の子の手には、赤銅色の錆びた金槌が血管が浮き出るほどに握り締められていた。
森の中にいた。葉がぎっしりと詰まった木は、月の光さえも養分にしようとする勢いで、
さあ天へ、いざ天へと高く伸びていた。おかげで、葉の下は真っ暗。気まぐれのように開いた隙間からわずかな光が気まずそうに差し込んでいた。それに照らされた小さな池がひとつ。透き通った水面には、こんな寒い時期なのにアメンボがすいすいと泳ぎ、円形の漣を残していった。彼女はそのそばで丸くなって座っていた。小さく鼻をすすり、先ほどまでは無かった膝の擦り傷や腕の痣などを気にしていた。不意に聞こえる鈴虫の音や、姿の見えない生き物が踏み折る木の枝の音は、彼女の神経を張り詰めさせた。彼女はけだるげに、水面を走るアメンボをながめていると、ふいに懐に手を入れた。取り出したのは、小さな箱だった。簡素な装飾が施されており、右端にはアリスと不細工に彫られていた。箱を開ければ、長い針が一本と質のいい布地が一枚入っていた。針の先は、研ぎ忘れたのか、よく尖っていなかった。彼女はしばらく眺めると、ふたを閉じて、池に浮かべた。小さな箱は意思をもったように直進していった。そして中心の辺りまで来ると、くるりと一度回って沈んでいった。池の底まで、落ちていくのを見終わると、ゆっくりと立ち上がろうとした。
顔を上げた正面に、足が見えた。つまさきをいじらしく曲げて、足首を伸ばすと、かぽんと間抜けな音がした。視点を上げようとすると、布がばさりと被さられた。小さな手のようなものに肩を握られると、壁にたたきつけられた。
―アリスは、許した。でも、私は
体の内側から何かが突き破られる音がした。視界が充血し、何かが喉からこみ上げてきた。体勢が崩れ、顔に硬いものがぶつかった。その瞬間に、あの感覚が体の中を走った。鈍い痺れが体を這い、その後から伝うべったりとした熱。だが、それはひどく困惑していて、激怒していた。足の関節に、芯が通ったような感覚を覚えると、体が動いた。血がじゅわと傷口から流れてくるのがわかると、流れ出た血液がまた体の中に戻ってきた感覚がした。
喉から出そうだった熱いものも、赤く染まった視界も熱が冷めるように引いていった。被せられた布をそっと剥がして、辺りを見回したが、暗い木々が広がるばかりで、何もいなかった。視線を下げると、下に人形が転がっていた。足は外れて少し離れたところに落ちていた。高そうな服は泥で汚れ、片足になった白靴は未だに左に右にふれていた。
夢はここで必ず終わる。これが何かの暗示かなにか、ただの夢にしては少し生臭すぎて劇的だ。
おまえ、こういう話しってるか? ―何を?
―い飴をくれる女の話さ
だいぶ前のこんな季節の変わり目だ。その時も雪女がこういう風に寝癖の悪さで暴れまわっていたそうだ。ある宿屋に養子で見受けされた女の子がいてな、大切にそれはもう可愛がられたそうなんだ。だが、ある時この町に一人の女が現れた。汚い身なりで、体もやせぽっち。でも、恐ろしほどに美しい女だったそうだ。そこで、宿屋の主人が其の女の世話をしたらしいんだ。段々と女は回復していき、そのお礼として女の子の教師となった。二人は打ち解け、親友同然、姉妹のようにお互いを愛しんだ。だが、ある時女が一度家に、帰ると言い出した。女の子はひどく悲しんで女を引き留めた。ぐずる女の子に女は赤い飴を渡した。女は彼女にこう言った。一人で食べてね。彼女は約束を守って、夜中に布団の中で丸待って食べた。そうすると、夢の中で女が現れた。こっちへおいで。こっちへおいでと深い森の中から彼女を誘うんだ。そして彼女はそれに誘い込まれた。森の奥には、一件の家がひとつぽつんと立っていてな、そこでは色んな果物やお菓子がずらりと並んでいるわけだよ。そこで二人は楽しい楽しい時間を過ごした。でも、夢が覚めてしまえばそこで終わり。女の子は女に会うために、その飴を食べ、いつしか毎日のように夢で女と会うようになった。ところがだ、女の子の体は次第に痩せ細っていき、変なことを口走るようになった。周りの人間は彼女を心配したが、ひどくそれに抵抗し、彼らを押しのけた。そんな状態が数週間続いたときに、彼女は何も持たずにそのまま失踪してしまった、めでたし、めでたしという話さ。
父ちゃんの話に出てきた、行き倒れの女というのは、アリスに間違いなかったが、もう一人の女の子は、夢に出てきたことは印象がかなり違った。身なりの点においは、夢の中の女の子はあまりに粗末で使い古された、麻の着物を着ていた。少なくとも、愛娘にそのようなものを着せる親がいるのか。さらには、女の子は狂ってはいなかった。ひどい身なりでやせこけてはいたものの、あの家に入るまでは元気はつらつとはいかなくとも、普通ではあった。お前もだろうが、幼かった俺には話がこんがらがって何が本当で何が間違っているのかさえわからなかった。
正月が明けて、寺子屋の授業が始まった。どんな先生だったか、正直あまり覚えてはいないんだが、変な訛りがある男で結構教育熱心な人だったと思う。その人に、その女の話を聞いてみたんだ。どうなんだーってな。でも、先生も、聞いた事はあるけどよくは知らなかったらしい。
―隣町の同僚で、結構年食った妖怪の相の子がおるから、聞いてみるわ
と意外に親身になって、俺の話を聞いてくれた。
そんで、数日してから頭に角の生えたでかい女が、俺の家にやってきた。慧ねという名前で、五十年前まではこの町に住んでいたそうだ。彼女は、俺の顔を見て、少し眉をひそめて、赤い飴の女をどう思う、怖いのかと聞いた。よく分からないといったら、げらげらと笑って、うんうんと頷いて、
―これはもうしかたなし
と言いそのまま帰ろうとした。俺は慌てて彼女を引き止めた。何背、聞きたいことがまだ聞けてなかったからな。そうすると、彼女は振り返って俺にこういった。
―分からないんだろ、でも怖くはない。じゃあ、確かめにいってくればいいんじゃないか。
そのまま、手をぶらりと上げて、ひらひらさせながらかえっていった。俺は考えたよ。そりゃ、もう。確かめに行けばいいっていわれても、アリスがいるところがどこなのかさえ分からないっていうのにだ。
鍛冶場はやはり、こういう時に落ち着く。打ち付けられる金属音と、噴き籠る火の轟き、泡立つ水の音、これらの騒々しくて規則ただしい世界にいると、一つ音が鳴るたびに胸のわだかまりが剥がれ落ちていく気がした。とうちゃんは近くにいると臭くて堪らないが、仕事をしているときは格好いいんだ。いつも、あんな感じにしゃっきりしてくれてるといいんだが。何作ってんだろと、少し手元をのぞくとまだ、熱で変色している鉄をぐいっと引き伸ばして、細くもっと細くと一本の線香よりも華奢な棒を作ると、へらを取り出して、ちんちんと等分に切っていった。さらに、それを引き伸ばして一本の細長いものが出来上がった。
針だ。
最終更新:2017年01月16日 21:47