「あなたって、どうしてそこまでしてくれるの」
いつか霊夢にそんなことを言われたことがある。
その時私は、
「君を見ていると、外界に残してきた娘を思い出すんだ」
と語った。
幻想郷に来る前、私は良き夫でも良き父でもなかった。仕事ばか
りで、ちっとも家族を顧みなかったからだ。でも私は、妻子を愛し
ていなかったのでもない。今だって愛している。ただ、私は、働く
ことが幸せを掴む手段なのだと信じてやまなかったのである。
近頃でこそ生意気だが、私の娘は、元来頭が良くてしっかり者で、
けれど引っ込み思案で寂しがり屋なところがあった。聡明だった娘
は、自分が寂しくても、親の忙しさを慮って決してわがままを言わ
なかった。私は娘のそんな思いに気付かないわけでもなかった。
そう、知っていたのに……。
私が霊夢を甘えさせていたのは、彼女に私の娘を重ね合わせてい
たことも否めないが、概ねは、娘と同じくらいの女の子が、親のよ
うに甘えられる相手が居ないことに寂しさがあるかもしれないのに
我慢ならなかったからだ。
霊夢だけじゃない、例えば
魔理沙。魔理沙は元々は人里の霧雨さん
の所のお嬢さんだった。だが、魔法使いになりたい魔理沙と、変な
道に行かせたくない父親の確執に因って家出してしまった。この事
について、私は霧雨さんを責めることは出来ない、むしろ身につま
される思いだ。親が子に、安全で幸福な道を歩んでほしいと考える
のは至極当然。でも子供にも子供なりの意志があるのだから、親の
気持ちなんて知る由もない。それどころか、親の願いなんぞ、自ら
を縛ろうとしているもののように思えて反抗心が芽生えるのが自然
である。
私は、親元から離れた魔理沙を褒めそやす気は無いが、自身の夢
のためにひたすら努力していっていることを褒めてやりたかった。
褒めると言えば、白玉楼の妖夢。彼女はなかなかこちらに甘えて
くれない。たまにはいいんじゃないか、とは言ってみても、
「駄目です」
との一点張りで突っぱねられてしまうのである。まあ、剣術には
心の研鑽も重要だから、無理強いは出来ないが。
対して
幽々子さんは、とても甘え上手だ。何か甘えちゃいけない
と思わせるしがらみが無いのが大きいだろう。出自を思えば、彼女
だって色々と背負っていたものもあるし、死後くらいはゆっくりさ
せてもいいんじゃないか。
妹紅だってそうだ。彼女の人生は、苦労の多い人生だった。自分
の父が、かの有名なかぐや姫に魅了された一人となった際の愚行。
妹紅はかぐや姫を恨み、意趣返しを画策するも、魔が差して蓬莱の
薬に手を出してついには不老不死となってしまい、世間からの視線
を厭い長らく孤独な生活をしていた。
妹紅の境遇には深く同情するし、彼女の父親に苦言を呈したい
ところだが、生憎と私も同じ穴の狢でしかない。実際にこの目に収
めたかぐや姫こと輝夜の御姿は、まさしく絶世の美少女だった。綺麗
な黒髪に、究極に整った目鼻立ち。ただ特徴だけを列挙するとそこ
まで美人とは思えないだろうが、黄金比と言うのか白銀比と言うの
か、とにかく癖が一切無い普遍的な美しさなのだった。
竹取物語では悪女みたいな印象を持った時もあったが、実際に触
れ合ってみるとこれがなかなか良い娘で、ちょっとわがままで、人
を煙に巻く癖があるが、心くばりが出来る優しい娘だ。
永琳先生も、随分と彼女を溺愛している。輝夜は、意外にも好奇心
が強く活発で、永琳先生も苦労されてるそうだ。可愛い子には旅を
させよとはいみじくも言うものの、私とて自分の娘がどこか遠くへ
行って危ない目に遭うかもしれないことを恐れたものだ。永琳先生
の心労もかくや。
似た立場からか、永琳先生とは気が合った。私がこの幻想郷で懇意
にしていた人たちの中でも、取り分け。そのある日、竹林を二人で
散歩していた時、彼女から思いを告げられた。彼女は私を、自らの
方へ引き寄せ、背中をその辺の竹に預けておもむろに口付けをして
きたたのである。抵抗はしなかった。私が拒絶の意を示さないと見
るや、彼女は私の肩に掛けていた手を、私の首に巻き付けて一層深
く口をねぶってきた。それを私は拒めなかった。さもなくば彼女に
恥をかかせると思った――否、その時私は彼女の虜となっていたの
だ。身体に纏わり付いてくる、柔らかく心地良く、そして温かい感触。
鼻からの昂る吐息に頬を撫でられ、その音が耳に響く。唇をを彼女
の舌が、さながら原始的な別の生物みたいになぞってくる。唾液を
吸われたと思ったら、今度は唾液を送り込まれる。粘っこくて、
不衛生なはずなのに、却ってそれがますます興奮する。このまま、
本当に溶け合って一つになっていくのではとさえ思った。
やおら彼女は、私の首に巻き付けていた手を、肩、胸、腹と撫で
ながら下げていき……。
そこに来て、ふと我に返った私は、彼女のその手を掴んで制した。
突然の私の翻意に彼女は目を見張った。行為が中断されながらもまだ
燻る残り火に、お互いに息を乱しながら、呆けたように見つめ合い静止
していた。それから次第に熱が冷めていくのを感じた。不意に彼女は
眉をひそめて、
「あなたなら分かってくれていると思っていたのに……」
恨みがましい、それでいて切なそうな声音で呟いた。その視線に耐
えかねて、私は彼女を直視出来ないでいた。
「私は、妻と娘を放って他の女性に靡くことは……」
「ええそうでしょうね、私みたいな無粋な女なんて嫌よね」
このようにまくし立てて彼女は、私を突き放して、来た道を速足
で戻り出したのである。慌てて私が追うと、首だけで振り向いて
こちらを睥睨するのだ。しかし私は、この竹林に放置されるとひ
とたまりもないないのだから、彼女からの刺々しい視線に耐えな
ければならなかった。
以後、しばらくの間、その敷居の高さ故、永遠亭を避けるよう
になった。
その分空いた時間はどうしたのかというと、仕事に没頭する
ことだった。私はいくつか仕事を掛け持っていて、その内の一つ
が寺子屋の手伝いだった。上白沢慧音女史との誼はそこからだ。
彼女の手伝いをして、また一つ分かったことがある。親の子へ
の思いに因る心労もさることながら、子を預かって、主に学問の
面で面倒を見る教師は、感謝に堪えない。彼女と一緒に仕事をし
て、教師もまた別の大変さがあることが分かった。
思い返してみれば、果たして私は、娘の学校の先生について何
か知っていたか、いや知らない。学校生活に関する事情は、全て
とまでは行かないまでも、妻に任せっきりだったからだ。
慧音女史とは、偶さか酒の席を共にする事がある。その折には、
本人の口から相当な愚痴を聞かされた。神経を使ったことに因る
疲労と、頑張り――難解すぎる授業とか――があまり理解されな
かったり。ある時は独り身の寂しさを溢すことも。
特に独り身が堪えるらしい。よく私に、優しく受け止めてくれ
る伴侶が欲しいとか、寂しさを埋めてほしいとか、温もりが欲し
いなどぼやくのだ。里の重鎮として凛とした姿勢を保たなければ
ならない彼女も、そんな弱音をおいそれと吐くわけにもいかない
から、そうして同士の私に酒の席で呟くしかないのだろうと思う
と、込み上げるものがある。私の妻も、同じ思いを……。
彼女らのことは、それは気掛かりだったが、結局私は外の世界
に帰ることにした。彼女らのことも放ってはおけないが、しかし
私には家族が居る。妻と娘は、私が居なくなってさぞ苦労してい
るに違いない。食費は大丈夫か、小遣いは足りているか、と、概
ねは収入の面で。
実に一年も掛かった! もうすぐ私も四十郎。この齢になれば
一年なんてあっという間とは言うが、短い間にしては私はこの
幻想郷で多くのモノと出会った。誠に有意義な年と言える。
だが、その帰還の旨を伝えると、一部の人たちは血相変えて反対
の意を示した。一番ぐずったのは霊夢だった。彼女は私に縋り付
くと、
「お願い、どこにも行かないでっ……、良い子になるから!……、
もっと笑うから!……。絶対そうするから……、だから、行かないでっ!」
いつもあっさりしている霊夢が、ここまで泣きむせぶなんて夢
にも思わなかった。溢れ出る涙を堪えようともせず、私を行かせ
まいと、縋るように腰へ抱き付いたのだ。その瞬間、感極まって
思いっきり彼女を抱き締めた。本当なら、ここに残ってやりたい。
勝手に首を突っ込んでおいて、途中で放り出すなんて……。
されど、外界への帰還は取りやめなかった。向こうでの父親と
しての役目も、同様に無視出来ないものだから。
彼女らの説得は、後で紫さんがしてくれたらしい。どんな説得
をしたかは分からないが、巧くやってくれたらしく、帰還前日の
彼女らの様子は、私が告げた時にあれだけ取り乱したのがみたい
にさっぱりしていた。
本当に、怪訝なくらい静かだった。
然り而して、とうとう外の世界に帰ってきた私に待っていたの
は――現実だった。
インターホンを鳴らして出てきたのは、妻でも、娘でもなく、
私の知らない男。眼を白黒させる私へ怪訝な視線を注ぐ。動転
のあまり私は、相手に掴みかかり問い詰めた。それを聞きつけ
て、奥から妻が押っ取り刀で出てきたのである。出てくるや否
や彼女は、男から私を引き離し、私を責め立ててきた。まるで、
闖入者はあなたのほうよとでも言わんばかりに。
男は、私が幻想郷に居た一年の間にデキていたらしい。私並
みかそれ以上に稼いでいて、妻も娘もしっかりと見ていてくれ
て、娘もよく懐いているとのことだ。
その場で口論になった。私の不在の間に別の男とねんごろに
なっていたことは致し方ない。だが、いくら私の身から出た錆
だとしても、自身の不義には一切言及せずに、私ばかりをなじ
るとは!
その男にしても、私と妻の仲裁に入るような真似をしている
が、その歳で一度も結婚したことが無い身のくせに、単なる家族
ごっこでいい気になりやがって。
幻想郷で後ろめたさに苛まれていた私が馬鹿みたいだ。悲劇
のヒーローじゃあるまいし。
そこで私は開き直った。当座のテンションのままに、幻想郷
で私が抱いた不義の情について、誇張してぶちまけてやった。
永琳先生との事についても、本当は接吻のみだったにも拘わら
ず、それ以上のことをしたのだとうそぶいた。これを聞いた妻
は、取り立てて驚愕することはなく、それどころか、怒りに一際
顔を赤くして、
「ええ、そうでしょうねッ、分かってたことよ! さぞおモテ
になっていたことでしょうねッ!あなたが帰ってくる前にも、
私がこの人に惹かれる前にも分かっていたわ。夫婦の絆って言
うのかしらね、あなたが向こうで他の女と宜しくやっている『歴史』
が、『境界』を越えて私の夢や妄想の中に出てきたわ!」
もしこの時、私がもっと冷静に、妻の言葉の中の、ある事柄に
気付いていれば、また違った未来があったことだろう。
数日後、私は公園のベンチに腰掛け途方に暮れていた。今では
すっかり冷え切って怒りの炎が消えた頭の中には、焼け残った哀
しさと悔しさ、それと虚しさがあり、それが火種であったことを
認めざるを得ない惨めさに打ちひしがれていた。
離婚届を書いた後、私は、自らの生存を両親に報せるため帰省
した。ところが、つい最近両親は鬼籍に入ってしまっていたのだ。
老衰に近い死に様らしかった。二人はまだ古希すら迎えていない
はずなのに、さながら、『死にいざなわれる』かのように。私は、
現世で両親に再会どころか、彼らの死に目にすら会えなかったわ
けだ。
仕事のほうは、復帰することも出来るのだが、何だか無意味な
気がしてきた。生きるためという動機ですら私を奮い立たせられ
なかった。居場所は残っているはずなのに、私の心は居場所を認識
していなかった。
妻にぶつけた虚偽の告白。どうしてあの時私は、あんなことを
したのか。ひょっとすると、妻や娘に見放されても平気だという
優位性が欲しかったのか。だとすれば、何とも益体も無い。無責任
にも彼女らとの繋がりを捨てて外界に戻ってきて、おめおめとんぼ
返りなんぞ出来るわけ……。
幸いなのは、あの時の私の虚勢のおかげで、後腐れなく――財産
の件はまた別の問題だが――今度の離縁が出来たことぐらいか。
「これからどうすればいい」
まさに五里霧中の様相を呈していた矢先に私の目の前に現れたの
が、数日前に別れを告げたはずの、幻想郷の管理者、八雲紫さん
だった。幻想郷で時たま話す際の紫色のドレスではなく、私が外界
に帰る日に立ち会った時の、紫色の道士服。東洋的なその服装とは
対照的な、西洋人の髪色と顔立ち。
「少し歩きましょう」
目を丸くする私を他所に、彼女はいつものように、微笑みとも中立
とも取れぬ表情で告げる。差し当たって、私がそれに従い立ち上が
ると、彼女は私の手を取って歩き出したのである。
「ご両親の事は、お悔やみを申し上げましょう。並びに、御令室と
御息女に関しましても、心中お察し申し上げますわ」
「痛み入ります。父と母の事は、いずれ訪れる日だった。それに、
妻と娘も、私の自業自得だ」
「でも、あなたは、八意永琳からあそこまで言い寄られても、靡か
なかった」
「それは、純狐さんの事を聞いたことが大きいかもしれない。彼女
の夫は、他の女に唆されて、自身の息子を手に掛けた。……あまりに
も非道い」
そのために自らの怨みを純化し、自分がのアイデンティティすらも
あやふやとなってまで。その様はまさに臥薪嘗胆。子を奪われた母故
の業か、不倶戴天の敵を追い求めることで喪失感を埋めようとする業
か。或いは、復讐心に身を任せる女の業と言うべきか。
「今でこそ、敵との知恵比べを楽しんではいるそうだが、それでも
あんな恐ろしいことをさせるなんて、心が痛む。だから私は、自分を
戒めた、自分の妻には一方的な裏切りはしないと。尤も、妻との口論
での嘘は、我ながら愚かとしか言いようがないが。禍根が残らなかった
のが幸運だった」
過去の自分を俯瞰してみると、自分のことなのに、他人の愚行を見
ているかのような滑稽さがある。
純狐さんの話題が出て、以前彼女が言っていた不可解な言葉を、はた
と思い出した。
――もうじき私も、憎き怨敵と同じ因業を為すのでしょうね。
そこで分かってしまった。今度の事は、偶然の重なりではないとい
うことを。而して、帰還前に紫さんが霊夢らに施したという説得は、
実は数ヶ月も前からされていたのだと。
私はおそるおそる紫さんを見やった。不意に彼女は立ち止まると、
彼女を見つめる私を見て、莞爾とした微笑を浮かべたのだ。
「ようやく、お分かりになったようね」
「どうしてこんなことを」
思わず彼女から離れようとした。が、彼女は、掴んだ私の手に指を
絡み付けて離さなかった。絡み付いた指の、その内の一本の爪が、私
の手首に食い込んだ。爪は私の皮膚を抉り、痕からはじくじくとした
痛みと共にうっすらと血が滲み出てくる。すると、たちまち傷跡は、
赤い血液で湛えられ、そこからはみ出た血液が手首の肌を更に伝って
いく。
「知ってるくせに」
拗ねて唇を尖らせ彼女は紡いだ。
「みんな、あなたにそばに居てほしかった、ただそれだけですわ。
ええ、あなたの考えた通り、彼女らは孤独だった、肌寒い中で震える
少女さながらに。それでも少女らは、次第に寒さに慣れ、へっちゃら
だとうそぶいた。ところが、どこかのお節介な男がずかずかと領域に
入ってきて、少女らは人肌の温かさを覚えてしまった。だのにその男
と来たら、用事が出来るや否や、少女らを置いてさっさと帰ってしま
うのですわ。無論、当初より暖かくなった少女たちの肌には、肌寒い
空気は、慣れなんてとても待てないほど、心を病ませてしまうほど耐
えがたいものだった……」
紫さんはもう片方の手で、私の傷跡をそっと撫でた。
「えーりんも、あなたと喧嘩をした後、しばらく永遠亭にあなたが
来なかったものだから、それはもう慨嘆したものよ。あなたが離れて
いってしまった苦痛を、知ってしまったから、だから……」
するとどうだろう。彼女の長い爪で抉られたあんなに深かった爪痕
が、本当は何事も無かったかのように完璧に癒えていたのである。
しかし、傷を撫でた紫さんの指には、確かに血が薄く付着していた。
「バケモノへの食料として幻想郷に引き込まれる人間は全て、この
世に居る意味を失った人間たち。それはまさに今のあなた」
尤も――、と言って彼女は、血の付着したその指を、舌をちろりと
出して、さも愛おしそうに舐めたのである。
「あなたを喰らうバケモノは、大方決まっているのですけれど」
そうして彼女は、掴んでいた私の手を、自身の頬に持っていき、
ぬくぬくとした、またくすぐったそうに目を細めた満面の笑みを浮かべた。
『終』
最終更新:2017年06月17日 23:41