カツンと、黒色に金の飾り付けがされた万年筆が音を立てる。科学が発展した月の都で電子入力用のタッチペンではなく、
万年筆を使う人種というのは大体2種類に限られている。1つは懐古趣味の老人といった時代に取り残された人種であり、もう
1つはそもそも電子機器をあまり使わなくても不都合が無いという、つまり自分で誰かと連絡を取り合ったり、スケジュール
管理をする必要が無いという、トップクラスの人種である。そして万年筆という小物にすら、メッキでない貴金属を使用する
者であれば、それは必然的に後者となる。例えば、綿月姉妹であったり、かつて月にいた八意永琳であったり、神格を有する
稀神サグメであったりする。
そして今、
サグメの万年筆が再び音を立てる。さっきよりも幾分強く、苛立ちを乗せて。側にいた玉兎だけで無く、周囲の
皆が彼女の不機嫌に気づいた時には、既に○○が所持している端末に、全速力で此処に来る様に表示がされている筈であった
し、それすら待ちきれずに既に部下の1人は廊下を駆け出していた。
周囲の不穏な空気を鎮める為、部屋の責任者がサグメの前に進み出る。平均的な中間管理職である彼にとっては、目の前の
人物に意見することすら、自分の地位を鑑みれば危ういのであるが、それでもやる他は無い。少なくとも、彼がサグメに相対
している間は、被害は彼だけになるのであるから。
「サグメ様、今部下が○○を迎えに行っておりますので。」
緊張の中で発せられた言葉は、不機嫌な一瞥と万年筆がくるりと回ることで迎えられた。彼女の能力がある以上、迂闊に口
を開くことは出来ないのであるが、あんまりな対応に責任者の怒りは内心に沸き起こる。しかし鉄の自制心でそれを封じ、表
情に出さないように押さえ込む。相手の機嫌が爆発しないだけ、まだマシだと自分に思い込ませ、静かにサグメから離れる。
不発弾を処理する特殊部隊のように。
しかし責任者の願いと反して、爆弾の機嫌はジリジリと悪くなる。単なる爆弾ならば、刺激を与えなければそのまま放置し
ても良いのであろうが、サグメの内部では不満が着実に高まっている様子が見て取れた。圧が高まった容器が破裂する直前に
不自然に膨らむように、彼女の舌がチラリと見える。唇をチロチロ舐める赤い舌は、彼女のような美女が会食のときにでも
すれば、さぞかし様になるのであろう。残念ながら、ここは会議室であるし、第一彼女は脅している。
これ以上待たせるならば、能力を使うぞとばかりに舌を見せ、再び万年筆を机にコツコツと叩き付けるに至って、責任者は
最早、サグメに飛びかかって口を塞ぐことを「いざという」選択肢として考えていた。確かにそれは悪手である。いくら緊急
回避と名目を掲げても、後々多大なる責任問題に発展し、恐らく彼は良くて不名誉除隊になり、悪ければ・・・。しかし少な
くとも、今、この急場を「生きて」凌ぐことは出来る。彼女に部下もろとも余命宣告されるか、不幸の渦に叩き付けられる
ことを考えれば、意外にもマシな解決策にも見えてくる。全く切羽詰まった時に人は、とんでもないことをしかねない、という
良い例になりそうな事例であるが、彼が実行に移す前に、○○が部下に引っ張られて部屋に入ってきたため、幸い未遂で済んだ。
周囲が物騒なことを考えて、あと一歩で実行に移すことを知ってか知らずか、サグメは周囲に目も向けずに○○の手を取る。
周囲からいわれのない非難めいた目を向けられ、状況が飲み込めおらず困惑している○○を、サグメはそのまま引っ張って部
屋の外に連れ出していく。廊下を去って行くサグメに後ろから部下が狂った予定の埋め合わせを叫ぶが、彼女は後ろを振り向
かない。諦めた部下が椅子に座ってポツリと漏らした、
「なんだよ、あいつ。」
その言葉は全員に深く共有された。
最終更新:2017年07月03日 20:14