名誉と友人
「ねえ、文、あの記事止めてくれない。」
人里より標高のある妖怪の山は、夏といえども冷たい夜風が吹いており、
姫海堂はたてが発した依頼というよりはやや強制が滲んだ言葉は、夜の空気に溶けていった。
「何のことかしら。」
癖としての否定。居酒屋で取り敢えずビールを注文する者が居るように、
射命丸文にとって相手の言葉に反対するのは習性となっていた。
相手を怒らせ、翻弄し、そして自分に有利な情報を引き出す。
下衆野郎とまで陰口を叩かれる程のジャーナリストとしての精神は、彼女の人生にとって染みついたものとなっている。
「とぼけないで。」
有無を言わせない
はたての口調。普段はおっとりしていると言われる彼女からすれば珍しいまでの勢いである。
「そう、それで?」
有耶無耶なことでいくら相手を煙に巻こうとも、すでに尻尾を捕まれている場合には無駄なことである。
返って相手の敵意を買うだけに過ぎない。そういうときに射命丸は、暫く相手に話させることにしている。
じっと隙を伺い、相手が見せた僅かな隙間に強引に無理を捻り込んでいく。
過去はそうして何度かやり過ごしたこともあるし、やり過ごせなかった相手には後日に、
必ず利息を付けて代金を払わせてやった。
人間からすれば屑な生き方であるが、天狗からすればそういう奴等が大半である。
「記事を取りやめて。」
要求を変えない自分の友人に、射命丸はやりにくさを感じていた。
何か見返りを求めて来る奴らには、値段の多寡は有れども交渉の余地がある。
しかし、記事の取りやめだけを求めているのならば、結論は二つしか無い。出すか、出さないか。
その間に選択の余地は無い。そして射命丸文にとって、一度決めた記事を潰すことには、大きな屈辱がある。
例えば、博霊の巫女を中傷する写真を掲載し、
それを聞きつけた妖怪の賢者から脅迫を受けることや、月の脅威を煽る記事を作成し、
永遠亭のナンバーツーたる影の権力者から、直々に警告を受けるといったことがない限りは。
本音では其れすらも彼女にとっては断腸の思いであったのであるが、其程に彼女は自分の新聞に愛着を持っていた。
曲がりなりにも、そこにはプライドが有る。
「私がどれだけ本気か知っているでしょう?」
今までの関係を崩しかねないその記事を、射命丸が出そうと決めたのはついこの間のことである。
その時の取材で手に入れた、外来人と姫海堂が寝室で一緒にいる場面を盗撮した写真は、
彼女の寝室のベットに飾られている。
勿論、といってはなんなのであるが、邪魔な女が写っている部分は鋏で切り取って細かくちぎって捨てている。
「じゃあ、いい。」
いやに引き下がる姫海堂に対して、射命丸は違和感を感じた。
いくら此方が突っぱねたとしても、グズグズと縋ってくるのが普段の彼女であった。
親友だの、仲間だの、射命丸にとっては意味を成さない言葉と友情が、友人にとっては重要な物のようであった。
しかし、彼女はあっさりと引き下がった。
あれだけ外来人に執着していた姫海堂が、早々態度を変えることが射命丸にとっては驚きであり、
飛び去っていく彼女が突如クルリと反転して襲い掛かってくるような気がして、
射命丸は彼女の姿が見えなくなるまでその場を動くことが出来なかった。
射命丸は家への帰り道に飛びながら考えていた。
少なくとも他の天狗よりは彼女のことを見てきた者としては、驚きすら感じた程の彼女の変わり身。
いくら外来人といえども、彼女にとっては大切な恋人である。
だからこそ射命丸はその外来人にだけ、自分の記事をリークしていた。
即ち、自分の元に来れば記事の出版は止める
と言わんばかりの態度を餌にして。
勿論、外来人を手に入れた後で手違いで流失した文々新聞で、
姫海堂が失脚しようがそれは射命丸の知った事ではないのである。
少なくとも射命丸は、自分の恋人を狙う輩は排除する積りであるし、
これ位悪辣でなければ天狗の中で名の知れた存在にはならないのであろう。
だからこそ、射命丸は姫海堂が逆上して、自分に襲いかかってくること位は計算に入れていたし、
姫海堂があっさりと引き下がった後でも、自分の家に放火でもされているのではないかと不安になっていたので、
無事な自分の家が見えた時には思わずホッとしてしまった。
いくら河童特製の耐火金庫に原稿が入っているといえども、愛の巣が壊されるのはなるべく避けたいものである。
そして気を引き締め、原稿の仕上げに意識を向けて家のドアノブを下げると、
ドアノブはひとりでに跳ね戻っていった。
射命丸は思わず瞬きをする。今自分はドアノブを押し下げた筈なのに、ノブは何も無かったかの様に戻っていく。
ふと自分の右手に視線をやると、前腕がゴロリと
転がり落ち、肘の先に血の丸い滴が集まり吹きだそうとしていた。
「あ゛ー!!」
声に成らない叫び声が喉から絞り出される。全身に刺激が走り、目から勝手に涙が零れ出す。
すると腹部に鋭い痛みを感じて、射命丸は地面に崩れ落ちた。
地面に前衛芸術に似た作品を描きながら、体を丸める。
丸まったことで傷口が動かされる痛みで霞む視界の端に、先程と変わらない表情の彼女が写っていた。
最終更新:2017年07月31日 19:15