夜、その男は走っていた。
外来人に向けて譲り受けたお古の着物がなび乱れながら、後ろを振り向く余裕すらなくただひたすらに走り抜けていく。この残酷な幻想郷で強く気高く生きようと鍛えた体も短刀術も今はてんで役に立たない、ただ外の世界で強制的に誘導されて鍛え上げられたコミュニケーション能力はこの世界で生きるに非常に役に立ったが、まさかこのような厄災を呼び込むとは思いもしなかった。
だが、別段特別なことをした覚えもなく、ここへ流れ着いたのも趣味の散策中に脈略もなく巻き込まれたことだし、日々生きるために必死に一回り劣る体力で日雇いのバイトをこなす日々であった。本や漫画でしか見られない不思議な現象、妙に美人な妖怪たちの姿に喜びと楽しみを見出していたものの、やはりここは自分が生きる世界ではないと早々に悟り、先人たちの話を参考にしながらコツコツと外界への帰還資金を貯めていくのであった。
人の世を生きるコツはやはり「笑顔」と「会話」だ。この美しい世界をよく覚え知るために人外たちの話に敏感に耳を傾けていた事もあり、その会話能力に目を付けた商家が彼を雇ったおかげで資金は順調に溜まっていった。今思えば妙に妖怪たちとの接触が多くなっていることに違和感を覚えるべきであったのかもしれないが、奴らとの語らいは帰還予定が少し伸ばす結果になったとしても非常に楽しいものであったし福眼であった。帰還の目途も立ち日記と権利書をまとめた紙束をまとめながら帰還することの切なさを感じていると「彼女」が遊びにやって来た。この世界で一番付き合いの長い相棒に別れと感謝の言葉をかけると彼女は彼の言葉を拒みながら自分のものにすべく襲い掛かるが、寸でのところで用いた対妖怪道具が功を奏し間一髪のとこで逃げることができた。離れてもわかるほどのじめっとした気配に危機を感じ、沈む夕日を背に森へ逃げる彼を彼女は瞬きせずにじっと見つめていた。
「まさか自分が小説の当事者になるとはな・・・」と自嘲ぎみに呟くことで心の安定を図りながら、唯一外界との接触が可能な博麗神社の鳥居をくぐりぬけ家主に助けを求めようとするが、自分の乱れた息のみがこだまし生き物の気配が感じられないほどの静けさに不安を感じずには居られなかった。辺りを見回しながら戸を叩き、徐々に声をあげながら家主を呼ぶが全く答える気配はない。無理やり開けようとしたことで感じた戸の異常な硬さに自分が見捨てられていることを理解するには彼には十分なものであった。落胆していても奴はやってくる。徐々に強くなる粘ついた気配を感じながら「まだだ、まだ終われんよ・・・」と懐にある包丁を握り自分を無理やり奮い立たせることでさらなる一手を踏み出すわけだが、それがよい結果に結びつかないことは賢者が一番よく知っているのだ。
最終更新:2017年08月14日 07:56