ビシビシ、パキパキ。
そんなきしむ様な音をたてながら、世界は少しずつ歪んでいった。
ここは人々に忘れられた者達が辿り着く最後の楽園、すなわち幻想郷。
ここは人外たちが闊歩する最後の楽園の中でも稀な人間の領地、すなわち人間の里。
俺は○○。かつて外の世界よりやって来て幻想郷に住み着き、自警団の一員として人里を守ってきた。
変わらない日常、変わらない人々。今日もまたいつも通りの一日が始まると思っていた。
だが、これは何なのだ。空は徐々に色褪せていき、里の町並みは歪み、住人たちはまるで彫像のように固まっている。
新手の異変か、龍神様のお怒りか。考え付くことは色々あるが、凡俗の頭で考えた所で何がどうなるというわけでは無かった。
「ああ、そうか。これで終わるのか……」
どれだけ時間が経っただろうか。世界の歪みが自分の身体にまで及んだ時に至って、俺は全てを思い出した。
ここは模倣された幻想の世界。言うなれば幻想の幻想郷なのだ。
模倣者が模倣を止める時、それは模倣された世界が終わる時である。
「あんたも頑張ったんだな」
俺の記憶の中には数々の思い出が残っていた。
吸血鬼に愛されたり、竜宮の使いと同棲したり、三人の妖精と戯れたり、天狗と新聞の意見を交わし合ったり。これらは全て、模倣者が作り出した並行世界の俺の人生なのだ。
幸せも不幸も、怒りも悲しみも、彼は俺に多くのものを与えてくれたのだ。
「お疲れ、俺」
ああ、いよいよ最後の時だ。俺は俺自身の分身と言える作者に感謝しながらも、静かに目を閉じた。
それは緩やかで優しい、苦悶などひとかけらも無い穏やかな終焉であった。
「だぁめ。まだまだ終わらせないから」
「探偵さん、来てはいけません!!」
「馬鹿なことを言うな! すぐに行くから待っていろ!」
先程まで林の中を駆けまわっていたせいで現役を退いた足は停止寸前だ。だが、それでも今は動かなければならない。
俺は油の切れかけた歯車のような足を、どうにか力技で動かしていった。
「栗栖! 危ないっ!」
鋼の凶器が彼女に向けられた際、俺は咄嗟に彼女に覆いかぶさった。直後、乾いた破裂音が鼓膜を震わせ、俺の右肩に痛みが走った。
「探偵さんっ!!」
「つぅっ、かすめたか!?」
傷はじわじわと熱を帯びているが、命を脅かすほどではない。
あの独特の音には聞き覚えがある。二束三文で流通している安物の拳銃だ。こんな短絡的な手段に出るということは、犯人もそれなりに焦っているのだろう。
いや。それよりも、今は目の前の少女を守れたことを良しとするべきか。
「何をやっているのです! 助手を庇う探偵がいるものですか!」
やれやれ。助けてやったというのに、この調子だから困った者だ。
俺の名は○○。眼の病を理由に軍を退役して以来、いわゆる私立探偵というものをやっている。
だが、世の中とは中々うまくいかないものだ。
事務所を開き、軍役時代のコネで依頼人を探しては見たものの、大した功績も上げられずにあっという間に転落人生だ。
このまま何も成せずに朽ち果てていくのか。そう思ったときだった。
「私を雇っていただけませんか?」
栗栖阿傘。突然、事務所に押しかけて来た少女。彼女を一言で表すというなら"天才少女"だろう。
俺の探してきた繋がりの無さそうな情報から確固たる証拠を作り上げ、あっという間に俺に名声を掴ませた。
「だ、か、ら、こ、そ! 探偵が助手を守っているんだ」
「そ、う、で、す、か! それは申し訳ございませんね」
やれやれ、いつもこの調子だ。
別に俺は栗栖を嫌っているわけではない。むしろ敬意を抱いているつもりだ。だが、俺自身の軽率な行動が彼女を怒らせ、売り言葉に買い言葉となってしまうのだ。
「さぁ、屋敷に戻ろう。犯人がここまで動いたならボロが出て来るはずだ」
「ちょ、待ちなさい。まだまだ言いたいことは山ほどあるんですよ」
やれやれ。いつもこの調子だ。だが、この調子なのに最後には事件解決するのだから、世の中とは実に都合よく出来ているものである。
いかん。なんということだ。全く以って由々しき事態である。
俺は先輩である女教師の後を歩きながら、そんな事を延々と考えていた。
ここは伯明館女学院。良いとこのご息女や試験に合格した優等生といった、選ばれた少女だけが通うことを許される格式高い学校だ。
俺は○○。分け合って今日からここの教員として働くことになっている。
待遇に問題はない。年頃の少女、しかも貴族も含まれるというところは不安だが、女学院の生徒は性格が良いと評判がいいので然程、気にはならない。
問題が起きたのは今朝のことだ。
昨日になってようやく借部屋の掃除を終えた俺は、油断のあまり出勤時間ぎりぎりになってようやく目を覚ましたのだ。
慌てた俺は急いで身支度をして部屋を飛び出した。
それがいけなかったのだ。焦っていた俺は曲がり角に全速力で突っ込んでしまい、その結果に後悔した。
「むっ、むぐっ!?」
「ふむぅっ!!」
目の前に見えたのは、やや幼さの残った少女の顔だった。口元には温かくて柔らかい何かが当たっている。そう、お約束ともいえるベタなアクシデントだ。
「う、あ、いや。その……」
「わ、わた……ふぁーすと……っ!!」
いや、こちらも初めてなのだが。
とにかく、初めての唇を俺に奪われてしまった(らしい)少女はその場から駆け出し、後に残ったのはどうしようもない愚か者であった。
「ここがお前の担当してもらう四号教室だ」
「え、あ、はい……!」
いかん、いかん。考えすぎていつの間にか目的地に着いていたようだ。
過ぎたことを悔やんでも仕方ない。そう考えた俺は意を決して先輩の後ろについて教室の中に入る。
「あ、あなたは……!」
「き、キミは!?」
結論を言うならもう少し悔やんでおいた方が良かっただろう。何かが解決するというわけではないのだが、きっと精神的には楽になったかもしれない。
教室の中にいた少女の山の中に一つだけ見知った顔があった。そう、俺が今朝がた押し倒してしまった少女の顔である。
ざばざばと轟音をたてて、極太の水の柱が地面を叩いていく。
「くっくっく。こいつは困ったな」
「なに呑気なことを言っているのです」
あまりも馬鹿らしい状況に笑いを隠せない俺に比べて、傍らの少女は冷静に現実を見ていた。
ここは出入り口の無い閉鎖された地下通路。目の前には数キロメートルほど離れた湖から取り入れられたと思われる豊富な水。俺と栗栖はここに閉じ込められ、クラシックな水責めにあ
っている所だ。
「痛いわ寒いわ、ここまで状況が悪いと笑いたくもなるさ」
「しっかりして下さい!」
笑みを浮かべている俺の左腕からは、俺の命の滴とも言える赤い液体が流れ出していた。応急処置として栗栖のリボンが巻き付けられているが、それも気休め程度にしか役には立たない
だろう。
「まさか、ここまで本気になるとはなぁ?」
「分かったでしょう。これがあの人たちの手口なのです」
あの人たち。栗栖がそう言い放つ彼らとは、この事件の依頼人にして犯人でもある、アルファベットの一族である。
アルファベットの一族。彼らは海を越えた西洋の国との貿易で財を築き上げた、かつての華族である。
彼らの財産と海外の人脈は金額に直せば人生を丸々と遊び倒しても釣りがくるほどのものになる。
それ故に遺産相続の際には十中八九、死人が出ると言われている血塗られた家系でもあるのだ。
「くそっ、せっかく犯人が分かったというのになぁ」
あの華奢なシルエットと独特の髪飾りは忘れようがない。元居・K・鈴鹿。彼女こそが今回の血塗られた遺産相続の犯人だったのだ。
「ごめんなさい。私が貴方を巻き込まなければ……」
「気にするな。自分で首を突っ込んだことだ」
「でもっ!! 貴方をこの遺産相続に巻き込んだのは私のせいなんです!」
何時になく気弱な言葉を吐き出す栗栖……いや、栗栖・T・阿傘。彼女もまた、アルファベットの一族の末裔であった。
「いかんな。少しばかり眠くなってきたよ」
「いけません! こんな所で眠ってはなりません!」
別に眠ろうが眠らなかろうが関係ない。緩やかながら出血は続いているのだ。もし傷口が水に浸かりでもすれば、出血を止めることは出来なくなるだろう。
「ああっ、どうすれば……!!」
「落ち着け。考えるんだ。俺より頭いいんだろ……」
くそっ。こんな所で死んでたまるか。ここで死んだら栗栖を脱出させることも、犯人の魔の手から守ることも出来なくなってしまう。
しかし、俺に出来ることと言えば、朦朧とし始めた意識に気合いで火を点けることだけだった。
待て待て待て、どうしてこうなった。俺は心の中で自問自答をくり返しながら、息を殺してじっと待ち続けた。すぐ近くからはキャイキャイと少女たちの声が聞こえ、すぐ目の前からは
少女の温もりが感じられる。
今、俺は自分の教え子である女生徒を押し倒している状況にあった。
年頃の少女たちだ。見つかったら確実に誤解と虚実を含んで拡大し、とんでもない規模の話として他の教員たちの耳に入るだろう。
だが、それ以上に俺が押し倒している少女が受ける評価がどうなるか、というほうが恐ろしかった。
(とにかく、ここは黙って耐えるしかないな)
(そ、そうですね……)
話は少し前に遡る。俺は一人の女生徒と一緒に倉庫の整理を行っていた。
織元鈴音。出来れば封印したい過去の一つである、出勤初日に唇を奪ってしまった娘さんだ。
あれから何だかんだで縁があり、教室の中でも仲の良い間柄となった。
それ故か、雑用を頼まれた際には何故か手伝いを買ってくれて、今回もいつもと同じ感覚で仕事を手伝ってくれたのだが、それが今回は仇となった。
『先生、次はこれですね?』
『ああ、待て。それは重いから運ばなくて……』
『きゃっ!?』
『織元っ!!』
どすーん、ばたん。そんな感じで彼女を庇おうとしたら、彼女を押し倒すような形となってしまったのだ。
幸いにも、彼女の頭が床にぶつかる前に手の平で庇うことは出来た。出来たのだが、その後のタイミングが悪かった。
『せんせー、いますかー?』
『わー。私、倉庫の中ってはじめて!』
『ちょっと、面白いものないか探しちゃお!』
おいコラ。倉庫は年頃の娘さんの探検スポットではない。そう、はっきり言えたらどれほど楽だっただろうか。
だが、言ってはならない。その事を注意したら、俺と織元の仲についてとんでもない噂がまき散らされてしまう。
(先生、その……)
(すまん。もう少し辛抱してくれ)
結局、俺たちが倉庫の外に出られたのは、時計の長身が半周した頃だった。
「ちょっと。あんたの小説ってセンスが無いわね」
「阿求の方こそ、推理小説以外はてんでダメじゃない」
ここは人里の貸本屋、鈴奈庵。
こぢんまりとした店内の中では、受付の椅子とテーブルのソファーに腰かけながら、二人の少女がそれぞれ本を読んでいる。
だが、その様子は読書というには穏やかさに欠けていて、二人とも眉をしかめながら本を読んでいた。
「小鈴の小説。何かと
主人公とヒロインがべったりくっつくけど。あんた、そういう趣味があるのかしら?」
ソファーに腰かけた少女、稗田阿求が読んでいるのは学園恋慕譚とタイトルのついた、名前通りの学園小説だった。
主人公の○○とヒロインの織元鈴音が、教師と生徒という壁を乗り越えて恋に落ちる、ベタベタな展開の恋愛学園小説である。
「阿求の小説こそ。何かと主人公がヒロインを庇って怪我してるけど、そういうのがお好みなのかしら?」
椅子に腰かけた少女、本居小鈴が読んでいるのはアルファベットの一族とタイトルのついた探偵小説だった。
主人公の○○とヒロインの栗栖阿傘が遺産相続事件に巻き込まれ、その中で二人の間に恋が芽生える恋愛探偵小説である。
「やっぱり駄目ね。○○さんのことを上手く書けるのは私よ」
「いいえ。あんたなんかには○○さんは任せられないわ」
「俺はアルファベットの一族の事件を……あれ、学校に行って授業を……」
「どうしましたか、探偵さん?」
「何をしているんですか、先生?」
「お、教えてくれ! 俺は何なんだ? 探偵? 教師? どっちなんだ!」
「くすくすくす、貴方は探偵さん。真っ直ぐで無鉄砲で、誰よりもヒロインの栗栖を守ってくれる……」
「くすくすくす、あなたは先生。生徒のためにあっちこっち走り回って空回りして、ヒロインの鈴音のためには特に親身になっちゃう……」
「「おっちょこちょいで、可愛くて、格好よくて。誰よりも私のことを愛してくれる、私だけの大切な主人公さん」」
私が貴方を書き続ける限り、貴方は私の物語の中で生き続けていくの。
最終更新:2017年10月09日 21:40