死の間際
寒い冬の日の朝、日は昇り数日前に降り積もった雪をまぶしく照らしていた。
大分長い間臥せっていた阿求であったが、近頃具合は随分悪くなり、
その日も○○は妻の元に居た。仕事を使用人に任せ付きっきりで阿求の枕元にいる○○。
時折阿求が○○に白湯をせがむ以外には、二人の間には殆ど言葉は無かった。
しかし女中が薬缶を持って来たときなど、○○の視線が不意に阿求の顔から外れた折りには
布団の中で○○の手を掴む力が強くなり、○○はその度に阿求の方に顔を向けて安心させていた。
「あなた。」
弱々しい阿求の声がする。
「なんだい。」
○○が答える。布団の中に入れた手が一層引っ張られた。
「もっと近くに寄って下さい。」
「ああ。」
○○は体を横にする。妻と同じ目線になった。
「ねえ、あなた。」
「なんだい、阿求。」
「私、貴方様に謝らないといけないことがあります。」
「そうか。」
阿求が息を飲み込む。目がきゅっと細くなった。
「実は・・・。」
言いにくそうにする阿求。○○はジッと彼女を待った。
「すみません。言いにくくて。」
○○は言葉を濁す阿求の肩に手を掛けて、自分の体を一層近づけた。
手入れが行き届いた襖が静かに開かれる。
長年稗田家に仕えている使用人が何も持たずに阿求の元に正座し、
背中を曲げて阿求の枕元に顔を近づけた。使用人が小声で阿求に話しかける。
○○にとっては使用人が夫の自分をのけ者にしているように思えて、
何だか少し腹が立ったので、わざと顔をそのままにしておいた。
「阿求様、御客人が来られました。」
「どなたですか。」
阿求が苦しそうに尋ねる。
○○の方を見て少し逡巡した使用人の顔を、○○は気にも止めていないかのようにして見返した。
使用人が阿求の耳元で手を立てて小声で話す。
「***小町様が来られ***」
「頃合いを見て、とお伝えしておいて下さい。」
最近だるそうにしていた阿求が、久し振りにはっきりした声を出した。
「どれ、客ならば私が応対しよう。」
○○が体を起こす。振り解かれた阿求の手が、○○を求めて布団の外へ釣られて出てきた。
「いえ、旦那様が来られる程ではございません。」
「いや、そういう訳にもいくまい。」
○○は引き戻そうとする使用人に答える。
「奥様が可哀想でございます。どうかご一緒に。」
「嫌な予感がする。」
更に引き留めようとする使用人に、○○はきっぱりと返事をした。
「あなた、あなた!ゴホッ、ゴホッ。」
「すまない、直ぐに戻る。」
咳き込む阿求を使用人や女中が介抱している隙に、廊下をドンドン進む○○。
直感に従って応接室の襖を開け放つと、そこには小野塚小町が居た。
「おや、旦那さん、こんにちは。」
軽く手を上げて挨拶をする小町に、○○は渋い顔で尋ねる。
「どういうご用件で来られたのかな。」
「おやおや、どういうとは中々な。」
小町の口が僅かに歪んだ。
「ウチらの様な死神が来る用事なんぞ、決まっているじゃないですか。」
「お引き取り願おう。」
はっきりとした声で小町に申し渡す○○。
しかし小町の方は何処吹く風とばかりに軽く体を躱す。
「いや、旦那。此方も「はいそうですか。」と言って帰るのでは、四季様に怒られちゃいますからねぇ。
ここは一つ、無理にでも商売をさせて頂きますよ。」
「阿求はまだ死なない。」
「旦那が阿求さんを愛してらっしゃるのはよく分かりますがね・・・。」
小町は鎌をクルリと回す。
「しかし、「これ」に関しちゃあ、こちらはお医者さん以上の玄人ですからね。」
「お前を追い返せば阿求の寿命も延びるだろう。」
「ふうむ、成程、成程。」
小町を睨みつける○○を見て、小町は一人合点がいったようであった。鎌の先で廊下の奥の方を差す。
「しかし、奥様を放っておいていいんですかい?」
「あなた!あなた!」
奥から聞こえる阿求の叫び声に、○○は踵を返した。
○○が部屋に戻ると、阿求は荒い息をしていた。
大声を出した無理がたたったのであろう、○○が先程見たときよりも、阿求の生気が幾分か抜けている気がした。
「大丈夫か、阿求。」
「ええ、大丈夫です、あなた。」
阿求が小さな声で答える。○○が握った手はぞっとする程に冷えていた。
「二人だけにして下さい。」
阿求が部屋に居る使用人と女中に言う。
すると二人は一言も話さずに部屋を出ていった。
○○と二人だけになった阿求は、○○にせがむ。
「あなた、もっと近くに来て下さい。」
「ああ、いいよ。」
「もっと、布団の中で。」
布団の中で密着する○○に、阿求は更に注文をつける。
「お願いします、抱きしめて下さい。」
「分かった。」
○○は横向きで寝ている阿求の腰の下に腕を入れる。腕には殆ど重みを感じなかった。
「私を見ていて下さい。」
「ああ。」
阿求の手が○○の頬に伸びる。○○の視界の端で、チラリと影が動いた気がした。
「あなた、私を見て下さい。」
「いや、ちょっと待ってくれ。向こうで影が・・・。」
「駄目です。」
後ろを振り向こうとした○○の首を阿求が押さえる。
「死ぬときに、他の女なんて見ないで下さい。」
死ぬ間際とは思えない程の力で、阿求は○○を押さえる。
「おい、ちょっと落ち着・・・。」
○○の言葉が途切れた。
感想
最終更新:2018年01月22日 22:17