風呂桶に身を沈め、少しずつ顔を下ろす。
 顎、口、鼻。水は少しずつ私の体を覆っていく。
 口を開くと大きな泡がぷかぷかと浮かんで、すぐに消えてしまう。
 入れ替わるように水が私へと流れ込んでくるけれど、舟幽霊にとって何の影響もないことだった。
 しばらくそのままで居る。息は普通にできるけれど、あえて止めておく。
 苦しい。
「ムラサぁ、早く出てよ。後がつかえてるんだから」
「っーーはいはい」
 一輪の声に従って湯船を出る。名残惜しいけれど、今日はこれまで。

 -

 布教にかこつけて人里をぶらついていると、見知った顔に出会った。
「よお、ムラサ」
「あれ、○○じゃん。今日は仕事無いの?」
「おう、しかも新しい店を見つけたんだ。ムラサを誘おうと思ってたんだがーー」
「行く行く!」
 ○○は行きつけの酒蔵の店員だ。
 聖に黙っていてもらうお礼に私の行きつけの店で夕飯を奢ったのがきっかけで意気投合して、
 よく一緒に食べ歩きに行くようになった。
 まるでデートみたいだ、とぬえに茶化されているのが最近の私だ。
 まるでデートみたい、ではなく、本当にデートなのだと言ったらみんなは驚くだろうか。
 私は○○のことが大好きだし、○○も私のことを好いていてくれている。
「ムラサ、最近元気ないんじゃないか」
「んー、そうかなあ」
 適当に流そうとしたけれど、彼の目を見て止めた。やっぱり○○は鋭い。
「うん、まあ、ちょっとね」
「無理はするなよ。俺にできることだったら喜んで手伝うからさ。
 ムラサのそんな顔、見たくないんだ」
 彼の気配りが心に刺さる。優しい○○には打ち明けられないことなのだ。
 いや、いっそ言ってしまうか。
「じゃあ、私の首を絞めてよ」
 買い物を頼むような気軽さで投げかけられた私の言葉に、○○はギョッとした様子で私を見る。
「最近、私が人間だったときのことを考えちゃうんだ」
 舟が壊れ、沈んでいく。水夫の怒号、私の悲鳴、止まらない水音。そして、最後にはーー
「死ぬ瞬間って、どんな気分だったんだろう」
 でも、今の私の辞書に溺れるという言葉はもはや存在しない。
 代わりを探すしかなかった。そこでたどり着いたのが縊死(いし)*1だ。
 とは言え自力では加減が難しい。他人の手を借りる必要があった。
「あのなぁ……」
 ○○は私の言葉にただ呆れるばかりだった。
「俺には出来ないよ。ムラサを傷つけるようなことなんて」
「まあ、そうだよねぇ……」

 -

 断られた。仕方ない、分かっていたことだ。
 風呂桶に顔を沈めながら、理不尽に死んでいったかつての自分を想う。
 どうせ死ぬなら愛する人の手で死にたかった。
 そして、死ねない体を得た私には何の意味もない行為に耽る。
 かつての自分の姿に今の自分の姿を重ねながら。






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最終更新:2018年02月06日 00:15

*1 首を括って死ぬこと