「ねえ○○さん。今夜…。」
彼女が僕にそっと話しかけてくる。
敢えてメールやらSNSが発達した世の中で、コッソリと恥ずかしそうに。
だけれども周囲には分かるように。そう彼女に言われてしまっては、僕は彼女を断れなくなってしまう。
第一、またアレを繰り返す訳にはいかない。
前回は風邪と見せかけて誤魔化すことができたが、今の季節、春先の花粉症で今週はミスを連発してしまいますと、
予言めいた言い訳するのは苦しすぎる。
「大丈夫。今日は早く仕事が終わるから。」
返事を聞いたとたん、瞳の中に写る不安げな色が消え、喜びの表情が顔に浮かんでくる。
スーツの奥に隠した第三の眼で僕の気持ちを見ていても、やはりそれだけでは満足ができなかったようだ。
そそくさと席に戻る彼女を見送りつつ、仕事の算段をつける。恐らく今日は仕事の方から勝手に消えていくのだろう。
例によって例の如く、そう予想が付く程度には僕も成長をしていた。
「こんばんは。」
「お帰りなさい、○○さん。」
「…ただいま。」
あくまでも彼女の家にお邪魔をしているだけだと、そうした気持ちを表明しているのであるが、目下敗北中である。
いかに職場でデキル人を演じて、彼女より上の立場に立っているように見せかけていても、
一旦彼女の家に入ると張りぼての虚像は呆気なく吹き飛んでしまう。
「はい、今晩は○○さんが一番食べたい物にしましたよ。」
-ありがとう-と言葉を返しながら、そういえば彼女は僕が家を訪ねたときに、
漫画のようにお風呂にするか食事にするかを尋ねたことがなかったなと思った。チラリと彼女を見ると、
「やりましょうか?」
こちらの心を読んだ彼女がそう笑顔で話してくる。
「いや、いい。」
即断で断っておく。
もしもそういう遣り取りをした日には、「○○さん」から「あなた」に、転職を果たしていそうな気がしたためである。
「あら残念です。」
言葉とは裏腹に嬉しそうにそう言った彼女の笑顔は、勿論そうだと言っていた。
灯りを消して暗くなった部屋の中で、ベットに彼女が潜り込んでくる気配を感じた。
柔らかい手が顎に添えられて、口の中に更に柔らかい物が入ってくる。
上で触れ合いつつ下でも繋がると、首元にいつもの違和感を感じた。
皮膚の抵抗をもろともせずに、彼女から伸びる管が入ってくる。
物理条件など鼻で笑い飛ばすような暴挙を起こし、そのまま管から彼女の何かが流れ込んできた。
侵食するような、体の隅々まで染みるような、彼女と溶け合うような何か。
人間では出来ない芸当を演じた彼女は、敢えて口に出して僕に思いをぶつける。
「○○さん、大好き。絶対に離さない。」
口に出せば興奮が増すかのように。
「ねえ、何でもするから好きでいて。」
自分に燻る不安を消したいかのように。
「私の初めてをあげたんですから、絶対に捨てないで下さいね。」
自分より非力な相手に懇願するかのように。
「捨てたら潰しますよ、他の女に目移りしたら殺しますよ。絶対に、絶対に!」
強く呪いを刻み込むかのように。
そして彼女は自分の言葉で興奮したのか、僕を塗りつぶそうとする。
管を通じて強く注ぎ込まれる。人間としての魂を削り去る嵐が吹き荒れ、彼女を求める生存本能が一層強くなった。
彼女との一体感が更に強くなる。境界があやふやになり、爆発が起き視界が白く塗りつぶされる。
しかし意識が宙に浮いたままで、それでも僕はの体は勝手に彼女を抱き続けていた。
今晩もいつものように、両方が満足するまでは夜は終わらない。
一段落ついた彼女を腕に抱きながら髪を撫でつける。
彼女の気に召したのか、彼女から伸びる管は未だ繋がれていた。
どうやら彼女のせいで人間から逸脱しつつあるようであったが、夜にあまり眠らなくなくてもよくなったのは、
利点の一つに挙げてもいいことだろう。先程の暴風のようなものではなく、ジワリジワリと彼女が流れ込んでくる。
穏やかではあるが、潮が満ちるように包まれていく。
慢性の病と同じように、時間を掛けて変質したものはもはや元には戻れない。
ここまで執拗な彼女に対してふと疑問が生じる。
「信用できません。」
こちらの思考を悟った彼女が答える。
「たとえ私としかしたことがなくても、それでも不安です。」
-だから-と彼女は付け足す。
「他の女で興奮しないように、私とだけできるようにしているんです。」
そんな彼女を嫌わない僕自身が、他人から見ればおかしい考えをしているように思えた。
彼女に狂わされたのか、元々だったのか、既に僕はそこの区別がつかなくなっていた。
朝になり、彼女の家を出る時に、彼女が僕の肩を掴んで引き寄せる。
出かける前にキスでもせがむのかと思った僕の耳元に、彼女がささやくように言う。
「○○さん、今日からこの家に帰ってきて下さいね。」
僕にはやっぱり、彼女のお願いは断れそうになかった。
感想
最終更新:2021年08月18日 03:05