目の前の女性がどういった意味でその言葉を発したかが分からず
しばらくの間沈黙が流れる。言葉がまた自分の耳に入ってきた。
「座って。」
そう言われて空いているほうの手前にある椅子に座る。
目の前にあるテーブルは自分の部屋にある合板とは違い、塵ひとつない
細やかな彫刻が施されており、黒色の艶やかな光を放っている。
「私はキシン・サグメ、サグメと呼んで。」
目の前の女性はそう言うのであるが、このような奥まった場所にいる人が、
まさか一兵卒が呼び捨てにできるほど親しいとは思えない。
「分かりました、
サグメ様。」
自分の返事にどこか衝撃を受けている女性。どうにも不満げな様子である。
「駄目、サグメと呼んで。」
「…。わかりました。…サグメ。」
自分の思い通りになって満足気なサグメ。
自分では隠してるようであったが、手で隠している口元がニヤついていた。
「ああ…やっぱり我慢できない。」
そう漏らしたサグメが、椅子から立ち自分の方に近づいてくる。
座れと言ったり自分から立ち上がってきたりなかなか忙しい人物であるが、
おそらく自分に拒否権はないのであろうと察する程度には、月の世界を生きてきたつもりである。
「やっと…やっと手に入れた。」
彼女はそう言って自分の耳を撫でる。
最初はこわごわと、徐々に指の力が強くなり、最後には手のひら全体でわしわしと掴む。
敏感な部分を強く掴まれて、自分の口から思わず声が漏れた。
「痛っ。」
途端に全身を硬直させるサグメ。恰もサグメ自身が拒絶されたかのように、怖々とこちらの機嫌を伺う。
その姿はまるで小さな子供が母親に縋り付くようですらある。
そしてこちらのしかめっ面を誤解したのか、彼女の妄想はさらに加速していく。
「駄目、離さない。」
そう言って自分の頭を胸に抱えて、きつく抱きしめる。
呼吸がだんだんと荒くなり、それに呼応するかのように彼女の頭の中では
悪い想像が勝手にどんどん加速してるのだろう。
「ダメ、だめ、渡さない、私のもの、絶対に。」
「大丈夫です。」
そう言って彼女の腰に手を回して抱きしめる。一瞬ピクリと固まった緊張がゆるゆるとほぐれていった。
「もっと。」
「はい。」
言葉少なに多くを要求する彼女に答える。
「触って、いい…?」
「どうぞ存分に。」
ぬいぐるみならばギュムギュムと音が出るかのように、自分の耳を揉むサグメ。
彼女が一頻り満足し、夕食を運んで来させるまでそれは続いた。
二人きりの夕食は無言のまま過ぎ去った。
気の置けない同僚とわいわい騒いで食べた食堂の定食の味が無性に懐かしかったが、
残念なことに自分の舌は、今まで食べたどの食事よりも美味しいと告げていた。
「どう…?」
「とても美味しかったです。とても。」
「良かった…。」
正直に返答を返しておく。自分の答えにサグメも満足そうであった。
本人の美貌も相まって、宗教画に描かれた天使の様な笑みにすら感じられる笑顔で自分に話す。
悪魔の言葉を。
「ずっとここにいるんだから、口に合って良かった。」
「どうしたの?」
固まってしまったこちらに対して、サグメから不思議な視線が注がれる。
疑念でも疑いの目でもなく、ただただ純粋に知らないという無知。
どうしてそれが分からないのかという怒りにも似た感情が心の中でパッと燃え上がるが、
それが顔に出る前に用心深く心の奥に深く沈める。
まかり間違っても浮かび上がらないように、厳重に慎重に。万が一それを欠片でも出せば、
ガラスのように繊細で脆く壊れやすい彼女はきっとそれを感じ取るのであろうし、さぞかし悪い結果となるのであろう。
砕けたガラス細工は破片を撒き散らし、二度と元には戻らない。たった数時間の短い付き合いであったが、
自分が一歩対応を間違えて道を踏み外してしまえば、そこに落ちてしまうという予測を、
嫌というほど執拗に本能が警戒と共に刻み込んでいた。
「なんでもないです。」
彼女の言葉に否定を返す。細いロープの上で、命綱を付けずに曲芸をするサーカスのピエロも、
やはり自分のように笑みを浮かべているのだろう。
「そう。」
短く納得する彼女。純粋な故に人を疑うことを知らないのだが、それは逆に鋭く人の心を突き刺す。
例えば自分の言葉に隠れた、僅かな反発すらも逃さないように。
後ろめたさも相まって話題を変えようと視線を走らせると、まるで自分の言葉を押し殺すように、
彼女が口元に当てている手が気にかかった。
「そういえばサグメは、どうして手を口元に当てているんですか。」
「…!」
彼女に緊張が走る。
悪手を踏んだかと思い、サグメの言葉を打ち消すタイミングを図るが、
そんな自分の浅薄な意図を嘲笑うかのように、彼女の中で何かの気配がうねった。
「私は女神だから…。」
サグメから言葉が告げられる。
アテネイの丘で神託を受ける神官のように、自分の周りの世界から音が消えていく。
「私の言葉は運命を捻じ曲げる。それが何であろうとも、全てを反対にする。」
彼女の口から苦しみに彩られた言葉が零れる。自分の内面を告白しているその姿は、内臓を抉り取る苦しみに似ていた。
「私が何かを言う度に、周りの者は壊れていく。だから、貴方を選んだ。」
「選んで、壊して、これ以上壊れないように作り変えた。」
「私の声しか聞けないように、私と言葉を交わせるように。」
見えない血を流しながら心の奥を吐き出したサグメ。
彼女がフラフラとこちらに歩き、自分の肩に顔を埋めるように倒れ込む。
彼女の肩にそっと手を添えたとき、自分の手にヌメリとした感触を感じた。
感想
最終更新:2018年06月05日 22:48