体の中を冷たいものが貫いていき、全身の皮膚が泡立つ。
原始的な本能が自分と異なる存在に対して、嫌悪と拒絶の反応をフルコーラスで突き上げるが、
面の皮一枚、辛うじて奥歯を噛み締めて押さえ込む。
サグメの目がグルリと目敏く動く。
自身を曝け出し、全てを空っぽにした彼女の内面は空虚となり、
目の前の自分の情報を無尽蔵に吸い込いこんでいく。
赤い目が自分を見つめると、周りの景色と気配が白くなり、全ての色と音が彼女を残して消え失せた。
「駄目。」
自分が僅かに見せた拒絶をサグメが見つけ出す。
神は全能であり、それ故に全ての存在は神の元に集約される。
そこには些かの灰色も存在せずに、あらゆるものはサグメの意に染まる。
孤独に苛まれ全てを失った彼女は、唯一の拠り所となる自分を逃がさない。
自分の全てを手に入れようと、神の見えざる手はその力を顕現させる。彼女の手が肩に触れる。
椅子が滑り台になったかのように背中がずり落ち、彼女の重みによって背もたれに縫い付けられる。
硝子ケースに入れられてピンで留められた昆虫標本のようだなと、ふと、とりとめのない考えが生じた。
 サグメの顔が迫り、唇に柔らかい感触を感じる。声にならない息が漏れ、その隙間を割って口の中に舌が入る。
焦点がぼやけ視界が白くなる。体が宙に浮きグルリと舞わされる。
背中から柔らかい布地に月面着陸したところで、辛うじて声が出た。
「サ、グ、メさま…。」
右耳が痛い程に強く捕まれる。彼女の吐息を感じた。
「ほら、やっぱり様を付けた…。」
普通の者ならば失望の色が声に乗っているのだろうが、サグメの声は平坦であった。
落胆もなく悲哀もなく、事実を確認するだけの言葉。
感情が枯渇しきった世界に残ったのは、ただ醜いまでの自分への執着。
それのみを元にして神は動き、自分の全てを染めていく。
「あなたは私のモノ、私だけのモノ。」
神の力を乗せたドロリとした声が耳に染みこんでいった。

 意識が覚醒し目が開かれる。
窓が無い部屋には朝日は差し込んでこないが、
懐古趣味として部屋に取り付けられた明りは、柔らかな光で部屋を照らしていた。
いつもの自室とは違う雰囲気に少しの間脳が戸惑うが、直ぐに昨日起こったことを思い出した。
サグメは既に起きており、椅子に昨日最初に見た調子のままで座っていた。
音で気が付いたのであろうか、こちらが目を覚ましたことに気が付いたサグメが声をかけてくる。
「その服を着て。」
指で差された机の上には白い服が置いてあった。
服を着ている途中、いつも制服を着ている癖で、階級章をくっつける部分を無意識の内に指でなぞっていた。
着慣れていた服には付いていた穴はそれには無く、ただただ上質な滑らかさのみが感じられた。
「必要ない。」
目敏くこちらの動きを捕らえたサグメが言う。
言葉を発することを恐れて自ら口を閉ざした彼女は、そうでなくなった今でも言葉数は少ない。
「すぐに判る。」
昨日見た、直属の部下ですら付けていた紋章が必要なくなると言う彼女。
何も分からずに目まぐるしく変わる状況に流されていた昨日とは異なり、
自分の頭の中で、それが意味することはボンヤリと答えが見えかけていた。
そして、その答えが余りにも恐ろしく、自分はわざとそれを頭の片隅に追いやることで考えないようにしていた。

 朝食が済んだ後で、昨日の部下がサグメを別室へと案内するのに合わせて、自分も付いていくこととなった。
一番の奥の部屋から手前に警戒線を一つ抜けると、月の中枢部のスタッフが行き交う区域であった。
色とりどりの階級章をくっ付けた相手が、全て部下の服装を見るなり道を譲っていく。
そして数分歩いた後に、一つの部屋に入った。
部屋の中には一つの椅子とその後ろ、一段高い場所に段が作られていた。
その段は地上で生えている竹によく似た物で作られた御簾によって中が隠されている。
御簾の中にサグメは入り、自分はその前にある椅子に座わらせられる。サグメは自分を座らせる際に
「紙を持って来て。」
とだけ言いつけて段を上っていった。
説明不足にも程があるが、部下の二人は扉付近でそのまま、直立不動の姿勢で待機していたので、
自分もそれに倣いジッと待っていた。
 一人の人物が入り、自分の前で紙を出して宣誓するかのように読み上げる。
いくら彼が声を張り上げようとも、それは自分には意味のある言葉として
は聞こえないのであるが、そんなことを言い出す空気ではないままに目の前の人物は読み上げを続ける。
文章が終わったのであろう、最後にその人物が紙を差し出したので、サグメの言葉に従い後ろに紙を持って行く。
御簾の前に立つと中から声が聞こえてきた。
「入って。」
簾を持ち上げて中に入る。座った彼女は手を下ろしていた。
「来て。」
彼女に近づき紙を差し出す。
サグメは一瞥しただけて紙を机の上に置き、自分の耳に手を当てる。そして口を近づけて囁いた。
「良きに計らえと言って。」
そして自分は、彼の前でオウム返しのようにそのままのことを言った。
たった数語の短い言葉であるが、彼にとっては大変に意味がある言葉であったのであろう。
深々と敬礼を見せ、恐らくは感謝の言葉であろう挨拶と共に部屋を退出した。

 その日より何日かは同じことの繰り返しであった。
朝にサグメと共に部屋を出て、サグメの言葉を伝え、そしてサグメと共に部屋に帰る日々。
いくら神と同じ空間に居ようとも同じことの繰り返しであれば慣れが生じてくる。
豪華な物に囲まれた生活であろうとも日々の感覚は麻痺をし、
そしてサグメが同じ空間にいることが次第に当たり前になってきた。
そんな日々がダラダラと続いていき、自分の神経を腐らせていく時が続くかと思えた。
その日までは。

「全て認めない。」
普段は捧げられた伺いに許可を与えていたサグメが、突然に拒絶を告げてきた。
余りのことに数秒の間、体が固まってしまった。
彼女の口から聞いたことがない言葉であったと共に、その言葉を言った彼女は冷酷な表情をしていた。
あれだけの力を注いできた提案を、だからこそなのかも知れないが、ギロチンの刃で切り落とすが如くの断罪。
固まっている自分をサグメが促す。
「言って。全て認めないと。」
ノロノロと段を降り、神託を受ける人物の前に立つ。
表情になるべく出すまいとしていたのであったが、自分の顔が今までのものとは異なり固くなっていたのであろう。
疑惑の感情が見る間に浮かんでくる。暴れる心臓の音を感じながら神託の断罪を下した。

 その瞬間、殺意が溢れ零れ落ちた。
目の前にいる人物は、以前自分が持っていたような光線銃など何一つ持ってはいないのに、
その顔は悪意と敵意をグチャグチャに混ぜ込み、目には殺意がドロドロに籠もって自分に向けられていた。
今まで生きてきた中で体験した事が無かったあまりの濃度の負の感情に、体が竦んで動けなくなる。
空気が凍り付いた部屋の中で、一番早く動いたのはサグメの部下の二人であった。
一人が自分と相手の間に割って入り、懐に手を入れてポケットに入った銃を掴む。
そしてもう一人が部屋に付けられたボタンを全力で殴って、警護部隊に緊急事態を伝えていた。
そのままの姿勢で皆が固まる。不意に自分の口が動いた。
「失せろ、下郎。」
まるでサグメに乗り移られたかのように。

 男が倒れる。自らの意思で倒れるのではなく、見えない力に押さえつけられて潰されていくが如く、
あたかも自分の声に反応して倒れるかのように。
「ぐぇ。」
潰されたカエルのような音を立て、目の前の男は動かなくなった。
生きているのか死んでいるのかすらわからない。
ただ目の前の男は、もう二度と立ち上がることができないだろうと、
確信にも似た何かをその時自分は感じていた。
神の怒りに触れた人間は、哀れにも討ち滅ぼされていく。
後ろの御簾の中で、サグメが短く笑う声が聞こえた気がした。
 その直後に、 軍用光線銃を肩から下げた重武装の警護部隊が1ダース程入ってきた。
入ってきた連中は、ボディガードと二言三言話を
して奥に居るサグメが無事であることを確認すると、目の前で倒れている男を無造作に引きずっていく。かなりの高官であっただろう
その男は、何の価値もないかのようにぞんざいに扱われていた。
動かなくなった男が襟に付けていた立派な勲章は、泥か何かで黒く汚れていた。

 部屋が片付いた後、自分とサグメは部屋に戻っていた。
自分が拒絶した男はかなりの地位の高官であったようで、ボディーガードの一人は移動の間ずっと、
携帯端末を使ってどこかの部署とやり取りをしていた。
しかし諸々の後始末は全て自分のところまでは届かずに、下の場所でストップしていた。
自分が改めてその影響の大きさを知ったのは、依姫が部屋に来た時であった。
 珍しく夕食の時間でもないのに、ボディーガードが二人して部屋に入ってきたと思うと、
二人は自分に目もくれずに、まっすぐサグメの方に向かって行った。
二人から報告を受けたサグメが手を振ると(それが許可を表すと分かる程度には、彼女の事を知るようになっていた)連絡役の一人が
部屋の外に出ていった。そしてサグメはソファーに座り自分を呼んだ。
「来て。」
相変わらずの短い言葉ではあったが、確実な意思の力ががこもっていた。
大抵の相手を迎える時には携帯端末へ連絡をするようなボディーガードが、
わざわざ部屋の外へ迎えに行ったということはおそらくは相当な人物だと思えるのだが、
それにもかかわらずサグメの態度はそうと思えなかった。
半信半疑で自分がサグメのそばに寄ると、服の裾が引っ張られた。

 気まぐれなサグメの膝の上に座り、彼女に耳を弄ばれていると、依姫がボディガードの一人と共に入ってきた。
こちらの様子を見て一瞬視線がぶれたが、すぐに持ち直し片膝を立てて臣下のようにサグメの前に控える。
おそらくは今日のことを詫びにでも来たのだろうが、
一方のサグメは依姫すら気にかけないように、相変わらず自分の耳を触っている。
ひとしきり依姫の言葉が終わったのであろう、顔を上げた彼女に対してサグメが言葉をかけた。
「気にしない。」
深く、深く
「私の○○に逆らった愚かな者など、問題ない。」
呪いを言葉に乗せていく
「たった今、そいつの運命は終わったのだから。」
部屋の空気が凍りつく中で、サグメの吐息が自分の耳に当たる。
たった今、一人の月人を殺したにも関わらず、彼女の心の中には自分しかいない。
サグメから向けられる濃密な感情によって理性を司る脳が痺れていく。
月の高官の命よりも、月の最高指導者の謝罪よりも、自分の方が重要であるという明確な答えをこちらに向けられて、
不意に自分の中に高ぶった感情が湧いてくる。
サグメ以外の他の全てを見下し、蔑み、捨て去る。ただ彼女と共にいる世界。
ドロリと自分の心が溶かされていく気がした。






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最終更新:2018年06月05日 23:37