毒花
ミルクを入れないブラックのホットコーヒーは、香りを部屋に漂わせながら静かに黒い水面をたたえていた。
まるで今から自分が話す言葉を表すかのように深く、一切の妥協を許さないかのように何にも染まらない色を見せる。
昔から幽香が煎れてくれたものが一番好きだった。
本人は甘党なのに自分の好みに合わせて、恋人とお揃いのものを飲む彼女。
そんなに嫌ならば砂糖を入れれば良いと何度か言ったのだが、いやに頑固なところをみせて、
毎回苦みを堪えて顔を歪めて飲んでいた。
少し飲んだところでカップを置く彼女。こちらのカップに視線が目敏く動いた。
「飲まないの、珍しいのね。」
不思議そうな表情をする彼女。その言葉を切っ掛けに、今まで詰まっていた言葉が出た。
「いや、いい。」
「体調悪いの?それだっ「そういう訳じゃない。」」
彼女の話しに無理矢理に割り込む。
普段はしないことをしたせいか、彼女の目に疑惑の色がすっと差しこまれた。
「一体どうしたの。なんか、今日、変よ。」
そう言いながら、所在なさげに指を組み合わせる幽香。
買ってあげた指輪が不安げに爪で擦られた。
僕は拳を握りしめ、喉につっかえた言葉を強引に吐き出した。
「別れよう。」
「えっ…。」
今まで聞いたこともないような、か細い声が幽香の口から漏れた。
「どうして…、そんなこと言うの…?」
幽香からか細い声が聞こえる。睫毛は微かに震え、頬に影が見えた気がした。
しかしその驚きも一瞬のものであり、次の瞬間には反発の色が彼女の顔に表れた。
元来の、生来の、しなやかに、かつ折れることのない彼女の性格。遠慮があったのだろう、
いまだ恋人たる僕相手にはぶつけてきたことは無いその気性は、今この時にも押さえ込まれていた。
理性の皮一枚で怒りを抑え込む幽香。
努めて冷静になろうとしている彼女であったが、地の底から漏れ出た怒りを乗せて声が向かってくる。
「笑えない冗談ね。私、そういうの大嫌いなの。」
彼女の顔を正面から見据える。
反発と怒りとそこに僅かに潜む、驚愕と恐れ。
あの人から助言を受けていなければ見逃してしまう程であろうそれは、僕の目にははっきりと見えていた。
「冗談じゃないよ。」
「なら、なによ。余計に悪いんじゃない。」
荒れ狂う心を隠している彼女。
コップになみなみと注がれた水は、硝子の淵いっぱいで揺れている。
そして僕は、そこに石を投げ込んだ。
「××さんに「あんなこと」したよね。」
「……。呆れた。それ只の逆恨みじゃない。確かにその人とは会ったけど、むしろこっちが向こうに迷惑を掛けられたのよ。」
数瞬の後にさも迷惑しているかのように返事をする幽香。
こちらが又聞きで話しをしていると見越して、自分を丸め込みにきたのだろう。
いつも落ち着いていて頭がよく切れる所は、以前は好きな所だったが、今となってはとても醜悪に見えた。
タンポポのように粘り強く、ツタのように絡みつく。
幽香から花が好きだと聞いたことがあったが、むしろ雑草が似合っているようにすら思えた-とても悪い意味で。
「へぇ、脅して踏みつけるのが?」
「……。」
そこまで自分が把握していたとは知らなかったのだろう。
目が忙しなく宙を彷徨い、指がグッと握りしめられる。
唇が言葉を紡ごうとして、声にならずに打ち消される。
言葉に詰まり沈黙が続いた後で、観念したように幽香が答えた。
「…あなたの為よ。」
「そう…。」
短く答えて席を立つ。これ以上彼女と話し合っても、お互いの溝は埋まらない気がした。
「待って!」
自分を呼び止める声が聞こえる。振り返らずにそのまま数歩進むと、更に大きな声が聞こえた。
「御免なさい!」
ガツンと鈍い音が床から響き思わず振り返ると、幽香がフローリングに頭を付けていた。
「ご、ごめんなさい…。お願い、別れないでぇ…。」
涙ながらに訴えてくる幽香。
あれだけ自分に自信があった彼女は、今は見る影もなくグズグズに崩れて去っていた。
彼女が自分と別れたくないがためにここまでしたことに驚いたが、それでも別れる気持ちに変わりはなかった。
「サヨナラ。」
そう言い捨てて、僕はドアに手を掛けた。
苦い思いを胸にしつつ、ドアのノブに手を掛ける。
しばらく幽香と付き合ってきた間に部屋には色々な私物が増えていたが、
残してきた物はどれも換えが効く物であった。
後で宅配便で送って貰うか、さもなくば彼女がゴネるのであれば、最悪捨ててしまっても良い。
金銭的には少々-いや割と大きい損失かもしれないが平穏には替えられない。
取っ手を回して外に出ようとすると、後ろか声が追いすがってきた。
「行かないで…。」
未練が溢れる幽香の声。勝ち気や傲慢といったものは剥がれ、中の脆い中身が零れているようだった。
トマトのように柔らかく、潰された中身から赤い液体が滴り落ちる。
地に落ちた果実は傷み、潰れ、そして甘い匂いを放つ。
腐ったような、毒の花のような、蠱惑の香りを。
「お互いのためにも、一緒に居ない方がいい。」
胸に辛い思いを抱えながらも答える。
これ程までに彼女が狂ってしまっていたのは何故だろうか?
愛、恋、そんなもので人はここまで狂うのか、
人間がヒトであるために-まともに生きていくために必要な心を、あの時の彼女は捨てていた。
「嫌、嫌…イヤなの…○○が居ないと駄目なの…。」
うわごとのような言葉で僕を引き留めようとする幽香。
彼女が此処まで狂ってしまったのは、自分のせいなのかもしれない。
あの人から写真を見せられてその思いが沸き立ち、僕は居ても立ってもいられなくなり、幽香の家に向かっていた。
壊れかけている彼女を見て罪悪感が生じる。
しかし、それでも別れなければならない-自分のために彼女があんなことをしてしまったのであれば。
「済まない。」
断腸の思いで言葉を紡ぐ。後ろから発せられた悪寒が全身を貫いた。
「駄目。」
急に足首を捕まれて思いっきり後ろに引きずられる。
反射的にドアノブを掴もうとするが、手の中からノブは虚しく滑り抜けていった。
掴む物が何も無いフローリングを氷上を滑るストーンのように滑走する。
まるで幽香が僕を見えない蔓で手繰り寄せているかのように、
僕は抵抗らしいこともろくろくできずに引きずられていった。
良く掃除され塵一つ落ちていない廊下のフローリングの上を、
シャツの跡が残らんばかりに幽香に引きずられていき、遂に足に幽香の手が掛けられた。
「はあ、はあ、はあ…。」
荒い息を付きながら、幽香が足からにじり寄ってくる。
女性らしく軽い筈なのに、今の自分は身体を少しも動かせそうも無い。
全身をからめとられたかのように、いくら藻掻けどもピッタリと腕が身体に張り付き、
上に乗っている幽香を僅かに揺らすのみであった。
「もう…、これ以上暴れないで。」
荒い息を付きながら幽香が抱きしめてくる。大きな鼓動が振動として伝わってきた。
ドクン、ドクンと規則正しいリズムのみが無言の室内に存在する。
言葉を交わさずとも、お互いの気持ちが伝わっている気がした。
「もし、○○が居なくなるなら…毒を打つわ。」
思い詰めたように幽香が言う。
彼女は凶器も武器も持っていないのに、白刃か銃口が自分の首筋に突きつけられているような錯覚を覚える。
少しでも切っ掛けがあれば、針のように尖らせた激情が叩きこむであろう状態で、幽香は踏みとどまっていた。
「信じていないの?トリカブトで全身が動かなくなるように麻痺させてあげましょうか。
きっと、何をするにも私の手助けが無いと生きていけないようになるわ。
水を飲むのも、御飯を食べるのも、私がいないと駄目。とっても素敵じゃない?」
「それともスズランの毒がいいかしら。きっと全身が捩れるような傷みが襲うでしょうね。
息が出来なくなり、ゆっくりと心臓が止まるのを感じる苦しみ。
私を捨てたのを後悔しながらゆっくりと死んでいくのがあなたには相応しいかしら?」
「マンドラゴラでもいいわね。周りの人全てが怪物に見えて、常に何かに襲われる妄想を抱き、
部屋の中で一歩も動けずにただ蹲るだけしかできなる毒。
でも大丈夫、そんな世界でも私だけはちゃんと元のままだから。」
説得しようと蕩々と言葉を流す幽香。
無理をする彼女を見ていると、思わず問いかけてしまった。
「本当にそれで幽香は満足なの?」
「……! 満足な訳ないじゃない!!」
涙と共に本心が零れ落ちる。大粒の涙を流しながら幽香が訴える。
「私だってあなたを傷付けたくない。でも、あなたが私の前からいなくなるじゃない!
だったらもう、何をしてでも、殺してでも無理に引き留めておくしかないじゃないの!!」
「お願い…。戻ってきて…捨てないで…。」
不意にカシャリ、とシャッターを切る音がして、一枚の写真が風に舞うように、
幽香の前にどこからともなく落ちてきた。写真を幽香が手に取る。
「う、う、う…。」
手が震え、涙が零れる。憑きものが落ちたように幽香の背筋がぐにゃりと曲り、
写真を掴んだまま崩れ落ちた幽香は床に顔を伏せる。
そして僅かに泣き声が漏れているのみとなった。
あれだけ強い力で自分を縛っていた見えない蔓は、まるで枯れ果てたかのように消え果てていた。
都会の中に溶け込むようにして店を構える、お洒落な喫茶店に入る。
先に自分が席に着いて居たはずなのに、約束の時間になるといつの間にか目の前の席にその女性はいた。
「お役に立てたようでなりよりです。」
ツインテールの髪型をした女性が言う。まるであの出来事を見ていたかのように。
「そう言えば、結局彼女は何だったのでしょうか。とても手品やトリックでは説明が付かない気がするのですが…。」
約束のものを渡しながら、あの時に気になったことを尋ねる。
あの時の恐ろしい幽香は、まるで人間ではないかのようであった。
「さて…。世の中には不思議なこともあるものですからね。」
サラリと受け流しつつ席を立つ女性。去りゆく彼女に声を掛けた。
「マンションでの写真、ありがとうございました。お陰で助かりました。」
「…こちらも良い写真が撮れましたので、お気になさらず…。」
紫色のチェック柄をした、スカートが印象的な人だった。
終
感想
最終更新:2018年07月10日 22:56