反魂丹

 ふと話しの淵に上った言葉であった。とりとめのない会話、ありきたりの雑談、
彼女とのそういった会話で交わされた言葉で記憶に残っていたものがあった。
「そういえば、幽霊って見たことありますか?」
その時僕は、大した考えもなく彼女に聞いた。
「うーん。私は見たことがないわ。○○はどうかしら?」
彼女に尋ねられて考える。過去の記憶を思い返して考えるも、生憎思い当たることはなかった。
精々が小さい頃にお化け屋敷で見た程度である。
作り物の、まがい物の、人間が人間を驚かせるために作った類いの、子供だましの実在物。
種が割れれば呆気ない程度が僕が体験したものの全てであった。
「あら、そうなの…。」
それを聞いて言葉を濁す彼女。こういう時の彼女はいつも僕の考えつかないことを考えていた。
小気味良く、切れ味が抜群の頭脳はいつも健在で、そして僕が密かに憧れているところだった。
いや、そういうと何か彼女の頭の良さだけを尊敬して、そのお零れを浅ましくも利用してしているのではないかと
混ぜっ返されそうなので(!)敢えて彼女の名誉のために反論しておくが、僕が彼女に引かれていたのはそれだけでない。
優しさに満ちた落ち着いた雰囲気、影がありながらも美しい横顔、そして周囲に対する控え目な態度。
いわば彼女の全てに僕は好感を持っていたが、それ故にどこか彼女に踏み込めないでいた。
「ねえ、誰かから言われたの。」
「なんか最近元気が無いって言われまして…。僕に何か幽霊が取り憑いているんじゃないかって。」
「…誰かしら。」
ドキリと、心臓を捕まれたような感覚を覚えた。見えない手で体の内側を撫でられたような刃物のような冷たさ。
それに反発するように、反射的に僕は返事をしていた。
「いえ、覚えていなくって…。」
「本当…?そう、じゃあ…」
彼女は椅子から体を起こして僕の額に手を当てた。彼女の顔が近づいて火照った顔を、ひんやりとした冷たさが覆っていく。
「ふんふん、成程ね…。」
一人で何やら納得する彼女。僕の意識はいつの間にか無くなっていた。

 ふわふわと浮かぶ様な感覚。
手足に力は入らなく、それでいて神経は繋がっていて、不安定な感覚を脳に伝えている。
だけれども意識は水面に浮かぶことはなく、ただ深い水の中に沈んでいるようにぼんやりとしている。
ゆっくりと、だたひたすらにゆっくりと落ちていくように、まどろみの中で音が聞こえてくる。
「大丈夫、○○。」
疑問ではなく確認。予めこうなることが分かっていたかのように彼女は言ってから、いつの間にか控えていた人を呼んだ。
「ちょっと家まで行って休みましょうか。疲れてしまったでしょうから。」
僕は自分が返事をしたのか、覚えていなかった。

 いつの間にか暗闇に沈んだ意識が再び浮かんだのは、それから暫く時間が経ってからのことであった。
目が覚めた勢いで布団を捲ると、障子越しの月明かりによって照らされた畳が見える。
他には誰も居ない薄暗い部屋の中を、寝ぼけたせいか霞がかかった頭でぼんやりと眺めていると、障子に影が映りおもむろに開かれた。
ああ、若し此処で僕が「或ること」に気が付いていれば、引き留めようとする家人に何か理由を付けて一目散に僕はここから抜け出していただろうし、そうしてこの後の展開は大きく変わることになっていただろう。
それは僕の人生を大きく変えることになることになる、謂わば一大分岐点であった。-即ち、彼女に足音が無かったということに-

「気分はどうかしら?」
丁度いいタイミングで障子を開けた彼女が僕に尋ねる。おそらく大分長い間眠っていたであろう僕は、十分な休息のためにその時にはすっかり意識は明瞭になっていた。秋の夜に冷えた空気が肺に入り、全身を通して脳に巡る。
「おかげさまで大丈夫です。すみません、こんなにお世話になってしまって。」
「あらあら、それは丁度良かったわ。」
障子をきっちりと閉めて僕の方に寄る彼女。いつの間にか彼女は着物に着替えていた。日本屋敷に良く似合う薄い桜色が彼女の美しさを引き立てているような気がした。
「今日はもう遅いから、泊まっていったらどうかしら。」
「いえいえ、そんな!態々家で休ませて頂いたのに、そんなにお世話になる訳にはいきません。」

慌てて断る僕を優しく見ている彼女。僕に顔を寄せてそっと言った。
「でも…今日の電車はもう終わってしまっているけれど…それでも帰るの?」
どこか嬉しそうに悪戯っぽく僕に囁く彼女。帰る言い訳が思いつかずに黙り込む僕に彼女が更に言った。
「じゃあ、決まりね。ここに泊まること。」

 彼女が呼んだ従者に案内をしてもらい自分の家とは似ても似つかない程の広い風呂に入った後、やはり従者の人に案内をされて先程の部屋に戻ると、畳の上の布団が増えていた。一瞬固まっている僕の後ろで障子がピシャリと音を立てて閉められる。思わず振り返って障子を方を見た僕の後ろから、音も無く誰かが僕に抱きついた。
「だーれだ?」
嬉しそうに僕をからかう彼女。ドキリとした僕が流石にからかいすぎだと言おうとすると、急に寒気が来た。
最初の数秒は皮膚が水に晒されたような冷たさを感じたそれは、直ぐに全身が氷に漬けられたようなおぞましい悪寒となり、やがて心臓が捕まれたようになってしまい、僕は身動きが取れなくなってしまった。

 歯がガチガチと鳴り全身の震えが止まらなくなった僕を布団に導く彼女。風呂にゆっくりと
入って温まった筈なのに、厚い布団に入って彼女に抱きしめられている筈なのに、一層強くなる震え。まるで何か恐ろしいものに、人間とは比べ物にならないようなものに自分の命を、魂を手中に収められているかのように感じた。そして彼女の横顔は昼間と同じ筈なのに、まるでこの世のものとは思えない程に美しかった。
 生存本能が圧倒的強者に悲鳴をあげている中で、僕のもう一つの生存本能も盛んに主張を
していた。心臓がバクバクと鳴り響くのは、一体どちらのせいなのだろうか。彼女の唇が僕に触れる。震えが収まると共に僕の魂はグニャリと溶けていった。

 それから幾つかの昼が過ぎ、それよりも一つ多い夜が過ぎた頃になっても、僕はずっと彼女の家に居た。あの時、人ならぬ美しさを見せた彼女によって、魂ごと溶かされてしまうような経験をしたために僕は彼女の虜になっていた。既に今まで過ごしてきた記憶は薄れてしまっていたが、次第にそれすら感じなくなり、遂にはそれを問題とも思わなくなってしまう。ただただ彼女と一緒に過ごすだけの退廃的な(或いは文学的な、ややもすればロマンチカな表現をすれば)爛れた生活に溺れ、家族の顔すらも思い出せなくなった時分に、彼女は僕に言った。
「私、子供を産みたいの。」
「人間じゃなくても出来るものなのかい?」
その頃には既に彼女の正体に気が付いていた僕が尋ねると、彼女は小さく首を振った。
「いいえ、普通は駄目。私は死んだ幽霊だから。でも…」
「でも…?」
言葉尻を濁す彼女に続きを促す。
「反魂であなたの魂を私のお腹の中に入れれば、あなたを産んであげることが出来るわ。これが命の無い私が、唯一子供を産む方法。この生涯でただ一回だけあなたを完全に私のモノにして、母となってあなたを育てて、そして妻となるの。」
「…そう…。」
「ひとりぼっちの幽霊でいままで過ごしてきて、あなたと出会ってずっと一緒に居たいと思ったの。でも、あなたはただの人間だからすぐに死んでしまって、そしたら自我と記憶を無くしたただの幽霊になってしまうわ。あなたには私の家族になって欲しいの。ずっと一緒に居られる存在として…。」
彼女が僕に訴えかける。狂おしい程に純粋で、それ故に狂気に満ちていて、それでも甘美な誘惑で。そして僕は……。

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 冥界の屋敷に今年も桜が咲いた。いつもこの季節になると、僕の誕生日がやって来る。家の庭が一年を通じて表情を変える中で、一番この季節が華やかになる。遠い世界の果てにあると聞いた妖怪の山は秋になると山が紅葉になり、まるで色が付くように見えるらしいが、生憎僕が行けるように成長するまでには随分かかるそうだ。
 時折教育に悪いページが切り取られずに残った文々新聞には、外の世界がチラホラと書かれていた。時折二人が人里まで出かけた隙に、姉さんが持っている本をコッソリ隠し読みするとそこには色々な世界が広がっていた。黄色い花で溢れている太陽の畑、一度入れば二度と出ることが出来ない迷いの森、大きな水が広がる場所に立つ紅魔館。そして人間が大勢いて、取り分け外の世界から流れて来た外来人がいるという人里。夢の中でよく見た沢山の人が行き交う景色が、きっとそこに違いがないと僕は思っていた。
「○○~。帰ったよ~!」
遠くから姉さんの声が聞こえる。この声に合わせて、本の背表紙を合わせて元通りに直しておく。一度隠し読みをしたことがバレてから、二人はひどく僕が外の世界に興味を持つことを恐れている気がした。
「○○。」
「ひっ!」
後ろの襖が突然開き幽々子さんが声を掛けてくる。
「ねえ、どうしてそんな本を読むのかしら?」
いつになく悲しそうな顔をする彼女。
「幽々子さん、逆にどうして僕が外の本を読むと駄目なのですか?」
どうやら母親のことを普通の家ではお母さんやらママと呼んでいるらしいのだが、我が家ではずっと幽々子さんと読んでいた。我が家に紫さん一家が来た時に、橙ちゃんが僕が幽々子さんをそう言ってと呼ぶのに驚いていたので、後で幽々子さんに聞くと家訓だと教えられたが、どうやらそれも嘘のようだ。
「○○には汚い外の世界は見せられないからよ。」
「ねえ、幽々子さん。」
「なにかしら、○○。」
「この家は何かおかしくないですか?普通の家では子供は外に遊びに行くと聞きました。」
「あら、○○にそんな嘘を教える人なんて、この家には居ませんよ。」
「そういうことではなくて、はぐからさないで下さい!」
「私を××せておいて?」
「………!」
幽々子さんの指が頬にかかり距離が近くなる。彼女の唇が頬に触れ、僕の手が幽々子さんに導かれる。
「○○は昔私のお腹の中に戻って、そうして○○はもう一度生まれて来たのよ。だから…、ウン、…他の家とは違うのよ…アッ。」
いつものように幽々子さんが僕を求め、僕もそれに応じる。このような関係は恋人と世間では呼ぶらしい、と以前本で読んだ気がする。ならばこの家はやはりおかしい家なのだろうか。いつものように押し倒されるさなか、僕はそう思った。





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最終更新:2018年12月30日 14:09