八意永琳(狂言)誘拐事件
「こんばんわ」
その男性は、勝手知ったる態度で。
とある豪邸の裏口、正門ほどの豪奢さは無いがそれでも豪邸らしい佇まい。
いや、この裏門ですら。そんじょそこらの豪邸の正門としても十分と通用していた。
何も知らない人間が、このやたらと豪華な裏門の写真を見せられたのならば。
誰も彼もが、よほどの天邪鬼ですら正門だと思うだろう。
しかし、この里の住人。いや、幻想郷の住人が。それを間違えることはなかった。
この豪華な裏門を正門とは間違えない、何故ならば。
この裏門にも表札が掲げられており…………。
その表札には、『稗田』の文字が掲げられているからである。
そう、稗田である。幻想郷と稗田の関係は最早論ずるまでも無い。
その場所に、この男性は勝手知ったる態度で入って行き。
そして慣れたように、近くで掃き掃除をしている女中に挨拶をした。
「これは、助手さん!旦那様に御用なのですね?さぁさぁ、どうぞお入りください。
自室で資料の整理を成されているはずなので。すぐにお茶などをご用意いたしますので。
勝手知ったる態度でいるだけあり、どうやらこの男性は家中の者からの覚えも良く、
更には態度から見て決して悪い客では無い。むしろ良い風に捉えられているのは明らかであったが。
しかしながら、その『助手』と呼ばれた男性は。
唇を動かしながら、少しばかり面白くないような表情を作りつつ、
その微妙な感情を誤魔化す為に衣服のボタンをいじっていたが。
「『助手』って、『どっち』にとっての?」
けれどもそれらの小細工は、あくまでも目の前の人物。掃き掃除をしていた女中に対して、
悪印象を抱かせないための慎ましい程度の努力でしかなかった。
そもそも最初から、『どちらにとって』の『助手』と言う表現なのかははっきりさせる腹積もりであった。
『助手』と言う言葉を聞いた、その時にはもう既に決まっていた。
「あー……」
女中は明らかに、大きく困ったような顔をしていたが。
その『助手』と呼ばれた男性は、許す許さないと言うほどの大事では無いけれども。
仔細をはっきりとさせるまでは、真相を知るまでは動かないぞと言う決意が見て取れた。
「誰か来たらこっちも困るから、それまでだんまりでも構いませんよ。稗田家の女中なら考える事は一つ」
「夫様。かの九代目当主の稗田阿求の夫である○○の助手、と言う意味でしょうから」
「……ええ、まぁ。そうです。口が滑りました……どうか、お許しを」
女中は深々と頭を下げようとしたが、その行動を即座に、その男性は止めた。
「そこまで怒っている訳じゃない。ただ、ほら、○○って。奇妙な部分が多いから。あれの助手かよって部分があるから」
はははと、男性は笑った。
その笑い方に邪心などが無いのは、素人目にもはっきりと分かるような。明るい物であった。
「失礼しました……その、ええ。助手と言う呼び方になれている物ですから。旦那様も、○○様も貴方様の事は助手と呼ぶもので」
「百歩譲って、慧音の助手と言ってくれ。助手と言った後に、慧音のと急に付け加えても良いから」
怒りこそないが、男性からは疲れたような態度が見て取れた。
ようやく目の前の女中も。この男性の怒りが、それほどでもないどころか。全くない事を信じる事が出来た。
「寺子屋の先生さん、慧音先生の所の副担任さん!」
それに、女中の機転が功を奏したようであった。
先ほどまで疲れたような態度の男性が、急に機嫌を直して。ぱぁっと、明るい顔を作った。
「そうだそっちの方が良い!助手よりもずっと、慧音の下についている人間だと分かりやすいから!!」
女中は機転が上手くいったことを、ホッと息を付きながら胸をなでおろしていたが。
そんな様子に対してこの男性は、何らその気持ちを慰める事無く。足取りも軽く、お屋敷の奥へ奥へと進んで行った。
しかし女中にとってはそれでよかったのだ。これ以上、上手い会話が出来るとは思っていなかったから。
まさかこの期に及んで、他愛のない話が出来るとも思っていなかったから、余計に。
「…………はぁ」
男性が完全に見えなくなったのを十分に確認してから、女中はため息をついた。
「ご当主様、九代目様……阿求様の次に緊張して。気を付けて相手をせねばならないお方だという事を、夫の○○様も、あの先生さんも。どちらもまるで自覚していない」
大変なのは分かりますよ?でもね、でもね。女中はそんな意味の言葉をひたすら呟きながら、掃き掃除を続けていた。
「俺の事を『ワトソン君』等と言う愛称で呼んでみろ、ぶん殴る」
そして男性は、ある一室へと入って行った。しかし、さきほどまでは軽快な足取りであったのに。
だというのに、その一室へと入る時には、憤怒とまでは言わないが呆れ混じりの苛立ちが色濃かった。
そして、文机に向かって書き物をしていた男性の笑顔を、しょんぼりとしたものに。急速に変えてしまった。
「少しは付き合ってくれ。お前と違って、俺は立場が恐ろしく弱いんだ。お前は謙遜するが、それよりも弱い!紛らわせるために少しはおかしな気分にさせてくれ!」
文机に向かっている男性は、ぶつくさと言いながら書き物の続きを始めた。
「今日は何をやっているんだ?○○」
「昨日、阿求の口述を全部書き留めていたから。それを整理しているんだ。資料を読みながら気になった事や、求聞史記に書き留めておきたい事そんな事をつらつらと述べているんだが」
そう言いながら、文机に向かって書き物をしている男性。
その名前を○○と言う者は、若干の笑顔を取り戻しながら、大量の紙束の中から一枚を抜き取った。
「それでも、口述でそれをやっているから。ほら、他愛のない話が少なくとも全体の三割ぐらいはあるんだ」
そしてそれを、○○は自分と相対する男性に渡そうとするが。
「のろけるな」
丁重な態度で付き返した。
「それで?今日、お前が持ち込んできた話は何なの?いたずら妖精が、加減を間違えて寺子屋の生徒に怪我させちゃったぐらいなら、阿求の口述をまとめる作業を優先したい」
しかし○○の目の前にいる男性は、うんともすんとも言わない。
それどころか、立ち振る舞いを直して耳をそばだてるような態度になった。
「多分、女中の誰かがお茶とお茶菓子を持ってくるはずだ。その後だ」
剣呑な雰囲気である。
若干ふざけているような態度でいた○○も。一度は筆をおいて、男性の方を見つめたが。
「出来るところまでやろう……その方が有意義だ」
すぐに、男性は誰の邪魔も入らないと言う場面が。
それが絶対にと言い切れるまでは待つつもりだと判断出来たので、書き物の続きに入った。
先ほどのように、友人を前にして気持ちが少し浮つくと言うようなものは一切なかった。
「どうぞ、先生さん!」
さきほどの女中との会話が、もう家中の隅々にまで広がっているようで。
先ほど掃き掃除をしている女中と、先生と呼ばれた男性にお茶を持ってきた女中は別人なのに。
その別人であるはずの女中は、先生と言う部分を若干強調して、わざとらしいような大きさで口に出した。
しかしそれよりも○○が気にしたのは、先生と呼ばれた男性の表情だ。
○○は、この男性が実はどう呼ばれ対価と言う部分を、十分に理解している。だと言うのに、と言う感想しか出てこなかった。
「笑顔が固いな。それほどの大事か?上白沢慧音と同じような立場の呼ばれ方をしたのに」
○○は立ち上がって、ふすまの向こう側をもう一度、左右をしっかり確認してからしめて、
空気取りに開けていた窓もしっかりとしめてから言葉を促した。
男性は、それでも緊張が解けないのか左右を確認してから。ようやく口を開いた。
「八意永琳が誘拐された」
「ありえない」
驚いたら迷惑になると分かっていたから、大きな声は出さなかったが。
より大きな話になると、却って声は出ない物であった。
「その通りだ、ありえない。蓬莱人に勝てる相手などいない」
とは先生が言うが、その時に○○はもう本棚の前に立って。永遠亭についてまとめられた書物を取り出したが。
「いや待て」
○○は何かに思い当たった。
「八意永琳が連れている、あの書生!あれは確か……」
「そうだ……学者馬鹿のきらいがあるせいなのか、八意永琳が蓬莱人である事を知らない」
○○は盛大な溜息を出しながら本棚に書物を戻した。
「そうだ、そうだ。思い出したよ。八意永琳は猫をかぶっていたんだった。あの見習い書生君の前では」
「永遠亭はウサギの住処なのにな」
先生は皮肉を言うが、○○は笑わなかった。
「それだけならば永遠亭だけの問題だろう?なのに何で」
「台本が無いんだ」
「は?書生君が八意永琳を助ければ万々歳だろう。晴れて2人は一緒になれる!自分を助けてくれた相手と!」
「終わりはそこでも、そこに至るまでの台本がまとまっていないのに、始めたんだ」
「はぁ!?」
「そして書生君ったら。何も知らないくせに、いや知らないからこそ。いきり立っちまって」
話の本筋に入っていくとともに、この先生は。上白沢慧音の夫は、お茶を一息で飲み干した。
「戦争だと騒いでいるよ、書生君ったら。このままじゃあいつ、何かやらかす」
○○は両手で頭を抱えた。
「でもそもそも誰と戦うんだよ、狂言誘拐なのになのに?敵は始めからいないのに!」
「けれども」
しかし状況を整理した○○は、重々しい雰囲気で口を開ける。
「狂言であるとバレてはならない。狂言だとバレる事を、八意永琳は恐れているはずだ」
○○はそれを言うと再び頭を抱えたが。
「バレたら嫌われるだろうからな、書生君から」
先生はひきつった笑いを見せていた。失敗を何より恐れているのは、もはや八意永琳だけではなくなった。
続く
感想
最終更新:2019年04月28日 21:35