八意永琳(狂言)誘拐事件5
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「ここで良いよ、後は私一人で稗田邸に向かうから」
その男は見るからに羽振りがよさそうで、言葉も態度も品よくしていたが…
…しかしながら羽振りの良さと品の良さが、何らかの欺瞞(ぎまん)とも思えてしまうような。
剣呑さ、それに加えて淫靡(いんび)な風体であった。
見た目も、言葉使いも確かに申し分は無いのだが……香るおしろいや香水がそうさせてしまうのだろうか。
「しかし、頭」
あるいは従者が、演じる事を放棄しているからだろうか。頭と呼ばれた男性が連れているこの従者は、明らかに筋者であった。
確かに、従者と呼ばれる存在の中には、旦那や奥方やそれらの子息や息女を守るために。
身の回りの世話以上に護衛と言う性格を強く帯びている物がそれなり以上の数存在している。
そう言った人物は、自らの主の為に。必要とあらば矢面に立って、最悪の場合は悪漢の命など保証しないと言う部分を際立たせるために。
身の回りの世話をする従者とは少しばかり趣が違うのが常であるのだが……
「お、お1人で?せめて私を稗田邸の門前まで付いて行っても、それぐらい許してくれねぇか?そりゃ遊郭よりは牧歌的かもしれませんが」
どうにもこの従者、若干ではあるけれども言葉使いが汚かった。
「良いよ、良いよ。あそこを遊郭と呼ぶけれども、苦界よりは一人歩きもずっと安全さ。場所柄ここらへんはもう、上白沢慧音の勢力に入っているし」
「そして上白沢慧音は、稗田家とも懇意。そんな場所に悪漢が、お天道様の高いうちにいるとは思えん」
頭と呼ばれた男性は、相変わらず品よく振る舞っているけれども。
しかしながら従者がポロポロと見せる、筋っぽい部分に全く物おじしないどころか。問題とすら思っていなかった。
そうなると、先ほど筋者っぽい従者から飛び出た遊郭と言う単語とも合わさり。
この奇妙な2人が、奇妙では無くて危険な2人と認識せざるをえなくなる。
「君はそこらのお茶屋で何か飲んでいなさい。小一時間経っても戻らなければ、先に帰って能楽の稽古には来られないと、伝えておいてくれないか」
事実。頭と呼ばれて明らかに上役っぽい男性は、筋者らしき従者にお金を渡してしばらく時間でも潰していなさいと。
優しく気遣いながら。稗田家に呼び出された、遊郭からやってきた、この頭と呼ばれた男性は。
従者に対して金銭を渡していたが……いかんせんその額が問題だった。
お茶でも飲むにしてはいささか…………多いとしか言いようが無かった。
小銭は一枚も無く、高額紙幣を渡すと言う有様であった。お茶一杯につかう金額でない事だけは明らかであった。
「だとしても……そのまま帰るなんてのは絶対に無いですから!また戻ってきますから」
そしてこの筋者を隠しきれない従者も、自分の主があまりにも多い額を渡したことを何とも思っていなかった。
と言うよりは、それが普通の事であるからマヒしているとも表現する事が出来た。
しかしながら余りにもつっかえないから、自然な物として観客は見てしまいかねなかった。
「それじゃ、そこらの『茶屋』にあっしはいますから」筋者の従者は渋々、主の厚意を受け入れた。
この場面を見ている観客がマヒから戻る唯一の場面は。
筋者らしき従者が入って行った『喫茶店』で。若い女性の給仕が慌てて奥へ引っ込み。
年かさの老婆や店主らしき男性が、女性給仕の代わりを勤め出した事であろう。
「…………そこまで見境のない存在では無いよ。遊郭と呼ばれる苦界にいるからと言って、他の者も巻き込んでやろうとは思わないよ」
頭と呼ばれた男性が、筋者を隠しきれない従者を『喫茶店』――『茶屋』では無い――に入るのを見届けながら。悲しそうに呟きながら。
「私は全部助けたいんだ。苦界の全てを。神仏だろうが何だろうがすがって、私に敵対している者ですら、苦界にいる以上あの者達も被害者だ。助けたいんだ」
その後にやってきたのは、焦るような感情であった。
「まだ遠い、まだ遠いのに……稗田家に目を付けられるわけにはいかない丁礼田(ていれいだ)さんも爾子田(にしだ)さんも。まだ、まだだと言っている以上」
その男は振り絞るように、そして助けを求めるように。
「後戸(うしろど)の国はまだ遠い……けれども遠ざかってはいないはずなんだ。後戸の国は確かに見えているんだ……!!」
「本日は心地よい日どりに、苦界の者達が水を差してしまい……実に――
さすがに社交辞令が通用するとは思っていない、ましてや謝罪など。稗田家に呼び出されたこの男はそう思いながらも謝罪に近い言葉を口に出していたが。
「忘八(ぼうはち)どもの頭、お前に聞きたいのは厳然たる事実、それだけだ。回りくどい言葉を使うな」
忘八と呼ばれたその男は、慧音からそれ以上の発言を禁じられてしまった。さりとて、下げた頭を再び上げる訳にも行かず。奇妙な格好で微動だに出来なくなってしまった。
実を言うと、何も聞かされていないのだ。何故稗田家に呼び出されたのか、それすら分からないのだ。
「お1人で来られるとは、殊勝ですね」
故に、稗田阿求の落ち着いた声が怖かった。
「従者が付いてきましたが……良くは無い話だと思いまして。近くにある『茶屋』で何か飲んでいなさいと一旦置いて――
「『茶屋』じゃない!『喫茶店』だ!!遊女どもがたむろしているいかがわしい『茶屋』などが遊郭街との間にある門のこちら側にあるはずがないだろう!!」
歴史家でもある上白沢慧音からすれば、『茶屋』と『喫茶店』の違いは。遊郭街と人里の間にある門と同じく、重要で絶対に譲れない一線なのだろう。
しかし稗田阿求が落ち着いている分、上白沢慧音はその限りでは無かった。さすがに者は投げつけられなかったが、次はどうなるか。
しかしこれはこれで、役割分担が出来ているとも言えた。それをやられるこちら側としては、溜まった物ではないが。
やはり忘八など、割に合わない商売だ。
「これですよ」
幸いにも上白沢慧音の爆発から一分と経たぬうちに――それだけ早々に追い出したいという事かもしれないが――阿求がこの男に一冊の小冊子を投げつけた。
「細見(さいけん)ですか。珍しいですね、稗田家にこのような物が」
細見を叩きつけられて……つまりは遊郭で遊び歩くための指南書を見せられて。この忘八どものお頭はようやく状況の不味さを知る事が出来た。
何も知らされてはいなくとも、稗田阿求や上白沢慧音に旦那がいるのは周知の事実。
それは遊郭で遊女たちを商売道具として扱っている忘八達にとっては、知識の有無が死活問題にまで大きくなってしまう。
稗田阿求や上白沢慧音の旦那たち以外の知識も、無論の事である。
ある種の一線の向こう側にいる女性たちの夫を、そこまで行かなくとも恋人たちを把握しておかねば。
間違って遊女をあてがっても見ろ、明日どころか今日の命すら知れぬ有様なのだ。
しかしながらそこまでの綱渡りを強いられながら、世間では遊女を商売道具として扱い、道徳をかなぐり捨てて銭を追いかける忘八として蔑まられる。
遊女たちと遊んでいる男どもにすら、そう思っている者は多い。
おまけに統制が崩れたならば。稗田家に呼び出されて、この有様だ。
全く持って、割に合わない商売である。遊郭宿の経営などと言う稼業は。
故にある種の信仰心を、この忘八どもの頭は持ったのであるが。故に、自らのいる場所を遊郭などとは思わず苦界だと認識を改めているのであるが。
「この細見はどちらで見つかった物でありましょうか?」
しかし苦界を隅々まで助けるのは、今日明日になる物では無い。稗田家にこれ以上目を付けられては、助かる物も助からない。
不味い事になったと内心で頭を抱えながらも、一体何人が後戸に向かえなくなるかを考えつつ冷静さを取り繕っていたが。
「永遠亭です。八意永琳が恋慕を重ねている事は、稗田家からの定期的な助け船でご存じのはずでは?」
永遠亭だと!?忘八どもの頭は思わず叫びたくなったが、そうなってしまえば自分は終わりだ。懸命にこらえたが。
永遠亭にそっぽを向かれてしまえば、遊郭は終わりだ。もう死ぬしかない。あそこ以上の医療機関は存在しない。
ましてや遊女たちは、『濃厚な接触』がある以上。梅毒(ばいどく)に限らず、病の種は多い。
それを何とかしてもらっているのが永遠亭なのに!!
「ええ!ええ、もちろん!あの永遠亭におります書生の事は、私の管理しております楼主(ろうしゅ、遊郭宿の経営者の意味)達に!その情報は、直接手渡しました!!」
「じゃあ何で、永遠亭のあの書生君の部屋で細見などと言う遊郭でしか売っていない物が見つかった!?」
慧音は眼の前に置かれている器の中にある、せんべいやらアラレをむんずと掴み。それを怒号と一緒にぶちまけた。
投げられたものがお菓子であるから、別に痛くも何ともないが。
聡明で理知的な上白沢慧音がそれをやったのが問題なのだ。これが終わっても、この感情は終わらない。
「泣きたい」
○○の妻である稗田阿求と、寺子屋の副担任である彼の妻である上白沢慧音が。かの女性二人が、忘八を苛ませている頃。
○○からちょいちょいと、書生君のいる部屋から呼び出されて行ってみたら。蓬莱山輝夜から、遊郭における不穏な事柄が関わっていると伝えられて。
「泣きたい、慧音の所に帰りたい、知らなかったことにしたい。遊郭街情報誌を持っているだけじゃないか」
彼は柄にも無く、泣き言をひたすらに呟いていた。
「そうも行かないよ……書生君は止める事が出来ても八意永琳は止まらないさ。他の女を抱く可能性がある以上な」
寺子屋の副担任さんはまだうーうー唸って、泣き言を漏らしていたが。○○は状況を深刻に考えてくれていた。
「なら、自らの事と考えようか。悪い友達から遊郭に誘われたら?」
○○はたとえ話をするが、彼はそれを鼻で笑った。
「自殺志願者だとしても、迷惑すぎるぞそいつは。慧音に始末されてしまう。もちろん、俺じゃなくてその悪い友達が」
世間一般の考えとしては、彼の言う通りであろう。しかし○○の考えは違った。
「遊郭の統制は想像以上にきつくて、外部から……まぁ、阿求たちだな。そこからの統制も強いけれども」
「自分たちの命が絡んでいるだけに、遊郭宿を経営している旦那たちの内部統制はもっと強いんだ。それが強すぎてほころんでいるのかもしれない」
「だからって、新規の客に何で!よりにもよって八意永琳が恋慕している男を選んだ!!」
彼は机をガンガンと叩きながら、怒りと焦りと苛立ちをあらわにした。
奇遇にもその姿は、慧音がカッとなってお菓子を忘八どもの頭に投げつけた姿と似ていた。
「分からない……黒幕がいたとして、そいつは冒険心に富んでいるのかもしれない」
そして○○も、慧音よりも感情を抑えている阿求のように。○○もやはり、自省的な姿を見せていた。
「細見を手に入れた場所は、多分人里じゃないと思います」
そして一番静かで、思考を回していたのは。
「東風谷早苗?そうですね、貴女の推理を聞きたいですね」
遠路はるばる首を突っ込んできた東風谷早苗であったが、○○はそんな早苗の推理を聞きたがっていた。
「いくらなんでも人里は危険すぎます……慧音先生と阿求さんのお膝元で?考えるだけでふるえます」
○○は斜め上を見ながら、早苗の言葉にうなずいていた。自らの妻である稗田阿求を思い出したのだろう。
「……あんまり守矢神社としては嫌な話題ですけれども。人里以外で人の出入りの激しい場所となると、正直うちになる」
早苗はため息を出しながら、輝夜に向き直った。
「何か、出勤表と言うか作業の工程表みたいなの有りますか?今日は誰がどこに向かうかみたいな」
「それぐらいの記録ならすぐに分かるはずよ、鈴仙に用意させる」
「それから、細見も見たいですね」早苗の横から、○○が次に言い出した。
しかし○○の動きに、輝夜は良い顔をしなかった。
「稗田家に渡したわ。○○さん、ご自分の立場を考えて。貴方に見せたら、私まで責を負う事になる」
「そうは言っても、その細見がいつ発行されたものかが分かれば……あの書生君が最低でもいつからそう言う話題に触れているかが分かる」
○○は食い下がらなかったが。
「私が調べますよ」
東風谷早苗がその分まで引き取り、慧音の夫である寺子屋の副担任から肩を掴まれた。
「分かった……じゃあ、捜査の真似事で書生君を安心させてくるよ」
仕方なく○○は、この場を引き取った。
続く
感想
最終更新:2019年02月25日 05:51