名刺を阿求の手によって、しかも目の前で握りつぶされた遊郭の最大派閥の長である彼の事が、○○は若干哀れに思ったが。
「あ、そうだ」
○○は彼の事を哀れに思ったからこそ、話題を一気に変える事に決めた。阿求がまたしなだれかかっているので動けない事もあるけれども。
忘八達のお頭の事が哀れだと思ったからこそ、○○は自分が彼から離れるべきだと考えた。
阿求は自分を離してはくれないだろうし、慧音先生の顔つきも獰猛で普段の理知的な姿が消え失せている。
となれば……彼には若干申し訳ないが。彼をいない物として扱うのが得策であろう。

「早苗さん、細見と春画を手に入れてきたのですが……」
「細見にも春画にも数字の書き込みがありましたよ。1~5までですよ。○○さんが手に入れてきたのは何番ですか?」
「さすがだ、2番ですよ。でも5という事は、5人いるという事なのかな……手に入れた似顔絵も2人だから」
「ええ、まだ三『枚』もあるという事ですか。厄介ですね」
最悪は、○○の機転で去りつつあるけれども。しかしそう良いともいえないのが苦しくて仕方がない。
阿求は連中の事を明らかに、人扱いしていなかった。
「○○、これいりますか?私は――忌々しいですけれども――すぐに覚えれるのでもう必要ありませんが」
多分触るのも嫌なのだろう、似顔絵をつまみながらヒラヒラとさせていた。
「一応、河童の複写機(コピー機)で何枚か予備は作っておいたけれども」
「ならよかった」
阿求はそれを聞いて嬉しそうにしながら、忘八達のお頭に対してピンッと言う擬音が似合いそうな仕草で、持っていた二枚の似顔絵を投げ渡した。
「はは、は……」○○はもう笑うしかなく。
「あぁ、○○さん。コピーしたのもらえますか?まだいるならしょっ引くんで」早苗はそそくさと帰り支度を始めたが。
「東風谷様」
やはりこの忘八達の頭。さすがは最大派閥の長になれるだけの事はある、もういくらか以上に荒い行動をとる事に対する諦めと言うか、覚悟のような物を携えていた。
「もし捕らえることに成功しましたのならば……亡骸でもよろしいので私に引き取らせていただけませんでしょうか」
早苗は少し以上に嫌な発想をしてしまった。
もしかしたら生け捕りは、却ってこの似顔絵の主たちにとって残酷な結果をもたらすのではないかと。
であるならば……さっくりと閻魔様に引き渡してしまった方が、むしろ苦しまずに済ませてあげる事が出来るのではないか。
結局早苗は、忘八達のお頭からの。『亡骸でも構わないから渡してほしい』と言う願いに対して、はいともいいえとも言えなかったが。
彼らの命に対する、終結の宣告はもはや下されたのと同じであるので。早苗がここで返事をしようがするまいが、変わらないと言うのは実に悲しかった。

東風谷早苗が稗田邸を後にしてすぐ、忘八達のお頭は。
「失礼いたします。稗田様、○○様、上白沢様」恭しく挨拶を残して行った。
「ええ、後三『枚』分はお願いしますね」
「…………」
阿求は相変わらず似顔絵の連中の事を人間扱いせず、○○も早苗が感じたのと同じく、忘八達のお頭に対しては同情的な視線で見やり続けていたが。
「○○」
多分それが嫌なのだろう、阿求は○○の顎に手をやって、視線を阿求の側に向けさせたと思えば。
そのまま流れるような動きで、阿求は○○に口づけを与えた。
○○としても断る理由は無いし、そもそも断る事による不利益が想像できなかった。
「……私の旦那はまだ竹林か?」
意外な事に慧音はその間中ずっといたが、言葉の内容を聞けば何故立ち去らなかったのかは何となくわかった。
自分の旦那の所に行きたいのだ、確実に。行き違いの可能性を無くしたかったのだ。
「ええ……俺の飼っている犬を押し付けて、守矢まで行ったから。その、会った時に囮にしてすまないとだけ言っといてください」
「分かった……そっちはそっちで、まぁやり方があるからな。私は私のやり方を通させてもらう」
忘八達のお頭は、もう既にいなくなっていた。
それがあるからなのか、慧音の表情や声色が一気に柔らかくなった。
「ごゆっくり」
若干の下世話な洒落も残すし、また阿求からしてもそれに笑えるだけの余裕があった。
○○はその変わり身の早さに、純粋に驚かされてしまった。


願わくば残りの三人が、そこまで苦しまないようにと考えるのみであった。
東風谷早苗が担当したあの2人は、多分そこまで酷くならないはずだ。
結果的に命を落とすとしても……だ。



目の前で5人もの命が沈もうとしているのに、予測できるのに何もできない事に。少しばかり焦燥感に塗れていたが。
「○○は、また竹林に戻るのでしょう?」
「ああ、竹林と言うか永遠亭に戻る。慧音先生の旦那に謝るのは、もうちょい後になりそうだ」
極論を言えば、自分とは違う世界の話なのだ。少しだけ諦める事にした。


「じゃあ、ね。○○」
阿求の表情が、急に赤らんだ物に変わった。しかしそれは自然な成り行きであろう。
論外とも言える忘八達のお頭はいなくなり、早苗も厄介ごとを片付けに行って、慧音も自分の旦那に会いに行ったから。
つまり今の阿求は、最愛の夫である○○と二人っきりなのだ。仮に女中が何か、申し付ける事はありませんかと聞きに近くに来たとしても。
稗田家程の場所で働ける女中が、その程度の場面に慌てるはずが無い。ただただ、黙ってこの場は阿求とその旦那の○○の為に引き下がるだけである。

「○○の自転車の後ろに乗せてくれないかしら?」
「そのくらい、いくらでもやれるさ」
と、言葉の上では軽く○○は述べるが。自転車の後ろに乗せてくれとお願いするときの阿求の表情は。
○○にだけ見せるであろうその赤らんだ表情は、本当に可愛くて仕方が無かった。
こういう時、お願いするときの表情はもう何度見せられたか分からない。
その上お願いの内容は、はっきり言ってそこまで大それたことでは無い。
しかしながら――あり得ない事なのに――阿求はお願いをするとき、本当に可愛い表情に幾ばくかの。
もしも断られたらどうしようと言う、殊勝で悲壮な雰囲気を見せてくれるのだ。
あの稗田家の当主である、稗田阿求がである!運命づけられた仕事以外では、何だって好きに出来るはずなのに。
たった一人の男、○○に対して、どうか拒否されませんようにと言う美しさすら感じる悲しげな感情を持っているのだ。
それがあるから、○○は、究極のわがままがいずれ待っていると分かっていても。
阿求の事を好きで、むしろ時を経るごとに更に好きになって行っていた。
そして阿求の方も、それは同じであった。




阿求は○○と語らいあい。
慧音は愛しの旦那の下へ駆けている頃。
恐らくは東風谷早苗が、今現在では一番の貧乏くじを引いていたであろう。諦めじみた覚悟を持って、涙1つ流さない忘八達のお頭よりもである。

「と言う次第です、諏訪子様」
早苗は簡潔に、自らの主である神奈子と諏訪子に説明をした。
無論、このまま早苗が『じゃあひっ捕らえてきます』と言いながらふもとに降りても、ちゃんと引っ張って来れるであろう。
ただその後が厄介である。どう考えても、無駄に騒ぎが大きくなる。そう言う事を早苗は全く望んでいなかった。
「そう、か……あの遊郭街はいつか何かの火種になると思っていたが。内部抗争からの飛び火とは、一番厄介だねぇ」
神奈子は盛大な溜息を洩らしながら、供物として与えられた酒瓶の中身を、大きな盃にとくりとくりと注いでいたが。
諏訪子は黙ったままであった。押し黙ったままで、早苗から渡された二枚の似顔絵をじっと見ていた。
「それ、○○さんが用意してくれたんです」
「稗田阿求の夫の?」
早苗が声をかけるまで、本当にピクリとも声を出さなかったのである。
「ええ、そうです。○○さんが、仲よくしている似顔絵屋さんに手伝ってもらって。細見だとか春画だとかの、まぁ、いかがわしい奴を裏で売ってる奴を二人見つけてくれたんです」
「後で稗田家に内々の礼状と品物を用意しないとね、似顔絵屋も少しは良い目見れるようにしとこう……所でこいつらどうなるかな?」
諏訪子が似顔絵の主の今後を聞いた時、早苗は言葉を詰まらせた。
「意地悪するな、諏訪子。分かっているだろう?あの遊郭街の、今のボスが。想像以上に何かに対する忠誠心で狂っている事を」
神奈子が助け船を出してくれたが、それよりも気になる事を彼女が言っていた?
「狂っている、ですか?あの忘八達のお頭が?」
「ああ、狂っている。私や諏訪子は長く現世を見ているからね。嫌でも分かるんだ、何かを求め『過ぎている』よ、奴は」
「どちらにせよ、あの忘八達のお頭さん。今回の事で涙1つ流さずに稗田家への筋を通してくるよ」
「かといってこの業界……精進落としと言う概念があるからなぁ。聖と俗は、案外相容れる物だからなぁ」
「だからと言って、こいつらを放っておく理由にはならないよ。うちの信者が遊郭に通っていても構わないけれども、うちを遊郭の出先機関にはさせないよ」
そう言いながら諏訪子は、二枚の似顔絵を懐にしまいながら立ち上がった。
「おう、お前は男も女もいけるくせによ!」
若干悪酔いしている神奈子が、諏訪子に野次を飛ばすが。早苗は全く、笑う事も諌める事も出来なかった。
ましてや諏訪子を止める事など。
「せめて、手早く終わらせてください。哀れぐらいには思っていますから」
「大丈夫、初めからそのつもり」
そのまま諏訪子は神社から、山を下って行ったが。ほんの10分程度で帰ってきた。
両手に一つずつ、動かなくなった二人の人間を携えながら。






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最終更新:2019年04月11日 17:35