依頼人の青年は、見ていられないほどに泣いていた。
「なんで、なんで!!屋根を渡ってまで私が見えていたのに、目線が合ったのに!無視して向こうに……」
慧音の旦那は、彼を何とか落ち着ける為に背中をなででいたりしたが。
妻である慧音に目配せはかかさなかった。
「分かっている、稗田家には私が報告する」
そう、慧音が言ったから。
「そうだね、慧音の方が稗田家の覚えが良いからさ……」
これは事実だ。けれども、旦那自身を下げる表現に。妻である慧音は嫌な顔をしたが。
「頭領!頭領がぁ!私を見たのに!!」
依頼人の青年がおかしくなりそうな程に泣いているから。慧音は、依頼人の方に向き合って。
依頼人が信じる頭領のために、稗田家に火急を知らせにいった。
「ひとまず落ち着いて……と言っても難しいかもしれませんが、それでも落ち着こうとすらしないのは悪い手段ですよ」
そう言いながら旦那はやかんの水を暖めて、依頼人の前に湯飲みと、お茶菓子も添えて。一席を作ってくれた。
依頼人の方も、これ以上ああだのこうだので騒いでいては、落ち着くものも落ち着かなくなるとは理性で理解してくれたから。黙ってやかんの注ぎ口から立ち上る白い煙を泣きそうな顔で見ていた。
さすがにこれ以上は、叫んだり喚いたりはしなかったが。
不意に両手で顔を覆ったり、頭をぐしゃぐしゃとかきむしった祭には、慌てて止めたが。爪の先に髪の毛が詰まっていた。
幸い、皮膚までは貫かなかったようで。赤いものは見えていなかったので安堵した。
古い小説なら、気付けには強い酒と相場が決まっているが。今の依頼人に酒なんて、危険きわまりない。
なので、依頼人の前に置いた皿に。かりん糖をざらざらと入れて、甘味の量を増やして。
急須(きゅうす)に入れる茶葉の量も、普段の倍以上に増やしてやった。
依頼人は、茶葉が多すぎて渋いお茶の口直しにかりん糖を放り込む。稗田邸に急を知らせにいった慧音を待つこの旦那も、依頼人が落ち着くまでは黙っていた。
依頼人も、自分が大騒ぎから元に戻るのを待ってくれていると分かってくれる程度には、この依頼人も理知的なので。
一通りお茶を飲んで、甘味も体に入れたあと。瞑想のような形を作って、自分自身の感情を取り戻そうと努めてくれていた。
なのでこの旦那も、黙って待ち続ける事を苦だとは思わなかった。
かりん糖をすこしずつ摘まみながら、依頼人の回復を待っていた。
「お陰さまで落ち着きました、ありがとうございます」
濃いを通り越して渋いお茶を飲み干した依頼人は、辛抱強く待ってくれた慧音の旦那に対して、丁寧に頭を下げて。待ってくれたことのお礼と、待たせたことは勿論、夜中に騒々しくやって来たことの謝罪をして。
「上白沢先生はまだのようなので、先にお話をしてもよろしいでしょうか」
「あぁ、メモするよ」
待たせたことを気にして、話をすぐにでも始めたがっていた。旦那も依頼人をこれ以上苛ませないように、筆記具を取り出した。
「とは言っても、見つけて声をかけたと思ったら。屋根に上って、ものすごい早さで闇に消えてしまって」
「構いませんから、見聞きしたことは全て教えてください」
旦那から、不明瞭でも構わないからと優しく促されて、依頼人の青年は申し訳なさそうに話始めた。
「○○さんから、頭領から目を離すなと言われて。ましてや、雨どいを伝って深夜に外に出ているらしい何てことが分かって、眠れるはずがありません」
「遊郭通いが好きなあの派手な連中は帰ってきてませんが、私と頭領はいつもの時間におやすみとお互いに挨拶し合いましたが。私は眠らずに、本すら読む気になれずに黙って布団の上であぐらをかいて、取り止めのないことを考え続けていました。特に、頭領が何の目的があるのかとか」
信じていた頭領から、完全に裏切られたような格好なのだから。依頼人の青年は喋るごとに憔悴していくが。
この謎を解かないままでいることの方がこの先の人生に影響を与えると考えて。
うつむき加減の顔を、強引に前へ向けたが。
きついことを言うならば、もう既に影響を受けてしまっているのではないか。
「続けますね。考え事は、ガタガタと言うような音で中断されました。陶器が触れあうような音……ええ、東風谷早苗さんが見せてくれた、割れた瓦は、やはり雨どいまで屋根を移動する際に落ちたものなんでしょうね」
依頼人の青年は合間に「なんのために……」と独り言を呟いた。まったくその通りである。
「私はすぐに、あの音は頭領が屋根づたいにまた外に出る音だとすぐに断じて、外に飛び出しました。雨どいを降りようとする頭領の目は輝いていましたよ。私を見るまでは」
「私は頭領に全部、歯に衣着せずに聞き出そうとしました。最近、日中うつろなのは、深夜に用をこなしているせいかと。何かの討伐なら私も連れていってくれと」
ここで依頼人の青年は少しまごついた。理解が追い付かないと言うか、今ある情報だけでは何も分からないのだろう。
「聞いた通りを、稗田夫妻が意味の有無を判断するでしょうから」
「……はい。頭領はこう言いました『そんな物騒な話じゃない』と。何だか泣きそうな声でした」
「それから頭領は、あまどいの下で待ちかまえている私を避けるように……跳び跳ねるような形で、屋根に飛び乗って。屋根づたいに隣家の屋根に渡って。そうやって、夜の闇に消えました」
「その……お気を悪くするような質問かもしれませんが。頭領さんが遊郭街に向かった可能性は」
「ありません」
依頼人はきっぱりと否定した。
「夜の闇に消えましたが、まったく追いかけられなかった訳じゃないんです。あれは明らかに、外に向かっていました」
「……そうですか」
慧音の旦那は、沈痛な表情を浮かべた。
はっきり言って、遊郭絡みの方が。慧音や稗田阿求は仕事を放り出す勢いで嫌がるだろうが、分かりやすくて困り事も少なくてすむ。
けれども人里の外に関わることとなると……厄介な話だ。
「頭領はもう戻らないかもしれない……」
慧音の旦那は思わず口を滑らせたが、それは失言ではなかった。
「ええ……理解しています」
依頼人の青年も、泣きそうな顔であるけれども、頷いて旦那の意見を肯定した。
旦那も今のは軽率な言葉だと感じ、思わず罪悪感を抱いてしまったが。もう遅い。
依頼人にお茶を、先の渋すぎる物とは違いちゃんと入れ直した物を再び与えて、お茶菓子のお代わりも勧めたが。
深夜だからと言うことで、そちらは断られた。
依頼人も慧音の旦那も、その後は黙ったきりであった。
まさか依頼人だって、世間話をするような気分でもないし。
慧音の旦那も、聞きたいことを書き留めたあとは、いったい何を聞けば良いのかまるで分からなかった。
こうなってしまえば二人とも、稗田邸に急報を知らせにいった慧音を、早く帰ってこないかと、今か今かと外の様子を何度も気にしながら待つのみであった。
「すまない、思ったより時間がかかった」
そして慧音が戻ってきたときには、二人とも明らかに安堵の息を漏らしたが。慧音は若干申し訳なさそうで、その旦那も何かにはすぐに気づいた。
○○しかいないのである。
「いや、すまない」
上白沢夫妻が何かを話し出す前に、○○は理由を話し出した。
「夜の風は、ましてやこんなに深い夜の風は寒いから。阿求の体には寒さが毒だから、やっぱり阿求は館に留めることにしたよ」
○○からの話は、まぁ、理解することは可能であるが。○○に対してベタぼれと言う表現が似合う阿求にしては珍しいというのが、上白沢夫妻の感想であったが。
依頼人の青年は、神の使いどころか神が来てくれたといわんばかりに喜んでいたので。上白沢夫妻としても、横槍を入れる事は出来ずに。
「慧音、それに○○、依頼人から状況を聞き取ったよ」
そう言いながら旦那は、○○にメモ帳を渡してしまったが。はたと気付いた。
小さなメモ帳を、顔や額を付き合わせながら見る○○と慧音を想像したくなかった。
「何を聞き取ったんだい?」
しかし慧音はすぐに気付いて、自らの旦那の口から、物を聞き取りたがるその降るまいに。慧音の旦那は、依頼人の前だから出来るだけ抑えた笑みで、聞き取ったことを話始めた。
その後、○○はメモ帳を全て読んで。
慧音は自らの旦那の口から、全てを知った。
間に置かれた依頼人は、まごついていたが。神からの信託を待つような面持ちであった。
「頭領さんと調査に出掛けられたとき、倒木なんじゃない、天気から雷でもない音をお聞きしたのですよね?」
ふいに○○が依頼人に新手な質問を投げ掛けた。
「え、えぇ。湖のふもとです」
「そのふもと、とは。人里側ですか?それとも紅魔館側?」
「紅魔館の方に近いですね」
「逃げろと言ったのは頭領さん?」
「はい」
「逃げる際に、頭領さんと貴方。どちらが前を走っていましたか?」
「私です、頭領は後ろを警戒していたのか。思ったより遅かったです」
「……つまり頭領さんは、紅魔館側を見ながらこっちに逃げてきたと?」
「そうなりますね」
それを聞いたとき、○○は首を左右にふりながら。
「悪い予感があたった。魅了された、となると邪魔するのは悪いな」
○○はメモ帳をパタンとたたみ慧音の旦那に返しながら。
「邪魔するのはこちらの危険も高い、頭領さんの部屋で待って、意趣返しをしましょう。それぐらいの権利はある」
○○の話は、若干よく見えなかったが。
誰かへの説明をするためなのか、自分のメモ帳に色々と書き込んでいたが、それが済む前に、東風谷早苗がこの場にやって来た。
「まさか今日の今日で、あの人形(ひとがた)の折り紙が、神社にやって来るとは思いませんでしたよ」
早苗はそう言うけれども、どこか楽しげなのは若干気になったし。
「東風谷さん、これが俺の推理だ」
そう言って東風谷早苗に、先程まで懸命に書き物をしていたメモ帳を渡す○○。
○○の方に腹が立った。
何かに対して理解が深いのに、喋らない○○の方に腹が立ったのである。
「○○」
若干の非難を込めた、強い口調で○○に詰め寄ったら。
「頭領さんは、恐らくフランドール・スカーレットに会いに行ったんだ」
すぐに○○は答えを明示してくれたが、そこに至る過程は教えてくれなかった。
「あぁ…………まぁ、そんなところでしょうね。ほとんど説明できる」
東風谷早苗は、○○と同じく外の名探偵に対する好事家だからなのか。思考の道すがらが似通っているらしく。
○○から渡されたメモ帳の内容を、ほとんど全部肯定した。
慧音の旦那は、何かを隠されているようで腹の底が湯だって来ていたが。
「多分頭領さんは、依頼人の方に対する罪悪感もあるから。帰ってくるでしょう」
東風谷早苗が場を引き取って。
「俺は阿求と、朝イチで頭領さんの居室へ向かいます。朝までは何も動かないでしょう、紅魔館に乗り込むのも悪い策だ」
○○は東風谷早苗に、メモ帳の書いた部分を全部渡して。上白沢夫妻の居宅から立ち去ってしまった。
旦那は○○を追いかけて、聞き出してやろうかとも思ったが。メモ帳の書いた部分を残したと言うことは、隠す気はないが。
それよりも阿求の所に早く帰りたいのだと思ってやることにした。
「やれやれだ!!」
○○の阿求を最優先する態度に、苛立ちを少しだけ噴出させながら。旦那は東風谷早苗を見た。
正直、話してくれないなら読ませろとぐらいは言いたかった。
「あー……詳細は本当に、頭領さんの口から聞くしかありませんが。フランドール・スカーレットは、黙っていれば好奇心旺盛な少女ですから……魅了されたんだと思いますよ」
「レミリア・スカーレットの可能性は……性格上ちょっと考えにくいかな。十六夜咲夜がその役と言えば、そうなるから」
早苗はぶつぶつと、自分の推理を整理していたが。ハッと目の前に人がいることを思い出して続けた。
「それから、頭領さんのゴミ箱から見つかった。恐れるな、魅惑されるな、相手を知るべしの標題も……それを破り捨てたと言うことは。自分でも分かってたのでしょうね、信念を違えてしまったことの自覚を、はっきりと」
「そもそも……頭領さんの部屋は、綺麗すぎたんです。生活感が無さすぎる、個人の持ち物もほとんどない。というよりは、処分したんでしょうね……近いうちに拠点を移すから」
「それに、依頼人さんが頭領さんに聞いた。討伐なら連れていってくれの言葉に過剰反応したのも、相手の側に立っちゃった証明のひとつかもしれませんね」
依頼人の青年は、反論がひとつも出来ずに項垂れるどころか。
へたり混むほどに、心痛を覚えてしまったようだ。
彼が正気に戻るには、まだしばらくかかりそうなのは、一目見ればすぐにわかる事であった。
なので、○○の書いたメモ書きを読ませて欲しいなと東風谷早苗に言おうと、目配せしたが。
「これでも結構、柔らかく表現したのですよ……」
どうにも○○は、東風谷早苗にメモ書きを渡したくせに。相手に読まれることを想定していなかったようだ。
今のささくれだった心でそれを読んだら、我慢できなくなるやも知れぬから。
そう気を回した東風谷早苗は、必死になって翻訳してくれたらしい。
「あぁ、○○らしい。言い回しが下手なんだ」
旦那は妙に納得してしまったのがしゃくで悪態を着いたが。
妻の慧音は少しだけ笑って。
「稗田家らしい……」と、納得していた。
しかし悪態を着いたまま、動かないでいるわけにもいかない。
旦那は、依頼人の方に向き直って。
「ひとまずは、頭領さんの部屋で待っていましょう。向こうがそちらを確かに確認したのなら、罪悪感があれば、戻ってきてくれるでしょう」
「……そうですね。頭領の部屋で待つのは、○○さんの言う通りで、最高の意趣返しだ」
そうは依頼人が言うけれども。悪い顔はまったくせずに、沈痛な表情を浮かべるのみであった。
楽しもうとも思えないのであろう、こんな形になってしまったが、それでもこの依頼人は頭領への恩が裏切られているかもと言う疑念よりも、はるかに上に、相手への心配が来ているのである。
「……私も日の出すぐぐらいに、あちらへ伺いますね」
若干の居心地の悪さを感じた東風谷早苗は、何より上白沢夫妻と一晩共にするのも心労の種だから。
日の出すぐになったら、合流することを約束して一度守矢神社に帰ろうとしたし。
「そうですね、守矢の二柱様にも悪い」
慧音の旦那も、明らかに安堵していた。この旦那も、稗田阿求のように○○のような夫がいて、しかもその仲が恐ろしく上手く行っているような人物が相手ならば。
多少長めの世間話でも気にすることはないのだが。
東風谷早苗のように、美しい上に独り身の女性と話をする際には、常におっかなびっくりなのである。
寺子屋の生徒達の親御さんならば、向こうから遠慮してくれるのでやりやすいが。
……東風谷早苗には悪いが、彼女は明らかに一線の向こう側に位置する存在なのだ。
となれば、一線の向こう側の女性を娶った自分は、東風谷早苗の事は否が応でも絶対に深入りは出来ない。
近づいてはならない一線が存在してしまうのである。
「それじゃ、日が上ったらすぐに向かいますので」
しかし東風谷早苗は、幸いにもすぐに飛び立ってくれた。
多分、彼女だって自分の立場を。そして一線の存在を否が応でも理解しているのだろう。
だから、すぐに飛び立ってくれたのだろう。
若干どころではなく淡白な関係だけれども。
それの方が、お互いにとって最良の関係だから。世知辛い物である。
東風谷早苗が一旦戻ったあと、そして依頼人の青年が明らかにとぼとぼと歩くものだから。
誰も喋る気にはなれず、ましてやそろそろ日付が変わりそうだから。往来に人通りは少なくて。
頭領への居宅には、人力車を使うよりもずっと早くたどり着いた。
「どうぞ、私は頭領の部屋で寝ずに待っています」
依頼人の青年が、自分の部屋を一晩上白沢夫妻に貸し渡して。
依頼人は、頭領が夜の密通をする際に使っている道。
丈夫な雨どいを登って、施錠されていない北側の窓から頭領の部屋に入っていった。
これもまた、頭領に対する意趣返しなのだろう。
「どうしよう」
旦那が、貸し渡された依頼人の部屋でぼやく。
「まぁ、夜明けまでは寝ようか?」
その妻である慧音が、種々の事を考えすぎて堂々巡りの旦那を諌めながら。寝床に案内した。
「……あぁ」
そう、旦那は答えるしかなかった。
依頼人の青年のすすり泣く声が聞こえてきそうだし、依頼人の青年が唾棄している派手な連中。
頭領は優しいから、そんなのにも仕事を与えて落ち着けようとしていても派手な。
遊郭と通じている、あの連中は案の定帰ってきていなかった。
もうこうなってしまうと、日の出と共に帰ってきたのならば早い方であろう。
「はぁ……頭領さんの帰りと派手な連中の帰り。どっちが早いかで、賭けが出来そうだな」
若干の呆れや諦めを内包しながら、旦那は来客用の布団にくるまった。
「まぁ精々、フランドール・スカーレットとの馴れ初めを期待してやる」
そのままぶつぶつと言いながらだったが。
旦那はすぐに寝息をたてた。気疲れが勝ったのであろう。
しかし慧音は、どうにも幻想郷そのものが転換を迎えているような気がして。心配でならなかった。
先の狂言誘拐事件は遊郭のほころびが主たる要因であるし。
頭領が落ち着けようとしている派手な連中にも、遊郭がツバをつけて回っている空気はある。
今の遊郭街には明らかに、最大派閥に対抗しようとする勢力が。事業の拡大を狙っている存在が確かにある。
その上そいつらは、あの長を。忘八達のお頭に怯えているのか、目立った。何もしないはずはない。あの男が、そんな流暢で穏やかな男とは思えない。
最大派閥とは言え、その長が警戒感を解いていないのは明らかだ。
いや、と言うよりは。そうでなければ遊郭の最大派閥の長ほどの存在には、収まり続けることなど不可能だ。
しかしそう軽々しくここまで出張るだろうか?
あの男も苛烈な部分は間違いなくある。こちらへの敵意はなくとも、とばっちりは注意したい。
……考えているうちに慧音は不安になってきた。明日でなくとも近いうちに、阿求に相談するべきかも知れない。
そう、少しばかり穏やかならざる事を考えながらだが。
いざとなれば腕力で、どうにか。そう考えた。
粗っぽくてキレイじゃないとは思いつつも。遊郭相手ならば、別に……
そう考えているうちに、慧音も寝入った。
「お帰りなさい!!」
上白沢夫妻の味わっていたまどろみは、依頼人の青年が乱暴に叫ぶ声で断たれてしまった。
「帰ってきたようだな」
慧音はまだ、ため息混じりとは言え苦笑しながら起き上がれたが。
「……」
旦那の方は、若干の俺は巻き込まれてるだけなんじゃと言う不満が抜けなくて。
ガリガリと頭をかきむしりながら起き上がった。
布団を畳む手も、若干の雑さがいなめない物であった。
「どこに行ってたんですか!?」
その雑で、今回の件にどこか遠巻きな旦那の気分も。依頼人の極度に興奮した声には、意識を傾けざるを得なくなった。
「放っておけば、殴りかかってもおかしくないな……」
片付けはそこそこで、旦那の懸念に慧音も呼応して。
上白沢夫妻は、頭領の部屋に移動した。
さすがにこの夫妻が入ってきたら。
「あぁ……申し訳ありません、騒いでしまって。でも、派手な連中は遊郭からまだ帰ってこないんですよ」
依頼人も少しは周りを見渡せるようになったが。
頭領がおかしくなり、あまり質のよろしくない連中は、いよいよ相手をすることすら耐えれなくなりつつあり。
出納係りとして、縁の下でこの集団を支えていると言う自負のあるはずの依頼人は、どうとでもなれと言わんばかりに、演技の強い身振りで振る舞っていた。
頭領の方は、手に袋を持っていて。それを握りしめながらも、目線は依頼人の方にはやることが出来なかった。
「紅魔館だ」
けれども、黙ったままが不義理くらいは分かっていた。
けれどもその、答えてくれる内容は、よろしくなかった。
遊郭街とどっちが厄介か、わからないぐらいであった。
依頼人の青年の顔が一際怖くなり、目元には涙もあった。
「うん……まぁ、そうだよな。責任はとる、身辺整理の付け方はもうすでに、一筆書いているから。迷惑はかけない」
頭領も罪悪感はあるようで、手に持っている袋をいじりながら。目元を伏せながら、怒りを隠さない依頼人の青年に向かって。弱々しく言葉を繋いでいたが。
「そんなものより、猟やらで連れ回されてた方が平和でよかった。連中には手切れ金を渡して追い出しましょうよ。心労が祟ったのですよね?」
依頼人の青年は、責任をとるよりも回復を願っていたから。
派手な上に質の良くない連中を追い出してやり直そうと、真正面から提案してきた。
「心労ね……まぁ、遊郭街の忘八頭に取り入ったと思い込んでいる連中には、もう、呆れたと言う感想しかないよ。実際は逆なのに」
ここで頭領が、言葉の上だけでも依頼人の青年に同調したら。
きっと嬉々として、出納帳を繰って手切れ金を捻出したであろう。
けれども、そうは行かなかった。
それは依頼人にとってだけではなく、上白沢夫妻。
特に妻の慧音にとって、厄介な話をこの頭領は見聞きしているかも知れなかった。
「…………しかしだ。そうも行かんのだよ、昼までに戻ると、フランちゃんと約束をしてしまった」
依頼人にとっては『これが』最悪の一言である。
上白沢夫妻にとっては、忘八達のお頭の話題が出た、さっきからが最悪であるから。
慧音によって肩に置かれた手の握りしめる力を。
遊郭の事柄ではなくて、依頼人が血気に逸らないようにと言う心遣いだと勘違いしていた。
でも実際は、ごく個人的な憤慨である。
旦那は、嫌になったので意識を目の前の問題に向けた。
○○は頭領がフランドール・スカーレットと通じているのではと考えていたが。
○○の推理よりも向こう側に、頭領は到達していたようである。
実際、頭領は
フランドールの事をフランちゃんと言って慕っている。
慧音が依頼人の青年の肩を掴まなければ、依頼人は頭領をきっと殴り付けていたであろう。
慧音に止められたから、無理におとなしくしている依頼人はそのせいで青筋を余計に立てながら。
息遣いもどこかおかしくて、喘ぐような唸るような。そんな声であった。
「○○の推理よりも進んでいたのは、驚きだな」
そんな空気に、この旦那が耐えられなくなって言葉を出してしまった。
出来れば観客に徹したかったのだが、だったらそもそもの昨日から。こちらには赴かなければ良かったのだ。
結局何を言おうが、自分は演者の一人として認識されているのかもと思うしかなかった。
「遅いか早いかの違いでしかない。どうせ行き着く先が同じなら、この場合は早い方が良いと思っただけだ」
事実頭領も、旦那の質問に答えて『くれてしまった』
そして頭領は旦那の質問に、答えてくれやがりながら。
帰ってきたときから弄っていた袋の中から。
キレイで、透き通っていて、キラキラと光っている。
キャンディのようにも見えるが、むしろ宝石のキレイさを持つ欠片を。
そいつを口の中に迷うことなく放り込み、大事そうに口の中で転がして。
そして飲み込んだ。
慧音の顔付きが、諦めのそれに変わったのを。
旦那は見逃さなかった。
やはりあれは、ただのキャンディのはずがないのだ。
感想
- さあ、盛り上がってきました。 -- 名無しさん (2019-05-14 20:40:10)
最終更新:2019年05月14日 20:40