切り裂くモノは
「え…、なんと仰いましたか、旦那様。」
○○に仕えていた妖夢が問いかける。間違っていて欲しいという僅かな期待を込めて。
「実は、マヨイガの世話になろうかと思うんだ。」
「ど、どうしてですか、旦那様は奥様の名代として、西行寺家を守って頂かないといけません。」
「もういいだろう。
幽々子が成仏して居なくなってから、もう何年も経った。」
「ですが西行桜はまだ残っています。桜の下に奥様が眠っておられる限り、
いつかまたここに戻ってこられる筈です。」
思いもよらぬ事を聞き、懸命に○○を翻意させようとする妖夢。
純真に迫る妖夢に堪えきれないのか、○○は顔を背けた。
「…元に戻れる。」
「え?」
「マヨイガに行けば、紫が俺を元に戻してくれるんだ。」
「元に…?」
「ああそうだ。幽霊から元の人間に戻れるんだよ。」
「そ、そんなこと…。いくら紫様でも無理です。たとえ肉体を得ることが出来ても、
人間に戻れる筈なんてありません!人間の形をした妖怪になってしまうだけです!」
「それでもだ!それでも俺は人間に戻りたいんだ!幽霊なんて曖昧な感覚じゃなくって、
自分の体が欲しいんだよ!紫ならそれが出来るんだ、境界を操る紫なら!」
激しく言い合う二人。未だかつて此処まで妖夢が声を荒げることはない事であった。
ふと、妖夢が何かに気が付いたように言った。
「旦那様…随分、紫様と親しい様ですね。まさか…奥様を裏切っていらっしゃるのですか?」
「幽々子はもう死んだ…いや、死んだというのは違うのかも知れないが、
兎に角もう冥界にも居なくなったんだ。いつまでも幽々子に縛られることは無いだろう。」
「そうですか…裏切っておられたのですね……。それ程までにお困りでしたとは申し訳ございません。
私の落ち度でございました。これからは其方の方は私めにお命じ下さい。
半分は人間ですがもう半分は幽霊ですので、奥様とまではゆきませぬが、幽霊同士の方が具合が良いでしょう。」
「そんな話などしていない!」
「旦那様が奥様を裏切る由縁など、最早それしか残っておりません。従者の私であっても奥様が戻られた暁には、
大層お怒りになられるでしょうが、私が死んで詫びますので御心配なく。
旦那様が余所の者に浮気されるよりかは、雲泥の差でございますから。」
頑なに幽々子への忠誠を持ち続ける妖夢。その目は冷たく刃のように鋭かった。
「…兎に角、俺はここを出る。そう決めたんだ。」
狂気にも似た感情に当てられた○○は、無理矢理に会話を打ち切ることしか出来なかった。
○○が白玉楼を出た後も妖夢は屋敷に留まり続けていた。
いつ幽々子が西行桜に戻って来ても良いように、庭の桜については毎日世話をしていた。
いつものように中庭に降り桜の木の元に来る妖夢。
昨日までは立派に咲いていた西行桜の、全ての花びらが散っていた。
「え…。」
手に持った箒がカラリと音をたて倒れた。冥界の桜は地上の桜とは違い、一年中花が咲いている。
盛者必衰の理を示す例えにも使われる桜吹雪であるが、それ故に死者の王国では桜は常に咲いていた。
亡くなった者を慰めるかの如く。西行寺幽々子が桜の根元に眠っている西行桜もそれは同じであった。
風に揺られてふわり、フワリと舞う花びらを眺めながら幽々子に酌を注いで貰うのは、
以前○○がとても好いていたことだったのにそれが今、花は全て散り果てて木は枯れていた。
-もう、西行桜は元には戻らない-そのことが妖夢の目の前に
残酷な形で突きつけられていた。
「あ、あ…。」
足が縺れて転びそうになりながらも、桜の元に抱きつくようにして辿り着く妖夢。
花を咲かせていた頃に感じた桜の生気は消え失せ、ただ冥界の冷たい風によって
氷のように冷やされた感覚だけがそこにあった。
「幽々子様…ゆゆこさま…ゆ、ゆこ、さま…」
乾いた地面に真珠の粒が落ちた。
どれ位の時間が経ったのだろうか、固まっていた妖夢が体を起こした。
ゆらりと幽鬼のように屋敷へ向かっていく。目に朱が走り足取りはフラフラと覚束ない。
荒い息を吐く口を右手が覆い、左手が腰に差した刀を強く押さえていた。
迷いを断ち切る白楼剣を。刃が零れてしまわないように。
○○に宛てた手紙に書かれた日時の一刻前、妖夢は既に待ち合わせの場所に居た。
春になり暖かい日々が続いていたが、今日は急に気温が下がり冷たい風が吹いていた。
目を閉じるようにして待ち合わせの場所に立つ妖夢。
時が止まったかのように静止した体の内で、鋭い意思が更に一層研ぎ澄まされていた。
全てを終わらせる、今は亡き幽々子に向けたその気持ちだけが、今の妖夢を突き動かしていた。
約束の四半刻程前、誰かが近づいて来る気配がした。
目を開ける妖夢。心臓の鼓動は不思議と落ち着いていた。
約束の場所に来たのは予想に反して八雲藍であった。
あれだけ自身で来る様にと○○に向けて手紙に書いていたのに。
せめて主人である八雲紫であれば、まだ良かったのにと妖夢は落胆を覚えた。
自分の主人である、そして○○の妻であった幽々子は、○○にとってそれだけの存在であったのか、
あれだけの日々を過ごした事は全て偽りであったのか?世界が揺らぎ視界が白く染まる。
僅かに視界に写る藍に向けて幽々子の形見である扇子を差し出した。
妖夢から受け取った扇子をスルリと仕舞う藍。不義理を働いた相手側である妖夢を目の前にして、臆する様
子を見せなかった。屋敷に帰るために藍に背中を向けた妖夢に向けて藍が初めて口を開いた。
「抜かないのか?」
警戒でもなく、駆け引きでもなく、そして揶揄ですらもなく、ただ純粋に発せられた疑問。
妖夢の心臓が破裂するかの如く激しく動いた。咄嗟に渾身の力で感情を抑えつける。
ひたすらにただ持てる精神力を全て使い、破裂しそうな衝動を押さえ込む。
怒りを磨り潰すようにして、どうにか声が出た。
「…貴方相手では、意味がありませんので。」
「妖夢殿も幽々子様に、今も忠義を誓っておるのだろう。」
帰ろうとしていた足が地面に縫い止められた。妖夢の後ろ姿に尚も藍が話しかける。
「私も同じだ。妖夢殿と同じ様に紫様に仕えている。紫様のためには、
例えこの手が汚れることすらも構わないとさえ思っている。だから今日私が一人で此処に来た。」
「…そうですか。」
刀を握りしめた指は、雪のように白くなっていた。
屋敷に帰った妖夢は服を替えた。余所行きの服から真っ白な装束に。
既にこの日に向けて、主だった財産は全て処分していた。
○○が居なくなってからはこの屋敷を訪れる人はめっきりと減っていたが、
明日か明後日になれば、いつも白玉楼に届け物をする馴染みの外商が屋敷へやって来る筈だった。
玄関に書き置きをしてあるのを見てくれれば、きっとこの様子を察してくれるだろう。
既に生への執着はなくなっていた。
幽々子が成仏した時には、西行桜に眠る幽々子の体に導かれることで、
輪廻の末に再び冥界に幽々子が戻ることを信じて待ち続けていたが、
その望みが絶たれた今、妖夢を冥界に留まらせる理由は無くなっていた。
唯一の心残りはせめて幽々子への手向けとして○○を一緒に連れて行きたかった事であったが、
それが果たせなかった今、もはや従者らしく最後を迎える事だけしか、妖夢には残されてはいなかった。
スラリと刀を抜き放つと、鋭い切っ先に自分の顔が写っていた。幽霊のように白くなった顔。
無意識の内に噛み締めていた唇から、紅いものが一筋流れていた。
二度目の激痛が全身に走り、堪えきれずに妖夢は畳の上に倒れ込んだ。
刃で切り裂いた喉から血が止めどなく流れ出して紅い池を作り出す。
狭くなった視界の中に見知った足が見えた。
「だ…」
旦那様と言おうとするが、ゴボリと血の泡が立っただけであった。
どうして今になって来たのか、どうして幽々子を待っていてくれなかったのか、抑えきれない感情が涙となって流れ出す。
投げ出された手をどうにかして○○の方へ動かそうとするが最早手は少しも動かない。
暗くなった視界の中で誰かが自分の体を強く抱きしめる感覚だけが、妖夢に残されていた。
感想
最終更新:2019年05月13日 00:02