「なぁ、どうする?」
よろよろと、そして弱ったと言う態度を噴出させながら上白沢の旦那は、奥で微動だにしない○○に近寄った。
「絶対に近づかない事と……今すぐ上白沢慧音に知らせよう」
「もちろん、稗田阿求にもな。まぁ、慧音に伝える事と九代目様に伝える事はほぼ同義でああるが」
○○がこの男の妻である慧音の事を口に出したので、お返しとばかりに○○の妻である阿求の事を持ち出したが。
目の前で倒れているのが鬼人正邪と言う、事件の大きさはもとより厄介さに頭が痛くなり。
お返しとばかりの皮肉も、上滑りしてしまいどうにも。笑う気にはまったくなれなかった。
「よし……それじゃ、一緒に行くぞ。どちらかが残るだけでも危うい」
○○が若干ではあるが、倒れている鬼人正邪を気にしながらこの場を立ち去ろうとした。
「放っておくのか?」
上白沢の旦那が、若干の抗議的な意味を含ませた声で聴くが。理解は出来るのでどうしても弱い。
「そうだ……何をするにしても俺たちの妻がいない場所でこの問題を動かすわけにはいかん……分かるだろう?」
「ああ……」
悔し事は悔しいが、理解できてしまえる以上、上白沢の旦那も大人しく首を縦に振る以外にはなかった。
○○の方はと言うと、上白沢の旦那以上に恐れがあるのか。不意に鬼人正邪が起き上がって飛びかかってこないかでも心配しているのか。
○○は鬼人正邪の方を向きながら後ずさりをするようにして、この場から立ち去ろうとしていたが。
「前だけ向いていた方が良い」
上白沢の旦那に対して○○は、やはり妙な事を言っていたが。妙なのはそれだけでは無い。
○○の愛犬であるトビーを抱えて、犬が興奮しないように目線も隠してやっている。
そして何度も、首を横に振っている。だがその動きは明らかに、上白沢の旦那の方向は向いていない。
「そのままの状態でゆっくり歩けば、多分大丈夫だ」
何かがあるのでは。そう思うには十分であったが、○○の表情から読み取れたのは。
○○は、明らかに何かの危機を感じている。それのみであった。しかし残念なことに、それが何なのかよく分からない。
……であるならば、少々の煩わしさや悔しさは存在しているが。○○の言う通りに動くほかは無いのであった。
「後で教えろ」
故に上白沢の旦那は、小声でこうつぶやくことしか出来なかった。
そして倒れている鬼神正邪が、完全に見えなくなった辺りで。
○○は踵を返したようにクルリと回り。愛犬を抱きかかえながら、走り出した。
「おい、待ってくれ」
説明をまだ寄越してもらっていない上白沢の旦那は当然、どういう訳があるのかと早く聞きたがっていたが。
「もっと離れるぞ」
○○はそう言って、ぐんぐんと速度を増していくばかりであった。
付いて行く以外にはない、こういう時の○○は話を聞くような性格でないのはよく分かっている。
稗田阿求を連れて来れば、別かもしれないけれども。
そして往来が比較的増えてきた場所まで戻ってきた。
この際に結構な数の人間に見られたが、○○が愛犬をいたわるかのような仕草をしたので。
突然走り出した飼い犬を追いかけていたら、思ったより遠い場所まで追いかける事になったと言う。
そう言う演出が上手くいってくれた。またその演出をやったのが、稗田の婿殿である○○と上白沢の旦那と言うのも無視はできないだろう。
天狗の新聞が色々と、――もちろん二人の妻たちも関係している――派手に書き連ねてくれたお陰で。
この二人は、人里で起こった厄介ごとの解決人として。はっきりと認知されている、そんな人物の行動ならば、少々突飛でも案外気にしない。
「一旦、稗田邸まで来てくれるか?」
「それは構わんが……一言位の説明はねだらせてはくれないか?」
二人が若干の小声になりながらだが、○○は辺りを少しばかり気にしながら。そして道の隅に移動してからようやく話してくれた。
「いつから向こうが気づいていたかは分からんが、俺は鬼人正邪と確かに目が合った」
上白沢の旦那は、○○からのその説明に絶句する他は無かった。
「つまり……俺たちは鬼人正邪からにらまれて…………その気になったらいつでも?」
「多分な。邪魔をするなと言う意思は確かに感じ取れる、そう言う目つきだったよ。久しぶりに怖かったよ」
「そ、そうなのか……」
○○は稗田阿求に影響されているせいなのか、乾いているとは言え笑っていたが。上白沢の旦那はそうも行かなかった。
「しかし……鬼人正邪。なんか派手な服を着ていたな。あいつ今、どこで何をやっているんだ?」
○○は服装から鬼人正邪の動きについて何か推察を重ねようとしていたが。
傍にいる相棒は、そんな部分に頭を回して考察する余裕は一切なかった。
「ただいま」
「お帰りなさい、あなた……あら、上白沢さん所の旦那さんも一緒なんですね。遅くなったのはそれだけですよね?」
○○が稗田邸の門をくぐり、妻である阿求がそれを出迎える。
いつもより若干遅い北区に、阿求が気にするような言葉を掛けてくれた。
多分ここで『何でもないよ』と言い切れば、腹の底はともかくとして阿求はその言葉を一旦は受け入れてくれた気はする。
だが○○は……阿求相手では何かを隠そうと言う意志がまるで存在していないのだろう。
「鬼人正邪が倒れているのを見つけた……まぁ、向こうに戻ったとしてもとっくにどこかに行ったとは思うが。眼が動いてた」
かなりの厄介ごとが起こっていると言うのは確実なのに、○○の奴。あっけらかんと阿求に全部を話してしまった。
「あらぁ……でも何もされなかったんですよね?」
「一応は。邪魔をするなと、言われてはいないが、目線でそう言われたのは分かったから」
もっと恐ろしいのは、稗田阿求が妙に冷静だったことだろう。
それぐらいでなければ、稗田の九代目は勤まらないと言われればその通りであろうけれども。
笑みすら浮かべて○○とその事について喋っているのには、閉口物である。
「実は最近、鬼人正邪が妙におとなしいと言うか。見かけても普通に飲食しているだけで」
「気になるねぇ、それ。あの天邪鬼がさ。飲食だなんて、普通すぎる」
「だとしてもアレに下手に触れるのも。あなたや上白沢の旦那さんに触れなかったのなら、一線は弁えているようですから」
「確かに。確実に何かが起こっていると分からない限りは、触れたくも無い。反撃喰らって伸びてるだけならざまぁみろと思うのは多そうだし」
「……なぁ、稗田のお2人。一応慧音には言っておくぞ?」
横から聞いてばかりの上白沢の旦那も、何かを言わずにはいられなかった。
「と言っても、どこに住んでいるかもあんまり分からないから……」
しかし阿求は、まだ少し笑っていた。
……何となしに、解体現場で騒いでたり、ガラス瓶を叩き割る寺子屋のやんちゃな生徒どもを思い出した。
何が面白いのかはよく分からないが、派手に土煙を上げたりして壊れるのが。それが案外面白いのだそうだ。
「それよりあなた、実はね。またご依頼の方が参られているのですよ」
「へぇ!」
しかし○○の思案顔も、新しい依頼人が来たと言う阿求からの報告に。
その時の○○の妙に楽しそうにしやがる顔で、上白沢の旦那の疑念も。ぽっきりと腰を折られたような形になってしまった。
「気に病むことは無いよ、鬼人正邪が何かを考えているのなら、早晩気配を見せてくれるさ!」
上白沢の旦那は『そうじゃない!』と言ってやりたかった。こいつの、新しい事件を心待ちにしている態度が気に喰わないのだ。
第一、もしも鬼人正邪が本当に大きなことを考えていたら。
それはもう、稗田の領分ですら無く。二人の巫女や、霧雨の魔法使い。
精々が、半人半霊や紅魔館のメイド。出張るとしてもここら辺が関の山である、それを分かっていなさそうな事に腹が立つ!
「あの野郎」
上白沢の旦那が、○○の事件に対する面白さを優先している姿に腹を立てている頃。
「手加減しやがって。私も本気を出しにくいだろ」
鬼人正邪は、いくつかある隠れ場所までたどり着いて。そこに保管してある軟膏を塗りたくって、ギシギシ言う体を労わっていた。
「また私の方が黒字じゃないか。あいつばかり赤字になりやがって、急所を狙ってくれない」
軟膏を塗りたくりながら、鬼人正邪は思い通りに行かない現状にブツクサと言ってすねるような姿を見せていた。
「さすがに首に手を掛けた時は、力を入れてなくても慌ててくれたが・・・・・・ちょっと失神したふりをしたら泣き出すんだから」
「あいつ、何で力を入れてくれないんだ。あいつは血の味が口の中に広がってるんだから。同じ目に合わせてくれても良いだろうに」
正邪は手鏡で口の中を調べて、特に影響がないどころか。傷一つない事を確認していた。
「こんな派手なだけの『おべべ』それを汚すだけじゃ、全然足りないんだよ。こんなの、暗闇で騙す為の派手さだから安いんだよ」
「どうせ忘八頭から新しいのはいくらでも引っ張れる。遊郭街の間諜(スパイ)として動く仕事はいつまであの街が持つか分からないから」
「だから……あいつのお友達を破滅させて。あいつとは未来永劫憎しみ合いたいのに……何であんなに優しいんだ」
汚れた派手な服を洗い桶に突っ込んだ後、正邪は新しい服を――これも派手だった――着て。
その後、服の派手さに合うように口紅や上の手入れをしたあと。
ゆっくりと、人里の『奥を』目差して飛び去っていった。
稗田阿求や上白沢慧音が唾棄して絶対に向かわない、人里の奥の方にである。
感想
最終更新:2019年06月17日 21:15