「耳が早いですね」
○○が新しい依頼に知的好奇心を旺盛に働かせているのを見て取った上白沢の旦那は、若干の諦めを混じらせながら阿求にごちるしかなかった。
……きっと、ここに古明地こいしがいたならば笑ったであろう。
上白沢の旦那は、無意識のうちとは言え稗田阿求に呆れを見せるような態度をして。
なおかつそれが許されているのだから。阿求も阿求で、上白沢の旦那が見せた態度に苦笑するのみで済ませている。
ここに奉公人がいないからとは言え……それでもやはり上白沢の旦那は。
○○の遊びに付き合っているうちに、無自覚の内にその立場を。良いか悪いかは本人に聞くしかないが。
確実に、その立場を上向かせていたのである。
「ええ、実は依頼人はうちの奉公人なんですよ……まぁ、いきなり相談する訳にも行かないから。色んな人にお伺いは立てたようですが」
阿求がそう言った時、上白沢の旦那は天を仰いだ。
○○に依頼を持ち込む前に、稗田阿求に依頼しても良いかお伺いを立てる前に。
どうやら今回の依頼人、そうとう回り道をしてくれたようだと言うのが。阿求の一言だけで分かってしまったからだ。
八意永琳(狂言)誘拐事件、前回の頭領がうつろになった事件。
それらの解決のために走り回ったのは、隠したくても周りが、特に稗田阿求が大いに宣伝したがるので。
目立つのが○○だけで済めば良いのだが、妙に仲良くやって付き合っている上白沢の旦那にもその影響は及んでしまう。
「今回の依頼も、上手くいけば無論……宣伝を?」
上白沢の旦那は重たい表情と声で、阿求の考えを問うてきたが。当の阿求は朗らかな笑顔で、○○に至ってはワクワク顔だ。
そして阿求はワクワク顔の○○を見たらさらに上機嫌になりながら、上白沢の旦那に。
「ええ、もちろん。夫の名声が上向くことは、私にとっても喜びですから。私ばかり良い目を見ても面白くありませんから」
「時間が無いんですよ、他と違って、本当に時間が無い。これでも焦っているんです」
私ばかり良い目を見ても。そして時間が無いと言う言葉に上白沢の旦那は引っ掛かりを若干覚えた。
――そうですね、それぐらいしないと○○と貴女の関係は釣り合わない――
そんな感じの言葉も、頭の中に出てきたが……すぐに仕舞い込んだ。それを言う事によって稗田阿求から。
致命的とは言わなくとも、回復困難な不興を買いそうな。そう言った恐れをすぐに、この旦那は想像できた。
稗田夫妻のいる場所は深淵だ。
何故こう思ったかは分からない、稗田阿求の献身っぷりに恐怖したのかもしれない。
しかし上白沢の旦那はすぐに、これは深淵だと結論付ける事が出来た。
「そうですか」
深淵と言うのは眺めていたら案外仄暗い面白みや楽しさがあるけれども。君子危うきに近寄らずと言うではないか。
なので上白沢の旦那は、本当に一言だけの返答で済ませてしまった。
余りにも進もうとしてくれないこの男の姿に、稗田阿求は失望と言うほど深くは無いけれども。
しかしながら呆れと残念さを混ぜたような顔は作ってくれた。
『こいつ、自分がおかしい事を自覚しているのか?』
上白沢の旦那は、冷静な狂いの片鱗を見たような気すら覚えたが。なればこそ、この場で言える事はただ一つ。
「○○、依頼人の目当てはお前のようだから。帰って良いか?」
「駄目ですよ」
帰宅したいと言う希望を真正面からぶつける事ではあるのだが、間髪入れずに稗田阿求から押し留められた。
「依頼人さんは、○○だけでは無くてあなたにも話を聞いてほしいと考えているのですよ」
「至極もっともだ……残念だよ。私も有名人らしいから」
押し留められたのではなくて、どちらかと言えば強制のような気配も感じるのだけれども。底は敢えて無視した。
無視して、有名人はつらいよと言う態度をうそぶいて見たが。正直、茶化した態度を取った事をすぐに後悔した。
稗田阿求の目が怖かったのである。音こそ鳴らさなかったが、舌打ちの真似事もしていた。
そしてその怖い目と、舌打ちの真似事。無論の事であるが、○○には見えないように強く気を配った場所。
不意に後ろを向いた瞬間に、この二つを同時に繰り出してきたのである。
しかし今の阿求と○○は近い位置関係にあるから。これは中々の冒険だと思うのだけれども……
そこはさすがに、稗田の九代目様と言うほかは無かった。
「阿求、依頼人はどこに?」○○が不意に後ろを向いたが、すぐに向き直った。
しかしその時には、時間にして数秒ですら無かったはずなのに。稗田阿求の雰囲気は、1秒と掛からずいつも通りに戻った。
「ひとまず一番広い客間に通しています。あそこなら盗み聞きも難しいですから」
そしてまた稗田阿求は上白沢の旦那の方に向いた、今度は○○に向ける朗らかな顔のままであるが。
それが、分からなかっただけでいつの間にかその顔は演技のそれに変わった事ぐらい。彼だって理解している。
「来てくれますよね?」
「ああ、また手伝ってほしいな」
稗田阿求の声の裏側にある有無を言わせない姿よりも、軽い調子の○○の方が暖かい存在に見えた。
「まぁ……乗りかかった船だ」
快諾は何となく、心の引っ掛かりを無視できなくて。何となしに玉虫色の答えになってしまったが、○○にとっては十分らしく。
「よし、じゃあ依頼人から話を聞こう」
○○はクルリと向こうを向いて、一番広い客間とやらに向かったが。
できれば一緒にいてほしかった。お前が不意に稗田阿求から目を離したら、不用意な自分の責任があるとは言え。
だとしても、九代目様の持つ底知れ無さに一人で対応しなければならなくなると言うのに!
事実、稗田阿求は。○○が向こう側に行くのを確かに見て取ったら、急に表情の全てを消してこちら側に向いてきた。
「○○のお友達ですから、この程度で終わらせますけれども」
つまり自分が、上白沢の旦那でなくて。○○とも親しくなければ、五体満足でいられるかどうかすら怪しかったことではないか。
「どうか○○に独り舞台を踏ませないで下さいな。それはあんまりにも、寂しいじゃないですか。相棒がいないと、話が締まりません」
いったい何を考えているのか、何を目的にして稗田阿求は動いているのか。
この言葉だけでは、それを判別する事は出来なかったが。
自分はもう、この船と言うか舞台から降りる事が出来ない。
それを理解するのに、さしたる時間は必要なかった。
「ご足労おかけしてしまう事は、申し訳ありませんわ。本当に」
そして上白沢の旦那が、降りれない事を理解した瞬間。稗田阿求も機敏にそれを察知したのか、急にいつもの朗らかな調子が戻った。
「埋め合わせと言っては何ですが、後で菓子折りをお渡ししておきますね。流行の菓子屋の、おせんべいですけれども、気に入ってますの」
一応世間的には、上白沢の旦那が若干は巻き込まれていると言うか。ご足労掛けられていると言う認識らしい。
今はそのお情けを噛みしめるしかなさそうである。
かくして○○と、稗田阿求か無理やり連れてこられた上白沢の旦那は。
新しい依頼人が待っていると言う、大きな客間に通された。
なるほど確かに、寺子屋の教室2~3個分の広さはある。これじゃ客間と言うよりは宴会場だけれども。
稗田阿求は確かに客間と言ったから。その用途で使っているのだろう。まったく豪勢な事だ。
その客間と稗田阿求が表現した大広間の中心に、今回の依頼人である女性が座っていた。
年の程は、50に乗るか乗らないかと言った塩梅。なるほどこれなら、稗田阿求もそこまで心配する必要はないだろう。
それに、そもそもの部分で。
「ああ、九代目様に夫様!それに上白沢の旦那様!私のご依頼を聞きに来てくださり、本当に感謝の極みにございます!!」
この女性は、先ほど稗田阿求が言っていたが。この稗田邸で働いている女中なのだから。であるならば、依頼人の腹の底に対して不安な部分は何もないと言い切れる。
稗田夫妻と上白沢の旦那を見た瞬間の平身低頭っぷりと来たら。
敬虔な信者の中でも特にと言わんばかりだ、それよりも思う事と言えば。
いったい自分はいつから、神仏と同格の扱いをされるようになったと言うんだと言う。その部分に関する、窮屈さだが。
それでも、稗田阿求からぶん投げられたあの目線に比べれば。あの敵意に変わる一歩手前の感情に比べれば。
窮屈なだけで、頭を下げてもらえる今の方がマシなのが、酷い状況である。
「頭を下げるのはこれだけにして!さぁ、依頼内容を話して!説明と言うのは、出来るだけ早く済ませてしまうべきなんだ!」
○○はと言えば、退路を断たれている自らの友人の事など。気付くための材料を与えていられないから仕方ないが。
妙に楽しそうに、新しい依頼に立ち向かおうとしていた。
「は、はい……では。お話いたします。これは、私の息子が悪い知り合いにつかまっていないかと言う不安が元にありまして」
依頼人に至っては、稗田夫妻や上白沢の旦那たちの事を神格化すらしていそうだから。余計に気付く事は出来ない。
そうしてこの依頼も始まりの鐘が鳴ったと言えよう。
菓子折りでは安すぎるぞと上白沢の旦那は思ったが。先ほどの稗田阿求からの視線は、夢にも出てきそうだから。
黙って聞くしかなかった。
感想
最終更新:2019年06月17日 21:18