寝起きの耳を揺さぶる大きな音なのに、肝心の内容についてはくぐもってしまい、頭にはあまり入ってこないアナウンスが駅のホームに鳴り響く。
会社や学校に向かう人の波が蛇のように揺れ、蟻の如く流れていく。数千もの人間が社会の歯車に、あるべき位置に収まりつつ役割を果たしている。
人混みをかき分けるようにけたたましく発車のアナウンスが流れ、僕がいつも乗っていた電車が目の前で過ぎ去っていた。
 次に来る電車を待つために、未だ行き交う人々が途切れない駅のホームに並ぶ。昨日よりも少し気温が下がった平日の初夏の空気は、爽やかな温度で僕の熱を奪っていく。
隣にいる彼女が日傘をコツンと地面に叩き、僕に言った。
「そろそろさっきの電車で、騒ぎが起きるころね。」
「何の騒ぎ?」
騒ぎが起きることではなく、聞くべきはその内容だった。良く当たる占い師は言うに及ばす、最先端の科学の結晶である天気予報ですらも彼女には及ばない。
量子の悪魔が闊歩する確率によって生み出される精度を超え、太古から息づいていた人知を越えた力によって授けられる予言。かいつまんで言うなれば、彼女の言った事は全て実現するということだった。
「暴力事件。鞄が当たった事を巡って、女性と男性の。」
「そうなのか。じゃあ二つ先の駅で乗り換えよう。A線ならいけそうだ。」
「うーん。」
僕の意見に賛成という訳ではなく、何処かに欠陥があると言いたげな思案顔の彼女。幾通りにも張り巡らされた考えが、纏まらないためい言うのを控えているのではないことは、
彼女のどことなく勝ち誇った笑みが僕に教えてくれていた。あどけない幼児のような笑顔。
宝物を大事に隠しておきたくて、それでも宝石を誰かに見せびらかしたくて、しっかりと宝石箱を後ろ手に隠しながら、その存在を僕に分かるように振る舞う。
彼女の持っている壊れそうでちっぽけな、太陽の光を浴びて輝くガラス細工のプライドを、そっと手に取るように掬い取る。僕の小さな努力は、それに見合った以上の答えを返してくれた。
「A駅の前の駅にしましょうか。」

 一駅だけ双六の駒を進めた僕は、数分後に目的の駅のホームに降り立っていた。乱れたダイヤのために、普段電車の中から眺めるよりもずっと多くの人がホームで並んでいた。
苦虫を噛みつぶした顔でスマートフォンを眺める人々。チカチカと電光掲示板が点滅し、すぐ近くで先程起きた暴力事件を乗客に伝えていた。
テレビで話題となっている俳優を全面に起用した大型広告を背に、人員整理の駅員が何人も動き出す。大勢の人の波とは逆の方向に僕と彼女は歩いていた。
地下鉄への乗り換えのために、空いていたエスカレーターを降りようとすると、彼女が僕にだけ聞こえる位の小さな声で言った。
「階段。」
斜め四十五度に進行方向を変えて、階段の方に体を向ける。隣にいたサラリーマンの後ろに滑り込むように入り込み、そのまま長い階段を降りていく。
視界の端で後ろにいた女性が、面食らったようにエスカレーターに乗り込むのが見えた。長年の歩行者によって角が摩滅した階段を降りていると、隣で大きな音がした。
大型のスーツケースがけたたましい音を立てて、エスカレーターの片側を滑っていく。人間よりも乱暴に、そして随分と速く到着したスーツケースは、その代償に中身を地下一階にて散乱させていた。
慌てて降りてきた持ち主がバラバラに散らばってしまった中身を拾い集めようとする。思わず駆けつけようとした僕を、彼女の腕が引っ張っていた。
「綺麗な人なら直ぐに助けに行くのね。」
「そんな事ないよ。」
「嘘ばっかり。目でしっかり顔見てたじゃない。」
女心と秋の空とことわざは存在するものの、晴天から突然暴風雨が吹きすさぶ彼女の機嫌は、それ以上に変わりゆくものであった。第一、今は秋ではない。
ドンドンと僕を引っ張るようにして進んで行く彼女。見た目に反してその力が強いために、僕は前につんのめる格好になり、それを補うために早足になった。
羊飼いに導かれる羊の如く、そしてキリストに着いていく信徒のように、僕は彼女に先導されていく格好で地下鉄の駅を進んでいくことになったが、
周囲から奇異の視線に晒されることが無かったことだけは、唯一の救いであった。


 彼女に引っ張られた甲斐もあり、僕は普段よりも少し遅い位の時間に最寄り駅に着いた。十分程度の遅れならばカバーできる範囲だ。
あれから機嫌を直した彼女が笑顔で僕の手を離す。甘い雰囲気を漂わせながら。
「またね。」
そう言って手を振る彼女を後ろ背にして、僕は脇目も振らずに会社の方に走って行く。ああ、まただ、また彼女に頼ってしまった。
僕は彼女の事を知らないのに、彼女の名前も、住所も、携帯電話の番号も。トラブルが起きそうな時にいつの間にか隣にいる彼女を、僕はいつも受け入れて、そして常に彼女に頼りっぱなしになっていた。
彼女が本当に人間かすら僕は知らないというのに。ああ、本
は僕は薄々感じてしまっているのだ、彼女が人間を超えた力を持っているということに、そして僕がそれを知っているが、敢えて見ない振りをしてきたという事に。
心臓が破裂しそうな程に鳴り響く。今までの常識が崩れていき、自分がこれまで過ごしてきた世界が崩れ去る。彼女が僕をどこからか見ている気がした。
今の世界以外の、幻想の世界のどこからか。彼女に恐れを感じているのではなく、けれども彼女に頼っていることに後悔をし、そしてそれをズルズルと許している自分が一番嫌だった。
全てをやり直そう。そう僕は固く、生まれ変わり震えるように決心した。

 日が暮れて夜空が街を覆った時間に、会社のビルから出てきた僕を彼女が出迎えた。朝の時の爽やかな服とは違い、お嬢様めいて
いて高級そうで、うっかり触れると形が崩れてしまいそうなフリルの飾りが付いた服だった。僕は彼女に構わず歩き出す。
「そっちは危ないけど。」
彼女が僕に注意をする。いつもならばそれを僕は受け入れていたが、今の自分は違っていた。
「僕はこっちの方に行きたい。」
そして僕は、彼女が危ないと言った方向に向かっていった。自分の人生を賭けて、今まで過ごしてきた自分という存在を信じて、今もひしひしと感じている未知への恐怖と僕は戦っていた。
「ふうん…。」
悪戯を思い付いた子供がするように、ニヤリと笑う彼女。きっと彼女には僕にこれから起こる事が見えているのだろう。僕の目の前には夜の暗闇が広がっていた。
全身に震えが走る。視界がピカピカと点滅し、自分が真っ直ぐ歩いているかも分からなくなる。それでも僕は足を止めずに歩き続けた。自分の信じる方向へと。未来へと向かって。




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最終更新:2019年06月17日 21:25