最初は倒れている人物に向かって駆け出そうとした○○であったが。
その人物が、依頼人であるあの母親から頼まれた。悪い友達や悪い習慣から息子を救ってくれと頼まれた。
その息子自身であるのだから……○○の駆け寄ろうとする歩みは寸での所で急停止せざるを得なかった。
しかもその依頼人の息子が倒れている場所は。つい昨日に鬼人正邪が倒れている場所と同じなのである。
その事実が、○○が引き受けたこの依頼に対する……危険だと言う本能からの警告はもちろん受け取ったが。
「面白いじゃないか、お前。どんな人生送ったら昨日の今日で、鬼人正邪と同じ場所で倒れる事が出来るんだ?」
純然たる知的好奇心、興味も同時に湧き上がってしまったのだ。
「上白沢の旦那がいなくて良かったよ……幻想郷だから神仏に例でも述べればいいのかな?」
この興味に対して、きっと批判的な感想を持つであろう上白沢の旦那がいない事を万物に感謝したいぐらいであった。
もしこの場に彼がいたならば、○○はいよいよ張り倒されてしまっていたかもしれなかったが。
妙に楽しそうに過ごす場面を見られても、いぶかしまれるだろうから。
どうせ彼とは特に予定や約束も無しに街中でよく合うから、気を付けなければと。
かかる興味に対して『くっく』と笑いながら依頼人から助けてほしいと言われたこの息子の事を見ていた。

……無論、助けてほしいと言う依頼人からの切実な願いを忘れているわけでは無い。
○○の上手い、と言うか厄介なところだと上白沢の旦那は言うだろうけれど。
○○はちゃんと、興味と引き受けた依頼に対する誠実さが、これがちゃんと同居しているのだ。
かの完全記憶能力を持った九代目様の権力は、もちろん無視はできないけれども。
一度興味を持って、それ以前に引き受けると口にした以上はと言う責任感だって、興味と同じぐらい存在していた。
その責任感から、東奔西走して。何だかんだで依頼人に真実を伝える事が出来ているのだ。
そして何だかんだで、依頼人も納得することになる。
……裏側で阿求がそう言う、納得しなければならないだけの大義を作る事は。
無いわけでは無かったが、○○は好奇心と知的遊戯に突き動かされている割には、世間的に見ても誠実な方であった。

「きっと鬼人正邪とかかわりがあるんだろう?まぁ、でも、君を助けてほしいとは言われているんだ……それは実行するよ」
目の前の男性が、依頼人の息子が、鬼人正邪と同じ場所で倒れている以上は。鬼人正邪と関係があると判断すべきと言う事実に。
知的好奇心を大いに刺激された○○は、なおも気絶したまま眠りこける件の男性を前にして呟き続ける。
「しかし……俺が動いている事をまだ知られたくは無いね……こういう時に有名人はつらいよ」
無論、聞いてもいないのにつぶやき続けたのには意味がちゃんとあった。
別に○○の頭が遂におかしくなったわけでは無い――それはそれで、出歩かなくなるから阿求が喜びそうではあるが――単純に起こしたくなかったのだ。
心の中だけで呟かなかったのは、○○の中にある演技がかった事が好きな性格が影響しているのだろう。


だが、見つかりたくはなくとも状況は動かしたかった。
「起きるまで待つのも、いつになったら帰れるか分からんから……」
○○は少しばかり小声になりながら、依頼人の息子をつま先で優しく突っついた。
あくまでも起こす為に必要な力だけを、足先には込めていた。
「うう……」
男がうめいた。
「よし、トビー静かにしていろよ」
起き上がりそうな気配を見せたことで、○○は愛犬をすくい上げるように抱えて、男からは見えない位置に移動して。茂みに隠れた。


「ああ……」
男は前夜の疲労が、こんな野ざらしの場所で一晩過ごしたのであれば却って疲れる位だからなのか。
しばらくは眼を開けていても、うつらうつらとしながら周りを、口を半開きにしながら見渡していたが。
誰かが寒くないようにとかけてくれた、女性物の着物に目をやったら。
「正邪!?」
その男は、鬼人正邪の。しかも下の名前を叫びながら、一気に意識をこちら側に舞い戻らせてくれた。
さすがに見つかる心配があったから、○○は一言だって漏らさなかったが。
しかし声も無く笑う事は出来た。それも大いに、嫌らしい笑みを。
上白沢の旦那が見ていたら、知的好奇心に突き動かされるのも考え物だと言いながら……
ここまで来たら、いよいよぶっ飛ばしていたかもしれなかった。
「正邪!?近くにいるのか!?これはお前の着物だろう、かけてくれたのか!?」
正邪の名前をしきりに叫ぶこの男性のように、フラフラと立ち上がらなければならない程に。


その後、○○はなおも観察を続けた。
正邪の名前をしきりに叫び続けて、正邪の姿を探そうとする男の事を。その一部始終を観察していた。
「いないのか……まぁ良い。洗って返してやろう」
結局その男が、依頼人から助けてほしいと頼まれた、依頼人の息子が。正邪はここにいないと気づいて。
なおかつ、諦めるまでにかかった時間は。少なく見積もっても30分近くはあった。
○○は見つからないように、何度も隠れる場所を変えなければならなかった。愛犬を抱えながらだから、あまり動きたくは無かったが。無理だった。
それぐらいこの男は動き回って、鬼人正邪を探そうとした。

しかしその様子に、怒り心頭だと言った雰囲気は存在していなかった。
「寒いんじゃないのか!?羽織物とは言え、一枚脱いだんだからな!!いるなら何か言え、正邪!!」
寒くないように掛けてくれた着物の事をしきりに気にしていた。
これは天邪鬼に哀れまれたという事だから。かなり嫌がりそうなのが普通であろうはずなのに。
むしろ正邪が軽装の薄着で帰らざるを得なかったことを、気にするような素振りと言葉であった。
「正邪……」
立ち去ろうとする際も、男は少しばかり涙目を浮かべているのではと言う、そんな声と姿であった。
例え声が聞こえなくとも、鬼人正邪の物と思しき羽織物を。
こいつを鼻先に近づけて、匂いを嗅ぐような仕草だけでも見れれば。種々の判断を付けるにはきっと、十分であろう。


「ふぅん……これはかなり面白いかもしれない」
件の男、依頼人から助けてくれと頼まれている息子。それの姿が完全に見えなくなって、見つかる心配もなくなった頃にようやく○○は出てこれた。
結局○○は、40分以上隠れる羽目になってしまった。
「面白くなってきたが……ああ、トビーすまないね。声が漏れても不味いからって、口を長時間押さえてしまって」
トビーがふいに吠えないように、○○から口元を抑えつけられていたこの愛犬は。
飼い主に対する恩義こそあるから「わふん……」と、若干苦しそうな音を漏らすのみであったが。
機嫌が悪くなっているのは、さとり妖怪でなくとも理解できた。
それだってもちろん、○○は気にしていたが。それよりも気になる事があった、○○は懐中時計を急いで確認すると。
「ああ、やっぱり!」普段の散歩に使う時間を、既に大きく超えてしまっていた。
始めの方こそ、今日は余りはしゃがなかったから早く歩くことが出来たが。
この待ち時間に、随分と時間を食われてしまった。
「阿求が心配している!トビー、走って帰るぞ!!」
「わん!!」
愛犬は、今度は走るのかよと言いたげに、いつもより不協和音を乗せた声で吠えたが。
○○が気にしているのは、1に帰りが遅くなったことによる阿求の機嫌――あるいは苛烈さ――を刺激していないか。
2つ目には、この依頼は急いで情報を収集して解決させた方がよさそうだと言う直観であった。
残念ながら○○の愛犬トビーは、完全に振り回されていた。




「ただいま、阿求!」
○○は一目散に稗田邸まで帰ってきた。帰ってきた後も、一目散に私室に向かった。
愛犬トビーを、普段から邸内では放し飼いとは言え。完全にほっぽりだしていたが。
この愛犬には悪いけれども、実はそうした方がこの犬の身にも良い巡りあわせがやってくるのである。
……つまるところ、稗田阿求は案外と。愛する夫である○○の事を中心に据えて考えてしまっているのだ。
○○が案外と犬好きだから、トビーは存在しているのかもしれなかった。


「阿求、遅くなったのは素直に謝る!埋め合わせもする!でも今は待って!!」
一目散に○○が私室へ駆けたのは、結局のところ阿求がそこで待っていると。
それを断言する事が出来たからだ。
基本的に○○は、日中は種々の資料整理や文書仕事の際は、私室にこもる。
阿求は、少し機嫌が悪くなったら。○○が文書仕事をしている部屋に、机も筆記具も、参照している資料も。
全てを持ち込んで、○○の横で執務の続きを始めてしまう。
だから、散歩に行ったっきり中々帰ってこない○○に、残念なことに阿求は機嫌を悪くした。
と言うより、十中八九悪くすると。○○は分かっていたし。
中々帰ってこない○○に、奉公人はやきもきして……もう1時間もすれば、内々に捜索隊だって組織されたかもしれなかった。

しかし○○が一目散に駆けながら帰ってきて、犬の散歩に行く前に、昨日に依頼関係で情報収集を頼んだ奉公人達からの。
その者達からの、報告書。これを読み漁り始めた時に、阿求は。
「あらあら」
と、笑顔の裏に隠しているようで隠れ切っていないピリピリ感が。完全になくなった。
何故ならこの舞台は、名探偵としての役柄は阿求が用意しているから。
その上で踊り狂っている姿こそ、阿求の見たい○○の姿なのだ。

そして阿求が舞台を用意していることを――知っていても信仰心が勝るから構わないと言うけれど――知らない奉公人達は。
また○○様が、九代目様の旦那様が、引き受けている依頼に関して何かを見つけたようだと。
そう言う、畏怖と感嘆と信仰心の上積みになってしまうのだ。
恐らくこの光景に苦笑するのは上白沢慧音だけ。
渋い表情をするのは、その上白沢慧音の旦那だけであろう。
特に上白沢の旦那は、この名探偵が活躍する舞台が阿求によってこしらえられている事を知っている。
○○も、舞台の存在を知りながら踊り狂う事を良しとしていることまで知っているのだ。
故に、理解できないのだけれども。その度に上白沢慧音は、稗田阿求と○○の間に契約が交わされている事をほのめかしていた。


だが今ここには、上白沢夫妻のどちらともがいない。
なので阿求と、種々の事を了解して踊り狂う○○のみである。裏を知っているのは。
それ以前にここは稗田邸だ。誰がそれを邪魔できるのだとしか、言う事は出来ない。


「ああ、やっぱり!偶然のはずがある物か!!いきなり潰れるかよ、店が!これは迫れるかもしれん」
ややわざとらしく、○○は感嘆の声を上げた。そうかと思えば、ドドドとせんばかりに部屋を飛び出した。
阿求は満足そうに、さきほどよりもずっと朗らかに笑っている。だからこれで良いのだ。


「調べてほしい事がまた出来ました!」
○○は奉公人達の中でも屈強な連中に声をかけた。その屈強さは、力仕事以外の事も容易に想像できる屈強さであった。
されどもその余りにも屈強な奉公人達は、言うなれば稗田家の私的な戦力である。
稗田家程の、しかも今は九代目様がおられる今の状況で。
その戦力たちの信仰心は、疑うべくもない。ここは幻想郷だ、むしろ稗田家の戦力とは名誉が付く役職だ。

「はい、もちろんでございます。なんなりと」
屈強な奉公人達の頭目らしき人物が、恭しく答える。上白沢の旦那ならば、少し引いたような笑みを浮かべたろうけれども。
○○は阿求を受け入れる事が出来たので、この程度で引く等はあり得ない。

「こいつと、こいつと、こいつを一日中調べてくれ。それから、もしもこいつらの誰かが、女性を口説こうとしたら。その女を調べてほしい」
「けれども、絶対に接触は持たないで。あくまでもどこに行って、何をやったかを調べるだけで良い」
○○は、昨日依頼人から聞き出した、依頼人の息子の交友関係から抜き出した。
稗田家裏稼業である、良心的な高利貸しの顧客たちをもう一度。
今度は徹底的に、その人となりや行動範囲を調べるように伝えた。
それだけならば、昨日に頼んだことの強化版であるのだけれども、1つだけ違ったのは。
その者達が口説こうとしている女性についての情報も調べてほしいとの事だが。
はっきりとは言わなかったが、○○からすればそちらの方が大本命であった。
「もし口説こうとしている女性を見かけたら、その女の特徴も合わせて書き記してほしい。多分こっちからの方が、何かにつながるはずなんだ」
○○の最後の呟きは、別に念押しなどでは無かった。
阿求が喜ぶから、普段から色々と。特に依頼に関する事に対しては、独り言をつぶやくことを。
完全に意識していたからこそ出て来てしまった、いわゆる職業病どころではなく。
○○の独り言とは、阿求に対する愛情の証明方法。そのうちの1つでもあったのだ。
ただ、今この時に関しては。いや、阿求は確かに後ろで聴いていたから良いのだけれども。
それは阿求だけを見た場合だ。

九代目様がニコニコしていて、その旦那様がこれが一番大事かもしれないと呟いた。
稗田家の私的な戦力を担う者達にとっては、もはや天命だ。
稗田阿求の期待と、○○の思い描く構図。この両方を不意にしてしまったら、自害すらきっといとわないだろう。
○○は、そうはいってもまだ一般的な感覚を持ち合わせていたから。
――だからこそ上白沢の旦那から、敢えて無視していると言われているのだけれども。
今この場でこの呟きは……そう思ったが、もう後の祭りであった。

「ははっ!了解いたしました!!お前たち、今すぐ調べに行くぞ!!」
バッと、顔を上げたまさにその瞬間に。屈強な奉公人達は飛びだして行った。
「大丈夫ですよ、あの人たちは有能ですから」
あの人たちに余計な重圧を与えてしまったのではないかと、○○は危惧したけれども。
阿求の機嫌はすこぶる良かった。


同時刻、遊郭
だがそこは、遊郭の中でも特に深い部分。
忘八達のお頭の自宅……大邸宅のある場所であった。
無論、他の忘八達と同じく。このお頭も、自宅と遊郭宿は兼用している。
なので遊女たちがひっきりなしに、あちらこちらを動いている。その中でも、忘八達のお頭の私室に遊女が入る事には。
それには二種類の意味があった。
叱責か、賞賛。初めて客前に出る遊女を、忘八が『試す』以外では、この二種類しかなかった。間は無い。

遊女たちに何事か指示があれば、管理をしている者たち伝いに遊女には伝わる。精々が手紙であろう。
最高権力者とは、基本的にそう言う物だ。軽々しく人前であれやこれやと、指示を出すものでは無い。
最も、この男は『試す』事をあまりしなかったが。
故に、遊女たちにとっても男の奉公人達にとっても。この男は底が知れなくて恐ろしかった

「鬼人正邪、最近妙に疲れていると思ったが。まさかほうほうの体で私の部屋で眠りこけているとは思わなかったよ」
「頭、頭!やっぱりアマノジャク何て、使うのはよしましょうよ!」
だがその、底が知れぬ恐ろしさを抱かれている最高権力者である、遊郭街の忘八達のお頭の部屋で眠りこけている。
そんな図太い神経ですら生ぬるい表現の女がいた。
鬼人正邪である。
忘八達のお頭の従者は、機嫌が悪くならないように、媚びたような声を出したが。
「もとより承知の上だ。苦界の間諜(かんちょう)なんぞ、アマノジャクでなければ勤まらん。後戸の国は、全てに対して開かれている」
忘八達のお頭は、意に介さなかった。
それよりも、薄汚れてボロボロの体の鬼人正邪の方。彼女がなぜこうなったかの方を、気にしていた。


「引手茶屋(※)での仕事はちゃんとやっている。間諜(かんちょう)の仕事もな。私生活には立ち入らないと言う契約のはずだ」
鬼人正邪は忘八達のお頭から声を掛けられてようやく起き上がろうとしたが。
「うう……」
おっくうなのか、しんどいのか。ひとおもいには起き上がらずに、うめきながらであった。
「誰かと喧嘩したのか?鬼神正邪よ。そうは言っても鬼のはしくれのお前が、人間にそこまでやられるとは思えんのだが」
忘八達のお頭は、鬼人正邪に質問するが。
「お前のこの私室を、駆け込み寺代わりに使っても良いと言ったのは、お前だろう?」
質問には全く答えずに、正邪と忘八達のお頭の間で交わされた契約。それを盾にしていた。

「まぁ、そうだな。私が言いだした事だ、保護にはせんよ」
「風呂借りるぞ。引手茶屋に、いつもの奴が来る前におめかしをしないと。仕事してくるよ……間諜(かんちょう)、スパイ行為もな!」
「MP3レコーダーの空き容量は、まだ十分か?」
「ああ、まだ大丈夫だ。それより昨日、ひいき客がいつも使う遊郭宿が一個、急に明かりが消えて閑散としていたが?」
急に店じまいをしてしまった宿の話を、正邪からふられた時。忘八達のお頭は悲しそうな顔をした。
「そうするしかなかった。あそこが一番活発に動いていた。眼を付けられる前に、私が直々に刀を振るった」
「さっすがぁ!」
鬼人正邪は下卑た笑いをしながら面白がったが。
忘八達のお頭は、首を横に振って。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…………」
懐から数珠を取出し、仏に祈りをささげて。安らかな眠りを祈っていた。

続く

※引手茶屋(ひきてぢゃや)
遊郭街に置いて、遊女と遊ぶ前に立ち寄る場所の1つ
ここで遊女を指名して、遊女が来るまでの待ち時間の間。
世話役に酒や食事を持ってきてもらう。
本作の設定では、鬼人正邪はこの引手茶屋で身分を偽り働いている。





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最終更新:2019年07月23日 23:12