「○○様、何人かの奉公人達から、報告書でしょうか?そのような物を預かっております。持ってきたとき朝が早かったので、側役の私に預けて行きました」
朝食の後、依頼の事は忘れていない物の。情報収集にやった件の奉公人達待ちであるから、ひとまずは愛犬の散歩でも行って時間を……
そう思っていたら、老齢の奉公人から本当に絶妙の間と言う奴で、次の段落を与えてくれた。
「ご依頼の件は存じております。依頼人の息子は、私も老人ですから、小さい時分を知っておるので心配でございます」
ふっと、少しだけ話した老奉公人の思い出話に。その老奉公人が親身に、そして本気で依頼人の息子の事を心配している様子がうかがえた。
「ふふふ」
阿求の笑い声も聞こえた。
阿求にとって、ここ最近の一番の楽しみと言うか。求めている物は。
自分の夫が頼られている、敬われている、評価されていると言った場面を確認する事だから当然と言えば当然ではあるのだが。
……阿求は隠してこそいるけれど、○○が逆玉に、自分と一緒になってくれた事自体は喜んでいるが。
○○が財産目当てなどと思われることを絶対に回避したがっていた。
だが今のところは、阿求の目論見通りに事は運んでおり。阿求が怯えるほどにまで避けたい事象は、随分遠かった。
「その、○○様。言ってみれば私は今回のご依頼では部外者でございますが。
あの息子が悪くならい為ならば、この老体も喜んで差し出します」
それはこの老奉公人の態度を見れば、火を見るより明らかである。
何度も何度も、頭を下げて。それだけにとどまらず何か言いつけがあれば、すぐにご下知を、即座に動きますとまで行ってくれた。
演技ならばそれはそれで、底知れない心中に怖くなる位であったから。真実以外の何物では無さそうである。
「うん、まぁ。今はそうそう状況が一気に動きそうでは無いから……報告書は俺の机に置いといて。
俺の愛犬が紐をくわてえグルグル庭で回ってるから、散歩の後にちゃんと確認するよ」
「ははっ」
老奉公人は、驚くほどの平身低頭でその場を後にした。
きっと言いつけどおり、○○の私室に報告書を置きに行くのだろう。
あの様子では、無人の私室にはいる時でも一礼して入りそうだ。
しかし鬼人正邪の影が見えるだとか、遊郭がまた絡みだした事など言えるはずも無く。
そもそも後者の遊郭が絡んでいる事実は、阿求の機嫌を悪化させる一番の要因だ。
昨日も二人きりでだと言うのに、状況に対する意見交換の時。彼女は明らかに危なかった。
少し心配になったので、阿求の顔を見たが。
「今回も上手くいくと良いですね。今回の場合は内々の物ですが……でも悪くなさそうで。ふふふ。
これも上手くいけば、あなたは名実ともに何でも好きに出来る存在ですよ」
長年勤めている老奉公人にあそこまで恭しく頭を下げてもらっている○○、それを確認する事が出来た事がことのほか嬉しそうで。
さすがに先ほどの老奉公人がいた時は、微笑程度の笑いに抑え込んでいたが。
件の人物がいなくなって、二人きりになると。そうなるともう、タガが完全に外れてしまっていた。
「何でも好きに出来るね。まぁ事実が知りたくて窓から侵入位はやっちゃうかもしれないけれど……」
それ以上となると、○○が理想としている名探偵もたまに無茶をやるが。さすがに申し開きが出来なくなってしまう。
けれども阿求からすれば、まだまだ些末であるらしい。
「ふふふ。私が許します」
短い一言で、ほとんどすべての事に対する免除の印を。
○○は別に寄越せとも、必要だとも言わなかったし。これから先もねだることは無いけれども。阿求の方が無理矢理、くっつけてくれた。
押し付けるですら多分ない。無論阿求は完全なる善意でそれをやっているのだろうけれども。
感覚的には、後光が勝手に設置されてしまったかのような物だ。
幸いな部分は、まだこの存在をしっているのは。稗田夫妻に限られるという事ぐらいか。
「……はは」
むしろどこまでやったら、流石の阿求も。上白沢の旦那のように苦言を呈してくれるかなと考えたが。
どこまでやっても苦言の1つもやってこなかったら、それはそれで怖い。
こうなると自らを強力に律して、同時に自分の真実の求め方に良い顔をあまりしない友人を大事にせねばならない。
同じように、外の名探偵の事を案外好きで。自分が愛犬にわざわざトビーと言う名前を付けている意味も理解している。
東風谷早苗の事も思い出されたが……アレは頼ったらだめだ。
東風谷早苗自身が一線の向こう側という事もあるけれども、それ以前に妻である阿求が一線の特に向こう側だ。
それと仲良くするのは、無謀な行為だ。
向こうも向こうで、稗田阿求と言う一線の向こう側と付き合うのはおっかなびっくりなはずだから。
東風谷早苗に関してはそう問題では無い、おたがいが距離を取ろうとしているから、案外均衡が取れている。
少なくとも偶発的な事態はほとんどなさそうだ。
けれども東風谷早苗のように思慮と分別のある存在ならば、存外安心できる。
愛犬トビーと遊んでいる時の方が……無論気にしすぎかもしれないが、阿求が今どんな顔をしているか怖くなることがある。
幸いまだ、怖いと思った事は一回も無いが。一度感じた疑念はそう簡単には拭えない。
「あら……あなた、飼い犬が鳴いていますよ。紐を加えたまま、庭を走り回っていますし。待たせすぎでは?」
愛犬トビーが不意に鳴いたり、吠えたりしても。飼い主である自分の事を呼んでいるのではと言う。
至極全うな感想しか、今まで出してこなかった。
うるさいとすら言った事が無かった。実に、実に慈愛に満ちた感想しか出てこないのだ。愛犬トビーに対しては。
何処に出しても恥ずかしくない、誰に聞かれても大丈夫な感想しか出てこない。
こういっては何だが、トビーの事を愛犬だと即答できる○○ですら。
1日二回の散歩をねだって走り回る愛犬の姿には、広場で離してやったら。戻って来いと言っても30分以上走り回った前科のあるこの愛犬に対しては。
飼い主である○○ですら、たまにため息が出てくるのだと言うのに。愛犬に対して何回か、少し黙れ落着けと言ってしまった事があるのに。
阿求からは、そう言うめんどくさいと言う感情が一切見えてこない。不自然なほどに。
無論、考え過ぎだと言われるであろう。だから誰にも、この事は話していない。
「元気ですよねぇ、うちの飼い犬は」
でも、疑念はある。確たる証拠が無いだけで、無視できない疑念は存在している。
「うちの飼い犬に、疲れるっていう概念はあるのかしら」
阿求は○○の愛犬トビーの事を、一貫して『飼い犬』と呼んでいる。
少なくとも阿求がトビーの事を、ちゃんと名前で呼んだ記憶が一切ないのだ
そこに頭脳明晰な才女であるが故の、歴史書の編纂を生業とするが故の、言葉と文字に対するこだわりを見てしまったような気がするのだ。
「夕方の散歩は、奉公してくれてる人に頼もうかな……また調べ物があるかもしれないから」
出かける際に、考えすぎかもしれないけれども阿求に対して、夕方は多分散歩に行かない旨を伝えておくと。
「そうですね、あなた!いろいろと今回の依頼も、裏で絡んでいる内容が多くて濃そうですからね!」
弾んだ声であった。
いや、もちろん。阿求は何よりも、以来の解決のために東奔西走する○○を見るのが。
そして依頼を解決して、名声を上げていく○○を見るのが何よりも興奮できる遊びであるのは理解しているが。
「いってらっしゃい、あなた」
阿求が○○にばかり出かける際の挨拶をして、手を振り続ける阿求の姿は。
どうしても気になってしまう。
「あー……考え過ぎだと誰かに思いっきり言ってもらおうかな。いっそのこと、そっちのが落ち着く」
愛犬トビーを散歩に連れて行きながら、阿求に対して感じているわだかまりを。
罪悪感もあるから気にしながら歩いていたら、愛犬も飼い主の気分がすぐれない事を察したのか。
今日のうちの愛犬は、飼い主の気持ちを煩わせないようにと気を回してくれたのだろうか。
いつもは結構はしゃぐ性質なのに、今日に限ってはおとなしかった。
家の愛犬にも気を使わせているような恰好は、阿求に対して妙に感じている違和感から発展した罪悪感も合わさり。
早めに解決しようと言う考えにまとまり、落ち着いてくれた。
いつもよりもはしゃがずに散歩をしているから、普段通りの道を歩いていてもいつもよりずっと早くに周りつつあった。
「確かここで、昨日はトビーが騒ぎ出したんだよな」
そして依頼とは関係あるか分からないが……鬼人正邪が倒れている場所につながる、小道の真ん前にまでさしかかった。
さすがに思うところや、考えたい事もあるから。○○は愛犬トビーの手綱をしっかりと握りながら、昨日愛犬が走って行った道を見やっていた。
その先に、鬼人正邪が昨日は倒れていた。
飼い主である○○が更に真面目で固い面持になったのを、手綱を握られていれば感じ取れるのか。
愛犬の殊勝さは更に増した。
その、騒がない様子が。多分○○の中で思索にふける時間と精神的余裕をもたらし。
依頼人の息子を調べていたら、鬼人正邪を見かけてしまったと言う。
偶然にしては若干出来過ぎているつながりを見つけてしまった。
そうしているうちに○○は、昨日鬼人正邪を見つけた場所に対する興味と言うか。
事態が動くとすればまたここかもしれないと言う、推測にまでたどり着いたのだ。
あてずっぽうと言われるかもしれなかったが……鬼人正邪はお尋ね者だ。
そして嫌われ度数と言うのも高い。そんなのをボコボコに出来たら……
誰かが自慢するはずだ、追い打ちに掛ける物がいるはずだ。
そんな様子も無く、あの広場に打ち捨てられていた。人の目の届かない場所に。
鬼人正邪と喧嘩をした人物は、どうやら事態が表に出るのを嫌がっていたようにすら考えられる。
「見るだけ見てみるか、何も無ければそれで構わない。と言うよりもそれが一番いいが……野営とかしてたりして」
○○は少しだけ確認してみる事にした。
心中では、あの場所に何らかの意味があるのではと考えていたが。あてずっぽうだろうと言われたら反論の余地は無いので。
何も無ければ、笑い話にしてしまえばいい。
出来れば、笑い話にしてしまえると言う、そっちの方が良かったのだけれども。
「何てことだ」
また誰か倒れていた。性格には、今回は気の幹に立てかけられている男性で。
何故か女物の着物が。本来この男性が来ている衣服の上から、掛け布団のように掛けられていた。
「ああ、クソ!!」
思わず駆け寄ったが。すぐに○○は、何故だか悪態を付くような声を出してしまった。
しかしここに上白沢の旦那はいないけれども。彼だって同じような声は出さずとも、今の○○の感情を理解できるはずだ。
倒れているのが、依頼人の息子なのだから。
依頼人から、自分の息子が悪い習慣を背負い始めているから。どうか調べてくれと、助けてくれと。
そう、今回の依頼における中心人物が、倒れていたのだから。
しかもその場所は、昨日に置いて鬼人正邪が倒れていた場所でだ!
感想
最終更新:2019年07月23日 23:14