ある場所で、男が能面を被って舞を舞っていた。間違いなくそれは、能楽の一場面であった。
楽器を奏でる者がいないので、無音の状態ではあるが。能面を被り舞を舞うこの男は、頭の中に演目が入っているのか。
全く問題とせずに、舞を舞い続けていた。


その男の傍らには、従者と思しき男性がいたが。その従者には男の趣味がよく分からないのか、黙って座っていたが所在なさげではあった。
男は何度か従者の方に顔を、しっかりとでは無くてチラリと向けるが。
何度確認しても、従者の方にその気が無いらしいのが残念なのか。
いや、はっきりとそう言葉には出していないが。それでも、その能面を被って舞を踊る男の後姿は。
その男は決して、ひ弱な体型などはしてはいなかったが。どうにも、特に背中が小さく見えている。そう言う雰囲気があった。
そう、いわゆるしょげていると言った。そう言う雰囲気であった。
従者らしき、傍についている男もその雰囲気には気付いていたが。本人にその気がない以上、こればかりは興味を持つことも叶わなかった。
しかしそれでも、この男は優しかった。
残念ではあるが、無理強いはしたくない。興味が無くても構わないとは思っていないが。
いずれ、理解してくれると。そう、楽観的と言われるかもしれないが、少なくとも本人はそう信じていた。

「おい!忘八のお頭!!」
そこに、鋭い声の女性が入ってきた。
この遊郭街の事実上の支配者である男にしては、何とも寛容な一面を見られるのと同時に。
この遊郭街の実質的な支配者に対して、何とも恐ろしい暴言を吐くものがいるのかと言う。
特にこれと言った事を知らない者にとっては、この場面は驚愕と不安とが入り混じった場面として映るはずであるのだが。
「やぁ」
暴言を吐かれたはずの、この遊郭街の支配者は。笑みすら携えて、実に気さくな様子で暴言の主であるその、いきなり入ってきた女性に相対した。
「鬼人正邪。待っていたよ」
しかしそれは、相手が鬼人正邪と言う厄介者中の厄介者だから、一見すると挑発じみた暴言には乗らなかったと考える事も出来たが。
従者として付いてきた男の眼には、そう言う腹芸は見えてこなかった。
この遊郭街において、間違いなく最高権力者として挙げられるこの男は。
確かに朗らかな笑みで相対していたのだ。裏側も腹芸も無しに、鬼人正邪との待ち合わせを。
鬼人正邪が来てくれることを、心待ちにしていたのだ。
鬼人正邪を相手にしていると言うのに、心の底から楽しそうに出来ているのだ。
「後戸(うしろど)の国へ向かう気にはなってくれたかな?鬼人正邪。摩多羅(またら)様も一度は会いたいとおっしゃられていた」
この忘八達のお頭は心の底から、鬼人正邪の事も邪険には扱わず。むしろ施しを与えようとすらしていた。
従者のような役割を持っている男にとっては、そちらの方が怖かった。
これならば、稗田家に呼び出された時の方がマシだった。
ロクな話が無いのは理解していても、実際何人かの一線をよく分かっていないチンピラを始末する事にもなったが。
それでも、稗田家に呼びされた時の方がマシなのだ。予想の範囲内に話の推移が収まってくれる。

「約束の物だ!」
鬼人正邪はなおも口汚く、と言うよりは近づかせまいとしながら。懐から何かを取り出して、忘八達のお頭に投げつけた。
厄介者である自覚を十分持っている故に、自分に好き好んで近づく輩の頭がどれだけおかしいか、十分知っているのだ。
その上この男は、そんじょそこらにいるような、頭の中身が色々な事を経験したが故に哀れな事になってしまった。
そう言う、小さな存在ではあり得ないのだ。この男は間違いなく、遊郭街の支配者で。最高権力者なのだ。
それが鬼人正邪にも施しを与えようと、嫌味や裏側も無しに、そうしようとする。
鬼人正邪の性格、天邪鬼と言う属性をもってしても。遊郭街は天邪鬼にとって面白い場所だけれども、この男のせいで早晩どうにかなってしまうと。
鬼人正邪はそう結論付けざるを得なかった。


「手厳しいね、鬼人正邪。でも気にする必要はないよ。後戸の国は、私たちのようなあぶれ物を救ってくれる場所だから」
「忘八共のお頭よ、お前の予想通りだった。アイツはクロだ、私に色目使いながらアメをちらつかせてくれたよ。全部録音できた」
相も変わらず、殊勝を通り越して怖いぐらいの寛容と施しを見せる忘八達のお頭に。鬼人正邪は、その話の内容を無視して、頼まれた仕事の事だけを話し出した。
忘八達のお頭も、鬼人正邪のそのかたくなな様子には少しばかり悲しそうな顔を―相変わらず苛立ちは無かった―したが。それだけだった。


「そうか……出来ればこういう予想は外れてほしいのだがね。本当に、悪い予想ほど頭がさえる」
忘八達のお頭は、鬼人正邪から投げ渡された物を慣れた手つきで触っていたが。
傍についている男には、それが何なのか全くわからなかった。
手のひらの中に収まる程度の小ささで、細長くて、見たことの無い材質で作られている。それぐらいしかわからなかった。
「お頭、鬼人正邪が投げ渡したそれは何なのですか?その、なにかの武器なのでは?」
男は忘八達のお頭からの覚えをよくしようとしたのか、鬼人正邪の方を睨むように見やるが。
「やめるんだ、そんな危ない物じゃないから安心していいよ。むしろとても有用な物だ」
そう言いながら忘八達のお頭はなおも、やはり慣れた手つきで鬼人正邪から投げ渡された物体をいじくっていた。
「○○君ならば、稗田のあの入り婿は外の出身と聞いているから。彼ならば分かるかもしれないんだがなぁ……説明が難しいよ」
そして妙な事を口走ったが。付いてきた男、従者のような男はその意味を完全には理解できなくて、さして重要とも思わず。
「それは何ですか?お頭」
素直に聞くのみであった。しかしこの忘八達のお頭は何も苛立ちを見せなかった、むしろ微笑すら携えながら。
「MP3レコーダーと言う物だと聞いている。我々が話す言葉を、音の形のまま記録できる装置だとの事だ。摩多羅(またら)様が貸してくださった」
「えむぴーすりー……何ですって、お頭?」
従者のような男は初めて聞く単語に、頭の中での処理が追いつかなくて。ろれつを回すことが出来なかったが。
幻想郷出身のはずの彼は、流暢にその単語を口に出していた。
「凄いな……8ギガあるから足りるかと思っていたのだが。音声だけで使い切りそうになるとは。余程喋ったんだな」
「証拠が多くて助かるだろう?あのエロジジイどもの首をさっさと跳ねちまえよ、恩を感じるなら早くそうしてくれ」
そしてまた、『8ギガ』等と言う、およそ幻想郷の住人から飛び出したことが無いであろう単語を口走った。
鬼人正邪は慣れているからなのか、MP3レコーダーにも、8ギガにも、どちらの単語にも反応しなかった。
「証拠が多いか……むしろ嘆かわしいよ。後戸の国へは1人でも多くの物を迎え入れたいのに。
だからと言って、今この時に稗田や上白沢に遊郭を潰される訳には」

「あたしはごめんだ。話に聞くだけで、虫唾が走る。それだったら天界の方がまだ見込みがあるね。不良天人の比那奈居みたいなのがいられるからさ」
しかし、後戸の国と言う単語には。強い反応を鬼人正邪は示していた。
その反応の強さは、拒絶と言う表現以外にはありえなかった。
「……それでも後戸の国は、皆の背中にあるんだ。どれだけ拒絶されようとも、後戸の国は逃げないから。安心していい」


「そう言う態度が崩れないから安心できないんだよ!逃げ切れなさそうで怖くなるっつってんだよ!!」
しかし忘八達のお頭は、鬼人正邪から拒絶されればされるほどに、優しさと悲しさを合わせたような声と顔を作っていたが。
そうやって忘八達のお頭から寛容さを見せられれば見せられるほどに、鬼人正邪からの拒絶は。
……いや、ここまで来ればそれは最早、拒絶を通り越して恐怖の域に達していた。
拒絶と恐怖の感情が入り混じっている鬼神正邪の顔を見た、忘八達のお頭は。
……本当に悲しそうな顔をしながら、目を閉じて、その悲しいと言う感情に耐えていた。
眼を閉じながら、色々な事を考えていたが。
小さなため息をついて、少なくともその場は何かを諦めたような顔を作った。
「分かった」
そう言って、後戸の国に関する話は引き取られたが。諦めたわけではなさそうのは確かであった。
しかしこの場では無理と言うのは、この忘八達のお頭も、嫌でも理解している。



「また引き続き、間諜の役目を頼むよ」
少しばかり引き下がった忘八達のお頭は、鬼人正邪から渡されたMP3レコーダーを懐に入れた後。また違う物を取り出して投げ渡した。
「容量は、前回渡したのと同じ8ギガですまないが、出来るだけ多くの会話を集めてくれ。遊郭を広げたがる者達は、出来る限り把握しておきたい」
「ふん。その中身に入ってる録音だけで、10人ぐらいの首を跳ねれると思うぞ」
鬼人正邪は毒づくが、それ以上の事は言わずに大人しく新しいMP3レコーダーを仕舞い込んだ。
「それじゃあ、助かる者があんまりにも少なくなる。あんまりにも流血の後じゃあ……後戸の国にいる事自体に罪悪感を抱いてしまう。私はみんなに助かってほしいんだ」
「じゃあな!」
忘八達のお頭がまた後戸の国に対して言及したので。鬼人正邪は急いで背を向けて、能楽の稽古場を飛び出した。





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最終更新:2019年07月23日 23:19