「思ったよりも大変な事態かもしれないな……」
依頼人から一通り話を聞いた○○は、また不用意に呟いた。
「○○……依頼人の心労を考えろ」
上白沢の旦那が、また苦言を呟くが。その程度でへこたれるような人間でない事も理解しているから。
自分で言っている言葉のくせに、自分でも分かるくらいに上滑りしていることが。上白沢の旦那にとっては苛立ちであった。
案の定○○は、この旦那からの苦言に対しても生返事すら浮かべずに。
無言のままで、さりとて口元は動かし続けながら、何かを考え続けていたかと思えば。
これもまた、いつもの事ではあるのだけれども。いきなり○○は依頼人の方向を向いた。
「息子さんと仲良くしている方、またそうだろうなと思われる方、男女問わずに書き出してくれませんか?」
そう言いながら○○は、上白沢の旦那が持っていた手帳の。さすがに後ろの方から白紙を取ってくれたが。
それでも横から取って行き、白紙部分を切り取って行くその鮮やかな手際には。
呆れと早業に対する驚きの両方で。『あっ』と言うような間すら無かった。
「はい……わかりました」
依頼人であるこの母親は、無論の事であるが。自分の息子に対する心配と、目の前にいるのが稗田夫妻と上白沢の旦那であると言う緊張感から。
これと言って、まともな受け答えが出来ていなかった。
「なるほど……」
名前を書きだすだけならば、一分もかからなかった。しかしその一分足らずに、この母親が出してくれた情報で。
○○はと言えば、思案顔がさらに深まった。
目の前の依頼人はともかく、それなり以上に付き合いのあるこの旦那にはそれが分かった。
「手がかりとしてはまずここからだな……ひとまず2~3日はください」
どうとでも判断できる抽象的な言葉だ。しかし依頼人にとっては、わらにもすがる思いだから。
2~3日くれと言った○○に対して。動いてくれるとの確約に、今までずっと神妙出会った態度が。それが更に酷くなったのは書くまでも無かった。
依頼人とは一旦別れた後、○○はすぐに動き出した。
とは言っても、稗田家に詰めている人力車の引き役に何事かをいくつか頼んだだけで終わった。
無論の事であるが、その者達は○○からいくらかの報酬を前払いでもらっていた。
○○はこういう時、向こうが構わないと言っても必ず、動いてくれた人間にはいくらか渡してくれる。
だから入り婿の割に、○○は存外良く思われているのかもしれない。
――あるいは、生贄よりはマシな留め金替わり。俺と一緒で――
不意に嫌な思考も頭にもたげてきたが、それはわざとらしく頭を振って追い出した。
「終わりか?」
そして○○と他愛のない話でもして、気分を落ち着けることにした。
「ああ、今のところはね。あの人たちは誠実だから、今日の夜には何か持ってきてくれるよ」
そう言いながら○○は、依頼人から聞き出した。依頼人の息子と仲のいい人物の一覧を眺めた。
「それに、この名前の一部に見覚えがある」
「稗田の婿殿に覚えてもらえるとはな……いやまて、良いか悪いか、どっちだ?」
本来ならば覚えの良さを喜ぶべきだろうけれども、今は依頼が絡んでいる。どっちにでも転べる。
「悪い方。金貸しの顧客名簿で、いくつか見た覚えがある」
○○の意外な副業に上白沢の旦那が驚いていたら、すぐに○○が訂正してくれた。
「稗田家の副業だよ。稗田家は間違いなく上位中の上位の存在だ。だからこそ、里で何が起こっているかの情報が入りにくい時がある」
ここで○○は少し黒い笑みを見せた。
「だから稗田家は、良心的な高利貸しを運営しているんだ。そこで焦げ付く人間は、要注意人物として気を付ける事が出来る」
しかし○○の黒い笑みよりも、『良心的な高利貸し』と言う矛盾した言葉に頭がくらくらしそうであった。
「あの依頼人の息子も、その客なのか?」
「それは今から顧客名簿を見て調べるけれども……違うだろうね。稗田家の奉公人は、その家族も調査しているから」
そっちの線は望み薄という事らしい。まぁ、分かっていた事ではあるが。稗田家がそうそう変なのを掴むはずが無い。
「そうだな……じゃあ今は本当に、外で調べてくれる人たちの報告待ちか」
「そうだね」
上白沢の旦那が仕方がないと言う風に言った言葉も、○○からすれば留め置かれている気分で嫌な物らしかった。
案外活動的なのは、普通は喜ぶべきことのはずなのだが。やっている事と、○○の立場の兼ね合いがそれを。
難しい所では無くて、許さないにまで格上げしてしまっている様相もある。
ここに東風谷早苗がいたら、また歪んだ表情でおとなしくしていろと言ってくるだろう。
上白沢の旦那は、そうは言っても友人だから。歪んだ表情で苦言は言わないが。
「堪えろ」
釘の一本ぐらいはさしておこうぐらいの事は考える。それぐらい○○の動きは、急激に変化してくるのだから。
「いや待て、稗田阿求も呼んで来よう。俺はそろそろ慧音の所に帰る」
しかし、この旦那もいつまでも○○の横にいる訳にはいかない。それにそろそろ妻である慧音の下に帰りたかった。
なので……東風谷早苗の苦言以上に即効性のある方法を取らせてもらう事にした。
そして時刻は夕刻頃にまで針を進めた。
「人力車が止まったぞ?」
寺子屋で採点だったり、次の授業の準備を進めていたら。軒先に人力車が止まったのを慧音が見つけた。
「○○かもな」
慧音の旦那は、『かもな』と言う言葉を使ったが。心の中では全くの断定調であった。
そもそも時間よりも、人力車で乗り付けそうな親御さんは1人も思いつかなかった。
ハイカラ趣味があっても、精々が自転車である。人力車何て言う高級品を乗り回せる人間はそういない。
「ああ、やっぱり○○だ。1人みたいだ」
慧音も、○○や稗田阿求以外には考えていなかったから。軽い物であった。
「お茶でも入れようか?」
「良いよ別に。この時間に一人で長々と歩くとは思えない。お茶なら俺が入れるよ」
慧音も、自分の旦那がまた○○の影響で新しい依頼をしょい込んでいる事は知っているので。さして重大事とは思っていなかった。
「そうか」
稗田阿求がいれば空気も変わったろうけれども。1人で応対するという事に、慧音もそう大きい事だとは思っていなかった。
「上白沢先生は?」
上白沢の旦那が、勝手知ったる態度で稗田邸を訪れるのと同様に。○○も同じような雰囲気をまとっていた。
「奥だよ。慧音にも聞いてほしいのか?」
「いや……別に。昼ぐらいに飛ばした調査員からの報告だが……」
○○の態度が少し重くなった。
「正直依頼人の息子さん、依頼人は心配しているけれども。案外義憤にあふれた人間かもしれない」
態度の重さは気になるが。そのまま聞き続けるしかなかった。
「依頼人から聞き出した、息子さんと仲のいい人間だけれども。全員が稗田の隠れた副業である、良心的な高利貸しの客だった」
旦那はため息をつくしかなかった、しかし。
「依頼人の息子はいないのだろう?」
「ああ、それは確かだ。何度も確認した。他の高利貸しにもそれとなく聞いてみたが、それっぽい奴はいなかった」
それに関しては、良かったと○○が言ったが。上白沢の旦那も同じ気分である。
だが話の肝はそこでは無かった。
「隠し通せることでは無いから、いつかは上白沢先生も気付くだろうけれども。隠されていて不意によりは、今話した方が良い」
○○が明らかに周りを警戒しだした。
「上白沢先生を呼んでくれ。言わないのは不義理だ」
○○は若干迷っていたようだが、結局慧音を呼んでくれと言った。
理由は、隠すのは悪手だからだそうだ。
なるほど確かに、その通りだ……悪い話程、正直に話した方が案外傷は浅くて済む。
しかし、気になる事がただ一つ。○○は明らかに何かを警戒していた。
正直な話、稗田家の婿殿が警戒する事と言えば、正直な話一つしか思いつかなかったし。
自分だって、今更慧音への愛が目減りする訳は無いが。それでも疑念を抱かせないように気を付けている事がある。
……いや、そう言う気配りもあるのだろう。自分と慧音の仲に不用意ないさかいが無いようにと。
○○は気にしてくれているのかもしれない。
事実、○○の表情は珍しく真面目一辺倒であった。これには慧音も、それ相応の態度で挑んでくれる。
○○が依頼の事を話している時も、横から言葉をはさまずに聞いてくれたが。
「私の夫が、また○○君と一緒に依頼を引き受けたのは知っているが……うん、依頼人の息子の事は知っているよ。生徒だったから。少し直情的だが、悪くは無い」
○○程に保護された存在が気に掛ける物には、慧音も1つしか思い当らなかった。
それ故に、態度は硬直する方向に動いてしまう。
○○はただ黙って、硬直した慧音の態度に対しても。真っ直ぐと向き合っていた。
「結論から言おう」
そして話す文章がまとまったのか、急に口を開いてくれた。
「依頼人の息子、その友人が遊郭にはまるのを阻止しようとしているっぽい動きなんだ。何で殴り合いに発展したかまではまだ分からないが」
そして悪い予感程よく当たる。
また遊郭絡みか!!
「…………それだけじゃないんだ」
上白沢の旦那が、また遊郭絡みである事に嘆いていたら。
○○は、皮肉気でもなく面白がっている訳でもない、ひたすらに重々しい表情を作っていた。
「まだ何かあるのか?」
慧音が更に警戒心を込めた声で問うてきた。この警戒心が○○には向いていないとはいえ、こんな態度を稗田の婿殿に取れるのは。
きっと、上白沢慧音だけだろうなと。その夫は思った。
「あるんですよ……さっきも言ったけれど、稗田の隠れた副業である。『良心的な高利貸し』の
それの顧客だと、依頼人の息子の……その友人達がそうだと分かったから
手がかりをつかむために、昼食の後、ずっとそこに詰めていたんだ」
「詰めていた?また変装したのか?」
上白沢の旦那からの何の気なしの質問に対して○○は。
「もっと酷い」
哀れみすらも携えた笑みで首を横に振った。
「その『良心的な高利貸し』の店舗には、隠し部屋が合って。その隠し部屋から客が金を借りる様子を監視出来るんだ。俺はずっとそこにいた」
「……怖っ」
上白沢の旦那は思わず声を上げてしまった。
つまり、隠れて金を借りに来たつもりなのに。隠しておくことなどできずに、種々の場所にすっかりと自分の遍歴を晒されているという事だ。
元より、慧音の夫だから。慧音の名声の為にもそう言う世界には足を踏み入れないと決めていたが。
今の話で、その決意は岩どころか鋼のように固くなった。
第一、情報収集のために稗田家ですら高利貸しの裏稼業をやっているのだから……
「誰が来たんだ?」
夫が世間の裏側に恐れおののいているが、慧音は例え何となくでもそう言う事には気づいていたのだろう。
ややもすれば慧音の今の態度は、何を今更である。
「案の定だが、依頼人の息子の友達が何人か来た。金を借りた後の足取りも見たが、迷わずに遊郭の方向に向かった」
「その友人たちの1人が、依頼人の息子の事だと思う。まじめすぎて困る知り合いがいるとぶつくさと言っていたから……呟いている特徴も依頼人の息子に当てはまっていた」
上白沢慧音は、○○からの説明に首を何度か頷かせるだけ。明らかに続きを催促していた。
「ただ、そのうちの一人の連れが問題だった」
「遊女如きに、何の問題がある」
また慧音の暴論が始まった。遊郭が絡むと、慧音はいつもこうなる。
慧音の夫はたまらずに、自らの妻の背中辺りをさすって落ち着くようにと。たとえあまり意味が無くても、促した。
全く効果が無いわけでは無いので、若干の唸り声はあるが、夫の方に体を寄せて。腰辺りをがっちりと掴み。
遊郭如きが私の夫に対して、手を出せるなと言わんばかりの獰猛な姿であった。
○○も分かっているのか、若干言葉を選んでいた。
「そうですね、遊女如きならここまで深刻には思わない……連れ歩いている女が鬼人正邪でなければね」
「……ほぉ」
慧音の獰猛さに笑みが加わって、さらに迫力が増した。
「確かに鬼神正邪でした。派手な着物や化粧で誤魔化していますが、資料を見返したので断言できます」
鬼人正邪!慧音はその名前を聞いた時、少しだけ笑ったのが横合いにいる夫にはしっかり見えたが。
夫にとっては、今朝がた○○の愛犬の散歩に付き合った時に。倒れている鬼神正邪を見つけたと言う大きな出来事がまだ頭に残っている。
そして鬼人正邪が遊郭で何事かの仕事を持っている事実は、鬼人正邪程の厄介者が。
たかが客引き程度の仕事をするとは思えない。間違いなく今の遊郭に何かが裏で起こっている。
今朝がたの倒れている姿も、全くの無関係とは思えなかった。
……だからこそだろう。
「面白い話じゃないか、何か進捗が合ったら私に聞かせてくれないか?」
遊郭何て一回滅べばいいぐらいに思っている、所帯持ちの、一線の向こう側にいる女性にとっては。
鬼人正邪が遊郭で蠢いていると言う事実は、何事にも勝る娯楽として機能してしまった。
「お気持ちはわかります。阿求も同じことを言ってましたから……でも、依頼人との約束は果たさねばならない」
○○の以来の裏側に見えたことを、稗田阿求も上白沢慧音も面白がり始めたが。
○○は努めて淡々と、依頼人に対しては誠実でなければならない以上の事を言わなかった。
多分これが、○○なりの処世術で自らを守るための立ち位置でもあるのだろう。
こういう場面を見ると、面白い事件が無いかと言う○○の不謹慎な態度も。一線の向こう側にいる人物たちからの。
ややもすれば毒気のある勢いにあてられないための防御反応なのかもしれなかった。
「そうだね、依頼人の息子の事は何と言っても一番心配だよ」
普段は○○の事を妙な面白がりと、悪く思っているこの上白沢の旦那も。考えを改めながら、○○に同調する言葉を紡いだ。
感想
最終更新:2019年07月23日 23:22