○○から促された依頼人は、馬鹿みたいに丁寧な態度はそのままではあったけれども。
早く喋れと言う部分は神託にも近かったから、すぐにそう言う体勢になった。
上白沢の旦那も――忌々しい事に癖となっている――いつも通りの仕草で、手帳を取り出した。
旦那は手帳を取り出した瞬間、自分が何も考えずに手帳を取り出したことに毒づきたくなったが。
きっと毒づかなかったのは防衛本能と言う奴だろう、表情をピクリとも動かさずに、まずは稗田阿求を確認した。
稗田阿求はと言うと、上白沢の旦那がいつもの癖で手帳と筆記具を取り出した様子をしっかりと確認していた。
そして上白沢の旦那が稗田阿求と目があった時。彼女は満足気に、コクリと頷きつつ笑った。
いつの間にか自分の行動基準が、名探偵を気取っている――あるいは稗田阿求から気取らされている――○○の。
彼の行動や思考に強く影響を受けて、自分も次の動きを決めている事には恥の概念が強く鎌首をもたげたけれども……
稗田阿求と喧嘩は出来ない。
結局のところ、相手が稗田阿求である以上。何もできないのが現実なのである、精々が距離を取る程度の事しか出来ないけれども。
その距離だって、稗田家の九代目様自らこっちを捕らえに来る。
諦める事は嫌だけれども、稗田家との喧嘩は出来ない。慧音にも迷惑がかかる。
そうなると結局出来た事と言えば、稗田阿求からの視線を外すこと。ぷいっと、無視するような態度を取るぐらいしか出来なかった。
幸い今は、手元に手帳と筆記具がある。それを注視していれば、体面は立ってくれる。
「はい……では、お話します」
丁度いい塩梅に、依頼人が話を始めてくれた。
「私の息子は、つい先日まではそれはもう真面目に働いて暮らしてくれました。
孝行息子と言うほどの際立った善行は無いのですが、だとしてもまぁ、何処に出しても恥ずかしくの無い息子でした……
……ええ、これまではね」
依頼人はここで話を少し区切って、若干手を震わせながらお茶を飲んで喉を湿らせた。
依頼人から感じる悲壮感と言うのは、前回の頭領がうつろになった事件よりも上だなと感じた。
まぁ、しかたの無い事ではあるだろう。
前の依頼人は、頭領には随分世話になったようだけれども。そうは言っても他人。
今回の場合、依頼人が気にかけているのは、自らの腹を痛めて生んだ息子の事に関わるのだから。
悲壮感で比べるのは、筋違いと言う物であろう。
とは言っても、早く話を進めてほしかった。
○○もそう考えているのか、自分から質問しだした。○○は思ったよりも『イラチ』の気配がある。
「酒ですか?それとも賭博?あるいは両方と言う線もあるかな……?」
○○からの質問を受けた依頼人は、更に苦悶の表情を浮かべた。そして○○からの質問に対して首を横に振るのみであった。
どうやら事態はもっと悪いという事らしい。九代目様の夫様から声を掛けられているのに、はっきりとしない態度には大体訳がある。
「多分どれでもありませんのですよ、皆様方。確かに酒や賭博は、人の身を駄目にする魔力がありますが。
正直な話、そう言った分かりやすい悪癖の方が。こちらとしてもやりやすいぐらいでした。
悪癖の種類が分かりやすい分、そしてよく見聞きする物ですから、悪い例をいくらでも例に挙げて叱り飛ばせます。
しかし……どうやらうちの息子は、日常的に殴り合いをしているようなのです」
日常的に殴り合いをしていると聞いて、手帳に筆を走らせ続けていた上白沢の旦那も思わず手を止めて依頼人の方を向き。
いや、それよりもと思い直し。○○の方を向いたら。案の定であった。
「へぇ、それは…………豪気だな」
○○は少しだけ笑っていた。この少しと言うのが問題なのだ、○○は本当はもっと笑いたかったはずだ。
周りには皮肉気に見える程度には抑えている笑みではあるけれども、付き合いのある上白沢の旦那には違うと断言できた。
どうやら酒や賭博と言った分かりやすい悪癖ではなさそうだと知って、○○と来たら、今の状況を面白そうだと感じている。
稗田阿求はと言えば……コクコクと頷くのみ。つまるところ○○が舞台を踏むことが出来ればそれでいいのだ。
演目が成功する事に越したことは無いが……少々失敗しても、九代目様の権力がある。
「相手は分かっているのですか?その……殴り合いの相手。そもそも殴り合いを日常的にやっているのは確かで?」
どっちも当てにならないと、上白沢の旦那は結論付けざるを得なくて。また依頼人であるこの母親が急に哀れに見えてきたので。
せめて自分だけでも親身になってやろうと思った……
いや、○○も事件や依頼に対しては真剣に取り組むのだろうけれども。依頼人の為を思っているかと聞かれたら。
それは……いささか微妙としか言いようが無かった。
意識しているんぼ甲斐ないのかは定かではないが、依頼人にとって損をするような行動はとっていないのだ。
厄介な事である、これが意識していなかったら余計に厄介だ。
だったらはっきりと、計算していると言われた方が。好きにはなれないが、深慮に感嘆ぐらいは出来る。
「殴り合いをしているのは確かです……ある日息子がいやに遅くに帰ってきたと思いましたら。
挨拶や弁明もせずに、洗面所に閉じこもり。水道の水を大量に使って、何かを洗っているような動きをしまして。
さすがに看過できませぬから。いったい何をやっているのだと言いながら洗面所に乗り込みましたら……
また依頼人の声が詰まった。稗田阿求が黙って、お茶のお代わりを依頼人に差し出してくれた。
上白沢の旦那は、少しばかり『クソ』と心中で毒づいた。
こういう小さな気遣いが積み重なる事の価値を、稗田阿求はよく知っている。
上白沢の旦那だって、分かっていないわけでは無いが。意識することが少ないから、こういう時に出遅れる。
「ありがとうございます、九代目様。お茶のお陰で少し落ち着きました。続きを話します。ですがもう、核心ですので」
案の定、この小さな優しさのお陰で。目の前の依頼人は更に、稗田に対する信仰心を増やした。
上白沢の旦那は、自分もその余波と言うか、恩恵に預かっているのが、それが悔しくてたまらなかった。
「息子が閉じこもる洗面所に乗り込みました所……息子は、鼻や口から血を出しておりまして。それを拭くための手拭いも真っ赤に染まっておりました。
体にもその血は流れているので、急いで服を脱ぎましたが。無視できない程に赤く染まっておりました。
最初は息子が悪癖の影響で、悪いのに捕まって命からがら逃げたのだと思いましたが。正直その方が良かったです。
私に何を思われているのか、すぐに理解した息子は口を開きましたが。
はっきりと言って、アレは的外れも良い所でした」
『今日も勝ったよ!?この血も、半分はあいつからの返り血だ!俺は口の中を切ってと鼻を少し曲げられたぐらいだ!!』
「あんなものが弁明なはず有りますか!いい年をして、殴り合いの喧嘩をしただけでも大事だと言うのに!
その上、勝ったとうそぶいて……すらいません。息子本人は。本気であの日は勝ったと思い込んでいます」
○○はさめざめと泣きながら話す依頼人からの言葉を聞きながら――表情はほとんど見ていない――思案にふけっていたら。
急に、ばっと前を向いて。
「今日『も』?もしかして息子さんは、貴女が息子さんがどこかで喧嘩をしていると気づく前から?」
依頼人の言葉尻を大層気にしだした。上白沢の旦那も、寺子屋で教鞭をとるような身だから、分からなくもないが。
今、そこか?と言う気分はどうしても存在したが。
○○と来たら中々――ともかくとしてはあるけれども――耳ざとくて頭も回っている。
「……はい。息子は服を脱いでいたので、よく観察できてしまった部分があります」
依頼人であるこの母親が、重々しく認めた。どうやら彼女の息子さんは、母である彼女が気づいた時には。
かなり先の方に進んでしまったようだ。
「全身に無数の青あざがありました……体中にまだらのように広がった青あざです。
すぐに扉を閉められて、出てきたときには服を着ていたので背中や下半身は分かりませんが
けれども、前だけでも随分な量がありましたから。無事だとは思えません」
大体の事を話し終えた依頼人は、さすがに声こそ押し黙らせていたが。懐から手拭いを取り出して、大粒の涙を畳にこぼさないようにして拭いていたが。
やはり息子が、それにこの様子だと随分可愛がっている息子が。訳の分からない大喧嘩を日常的にやっていると言うのは。
上白沢の旦那には子供がいないから、完全には分からなくとも。寺子屋の生徒の誰かだと仮定すれば。
この母親の痛い気持ちは、十二分に理解することが出来た。
「息子さんは笑っていましたか?」
依頼人から一通りの話を聞きだした後、○○がまた質問をした。
少し黙っていろと言う気分になったが、案外的を得ている質問の場合が多いのだ。
「はい……○○様の言う通りです。息子はケラケラと、音の鳴るおもちゃが壊れた時みたいに、しばらくずっと笑っていました」
「勝ったのがうれしいのかな?それとも喧嘩そのものが楽しいのかな……勝つに越したことは無いけれども」
そろそろ○○の横っ腹を小突いてもいい頃だと、上白沢の旦那は思ったが。
そう言う気分になる事を稗田阿求は予期していたのだろうか。
彼女は上白沢の旦那と、○○。この間に鎮座している。これではちょっかいも出せない。
「愉悦を感じるねぇ……話に聞くだけだけれども、息子さんから愉悦を感じるよ」
「○○……推理するなとは言わんから。この母親の前で不用意な発言は…………」
横腹を小突くことが出来ない以上、この程度が限界だが。○○には多分聞こえていない。
「青あざで体をまだら模様にさせられているのに、ケラケラと笑える……この愉悦は何だ?」
感想
最終更新:2019年07月23日 23:24