結論から言えば、さすがに相手が○○と言う部分は絶対に存在するとはいえ。阿求は○○の言い分を信じてくれた。
遊郭街の忘八頭との突然の会談は、向こうが仕組んだものなどでは無いと。本当に偶然出会ったから、○○の側が興味をかきたてられて長話をしたと。
1から10まで信じてくれた。これは喜ばしい事である。
けれどもそうして貰うために、敵を作ってしまった。これは○○としても不安この上なかった。
しかもその敵は――正確に言えば忘八頭の敵なのだけれども――全くの虚構では無い物だから、さらに厄介と言うべき状態でもあった。
忘八頭が遊郭街を今の大きさと勢いのままで維持したいと思いつつ、商いの拡大を目論む勢力の動きを。これの妨害を続けつつ、首魁を探している。
そもそもの話の根っこであるこの部分が、掛け値抜きで全くの真実であるから。
○○は阿求に説明をすればするほど、阿求の顔が険しくなっていったが……残念ながらその状態から阿求を解きほぐすことは。
全くと言っていいほど出来なかった。
「まぁ、あの男は存外動き回って自分の目が光っている事を周りに喧伝している。そうそう敵も大きくは動けないはずだ。第一怖くて隠れながらなんだから」
「だからこそ嫌な感じなのですよ、あなた。敵がいると分かっているのに、決定的な動きを見せないで観測気球ばかり。そんなものいくら撃ち落しても……そもそも気球を打ち上げれなくしないと」
○○から投げられた楽観的な観測も、阿求は即座に打ち消してくる。
「まぁね……」
思わず○○も、阿求の言葉に肯定的な相づちを打ってしまった。打った瞬間に『しまった』と思ったが、もう後の祭りである。
「そもそもあの男以外に誰が動いているのか……隠れているだけと思いたいですけどね。まぁ恩は売りやすいですけれども」
阿求は○○の心中を果たして分かっているのか、いないのか。どちらが真なりだとしても、阿求のこの言葉は○○の懸念をど真ん中から打ち抜いてきた。
いや、阿求は妻だから内側からかもしれなかったが。すぐに頭を振って言葉遊びはしまいにした。
しかしこれと言って、良い提案や話題を持っていくことも出来なかった。
一度あの男、忘八頭に現在の状況を聞いてみたらどうかとも思ったが。
そもそも阿求も、そして旦那同士で仲がいいと言うつながりのある慧音にしても。どちらともが遊郭街の事を快くは思っていないどころか。
その気になれば一ひねりできると言うぐらいの立場、もしくは戦力を有していたのを思い出してしまっては。
ロクな対案が出せなかった。
つまるところあの遊郭が、こんな状況でもまだ存続を許されているのは。
一線の向こう側にいる女性たちは、強さや権力こそあれど。決して多数派では無いからこその妥協案でしかないのだ。
遊郭など、潰れてしまうのは案外と混乱のもとになるなと思い直して似たようなのを黙認するかもしれなかったが。
そこまで至る間に、今の遊郭は何回か破滅を迎えねばならないであろう。
「まぁ、おいおい考えますわ。お夕飯まではあと10分ぐらいですかね……」
結局、話の転換をうまく迎える事はおろか、時間稼ぎとしてのつたない会話すら出すことが出来ずに。
阿求は食事の時間がまだ、すぐには来ない事を確認して。○○の膝の上に少しばかり跳ねながら乗った。
「おっと……」とは言うが、相手は小柄な阿求だから。一般的な身体を持っている○○は特段の動きを見せずに跳ねて飛び乗る阿求を抱える事が出来た。
阿求の事を頭頂部から観察していると、阿求が少しばかりこちらの体にほおずりをするような恰好をしながら。
そうしながら、鼻をヒクヒクと動かしていた。
それだけではなく、○○が来ている湯上り後の肌着を少しばかりはだけさせても来た。
「阿求?」
夕食後ならばともかく、まだ始まってすらいないこの時間。しかも大体10分前という事は、そろそろ女中が呼びに来てもおかしくは無い。
最も阿求は、見られても構わないと考えているのだろうけれども。
ねじ伏せると言えば聞こえは悪いが、問題にさせない、あるいは見なかったことにしてもらう程度の力は間違いなく存在していた。
だから気にするだけ意味が無いとも言えた、全てが阿求の御心次第である。
そもそも先ほど、風呂場に阿求と一緒に入って行く姿は数多の奉公人に見られている。
隠す必要が無いと言うよりは、隠そうと言う努力すら存在していない。むしろ見せに行っている以上、もはや○○が気にする必要すら無かった。
「うん……まぁ、永遠亭謹製の薬用せっけんですからね。清潔な香りだけですね。少なくともさっきの、遊郭の匂いは消えましたね」
少しばかりはだけさせられた○○の肌に、阿求は鼻先をくっつける。
もちろんそれだけでは終わらない、鼻先を更に押し付けて行き。人体の中でもさほど固くも無く、また小柄な阿求の鼻はやっぱり小さいので。
やすやすと形を変えて行き、また小さい事もあって阿求の唇が○○の肌に触れた。
口づけならば、あまりおおっぴらにやるような話でもないので外ではめったにしないが。
夫婦である以上、更には阿求の方が○○に対して――苛烈に――惚れている以上。
口づけは何度も行ってきたから、そして口づけの際の習慣として今回も目を閉じたが。それでも断言出来てしまえることがあった。
阿求は○○の体に、舌をはわせたのであると。唇以外の生暖かい感触は、この場においては刺客以上に鮮烈な刺激となって○○に状況を伝えてくれた。
「――阿求?」
まだまだ夜には早い時間なので。○○は少しの間を作ってしまったが、その間で落ち着きを取り戻し。
阿求にやや強めに阿求の名前を呼んで、今はその時では無いはずだと伝えたが。
「なんでしょう?いつもと感覚が違いますか?それでしたらどうかお許しくださいな……私も先の事をどうしても忘れるために、たかぶっていますの」
確かに痛くは無いが、いつもより強いのは感じた。それの強くなった原因が、阿求の執着心がなせる業だと言うのも同時に理解できた。
「○○、あなたが私に付き合ってくれる対価として。あなたの知的好奇心と冒険心を満足させることに手を貸すこと。喜んでやりますわ。これからも」
「でもね、遊郭街の事には……深入りしてほしくないのです。あそこは蠱毒(こどく)です。その結果生まれたのが忘八頭と言う、遊郭と言う蠱毒に最適化された人格なのです」
「アレにだけは不必要に関わらないでください。蠱毒の持つ甘い香に惑わされないでください。せめて私の目の届く範囲で、遊郭街をもてあそんでください。でも買わないで」
「お望みとあらば、遊女と同じような事も。知識ならありますからいくらでも出来ます。でも遊女と違って私はあなただけにそれをやるのです」
小柄で、背も同年代同性の者達と比べれば阿求の体躯は小柄なはずなのに。
言葉と言う、最も難解な意思疎通の方法を持つ存在だからこそ。阿求の紡ぎ続ける言葉の重みが、小柄な体躯を援護……それどころか。
それどころか、阿求が小柄であるからこそ。必死で紡ぐ言葉が持つ重みは、否定することに対する罪悪感すら聞くものに与えていた。
その上この阿求の○○に対する独白は、遊女がやるようなこともできるけれどもあなたにしかやらないと言う独白は。
いやしくも男である事を自覚している○○には、これを拒否する事は自分自身の価値すらも乏しめることになると。
そう考えざるを得なかった。
結局○○はまだ時間が早いとして最初は難色を示した、阿求の艶っぽい動きを。突き放すことなどできなくなってしまい。
少しばかりはだけた○○の裸体に、阿求が頬や額や、後は唇に舌。これらをこすりつけたりはわせたりするのが、これ以上激化しないように。
ただただ、阿求の頭をなでながら。
「俺の方こそ阿求には感謝している。積極的に生きる事も、さりとて終わる事も考えていなかったから。鮮烈な生き方を提供してくれた阿求に、本当に感謝している」
「稗田家の家名も利用しているような気はするが……問題解決人○○は、早世したとしても歴史書に載るさ」
阿求を落ち着けるためではあるけれども……しかしながら○○のこの言葉だって真意なのである。
「載せます。私が持ちうるすべての権力を使っても、あなたの名前は残します」
それに対する阿求の返答は力強くて。
「じゃあ、安心だ。九代目様にそこまで言われたのなら」
その余りの力強さに○○は、安堵感もあるけれども苦笑をせざるを得なかった。
気が付いた時には、女中がいつも夕食を呼びに来る時間を過ぎていたが。
阿求がチラリと時計を見て、○○の小膝から降りてくれたものの数十秒程度で。
「お二方、お夕飯の準備が整いましたので……」
待っていましたとばかりに女中が呼びに来てくれた。つまりみられていたという事、そう考えて間違いは無い。
それに気付かされた時○○は、ヒュウっっと言う風に。苦笑では無くて、変な音を出しながら笑ってしまった。阿求は気にすることはないと言う風に背中を叩いてくれて。
そして女中は、いつも通りの表情と振る舞いでこちらを注視しないように努めてくれた。
よく訓練されている。これならば稗田家の奉公人が高給と言うのも、うなずける。
夕飯のお膳がいつもの、正面で相対する形では無くて。新婚ホヤホヤのように隣り合う席にされていたのには。
また再びヒュゥっと、今度はさっきよりも変な音大きくなってしまったが。女中も他の奉公人も相変わらずであった。
「阿求?」
夕飯前に――遊郭の匂いを消す為に――お風呂には入ったので。夕食後はのんびりしていた。
蓄音器でレコードでも聞いたり、読みかけの本を開いたり。そう言う、特筆すべきことはないけれどもだからこそ平穏と言える時間だったので。
「……阿求か?こんな時間に起きるのか?」
「あら、あなた。ごめんなさい起こしてしまって。お手洗いの方に行ってきます」
「阿求、俺の羽織りを被って行け。冷えるのは体に良くない」
もぞもぞと阿求が起き出したので、どうしても思い出してしまった忘八頭との会談があったが。
阿求の動きにやましそうな部分は無い。なので○○はすぐに阿求の体を心配する方に頭を動かして、枕元に置いてあった自分の部屋用の羽織りを掴んで渡した。
そこで阿求に対する心配とか、疑念と言うのは消えてくれた。少なくともその時は。
ただ、阿求の動きは結局。最後まで付き合ってくれる○○に対する、感謝からの動きでもあるのだ。
○○が知的好奇心を満たしたいと言う、ある種の性癖を満たしてくれるように動くのである。
「……?」
翌朝○○は、部屋着の袖に付いた墨汁のシミに気付いた。
ほんの小さなシミではあったけれども、部屋着の柄が黒に対して相性が……この場合は良いと言うべきか悪いと言うべきか。
とにかく墨汁の黒がはっきりと確認できた。
「あら、どうしましたあなた?何か面白そうな……そう、知的好奇心が満たせそうな何かでも…………」
部屋着の袖に付いた墨汁のシミを見つめながら、どこで付いたかを。その可能性に考えをめぐらせていたら阿求が声を後ろからかけてきた。
出来れば考えたくなくて、意識的に阿求が関係している可能性は頭の隅に追いやっていたが。
とうの阿求の方から、掘り起こして○○の前に提示してくれた。
「フランドール・スカーレットに手紙を?」
「半分正解です。出した手紙は正確には二通ですけれども、文章量は一通と半分程度ですかね……もう一通はまじめに書く気がしなかったので」
あの男……○○の脳裏に忘八頭の。それも疲れたような表情が見えた。
やはり自分は、あの男にかなり同情心を抱いていた。せめて少しはゆっくりと休める時間を、与えてられても良いのではないか。
「厄介なのを見つけるだけではね……ツバを付けて飼い殺しにするつもりなのでしょうけれども。あの手合いは荒事が無ければ作りに行きますから。そうでなくても思慮に欠ける」
阿求は首を横に振って悪く笑った。
「この後どうするつもりだ?今度は何人死ぬ?」
「あはははは」
○○は聞き咎めるような態度を取りたかったのだが、上手くいかなかった。阿求の笑い声に反応できなかったのもそうだけれども。
「あなた、顔がほころんでいますわよ。何も起こらないはずが無いと言う、期待に満ちた目!動いた甲斐がありましたわ」
阿求がほころんでしまった○○の頬に笑いながら手を触れて、口づけも行った。
そこに奉公人の声が聞こえてきたが。声だけであった。イチャついているところを見ないようにと言う配慮だろう。
「九代目様。『あそこ』から『アレ』よりお手紙の返信が届きました」
抽象的な言い方だけれども、遊郭街。そこの忘八頭からの手紙以外の何だと言うのだ
「ありがとう、もう下がって良いわよ」
阿求は普段の手紙と違って、雑に封を切って中身を検める。
幸いにも阿求は、○○の横に立ってくれた。今回の手紙は一緒に見ても良いらしい。
そこには何名かの人名が書かれており、全て頭領の家で世話をしていた派手な連中だと阿求が言った。
そして手紙の末尾には、稗田家にこの者達は一任いたしますとの文字が。
しかしこの『一任』の二文字には、酷く残酷な意味が隠れているのは言うまでも無かった。
「残念ながら今日明日の話では無いのですよね……頭領さんは自分の財産をあの依頼人にすべて持って行ってほしいぐらいですから。あの遺言は有効活用しないと」
「一応、機会は与えますわよ?悔恨があればそれでよし……」
阿求は慈悲深く逃げ道も用意していたが。そもそも一番初めに慈悲を与えたあの頭領へ、まともな仕事を与えてくれたと言う意識も無いのでは。
これはもう、連中は詰んでいる。
「あなた、頭領さんの遺言状は、遅くとも明日までには私が手直しをして完成させますから。明日は遺言の執行見届け人役の為に午後は少し時間を下さいね」
もう終わりかけの依頼だと言うのに、少しだけ楽しくなってきてしまった。
「おい」
だが慧音の旦那は、そんな事考えもしないだろうし。基本的に彼は平穏無事であれと願いながら生きているから。
退屈を紛らわしてくれる事件を望む○○とは、酷く相性が悪いはずなのに。
一線の向こう側と知りつつ、そう言う女性を娶ったと言う共通点が。旦那同士に連帯感を持たせてくれていて。
それが、仲よくは無くとも上手く付き合いたいと言う意識を作っていた。
「聞こえていないのか?お前、何をニヤ付いている?」
しかし遺言状の執行見届け人の役目を果たす為の道すがら、慧音の旦那が。自分の妻である慧音よりも、そして○○の妻である阿求も気にせずに。ツカツカとやってきて。
そして心中を喝破されてしまった。
「怒る気力も無いが、気になるから言え。この先何がある?」
「今日明日の話じゃない」
○○は阿求の言ったのと同じようにはぐらかしたが。
「それでも構わんと言っているんだ」
はぐらかせば、はぐらかすほど。慧音の旦那は追いかけてきて、先よりも強く噛み付く。
きっと言わないままであったら、このまま見届け人の役割が終わっても。稗田邸まで追いかけてきて聞き出してきそうなほどであったが。
この旦那が持つそう言う性格は、阿求の方も熟知しているので。阿求はニコニコと場にそぐわぬ顔をしながら。
「遺言状は私が大幅に手直しをしましたから。最後まで聞けば分かりますわ」
そう言うのみであった。
「何か罠を仕掛けたのか?」
九代目の完全記憶能力者自らの差配には、さすがにこの旦那もひるむが。聞かせろと言う部分は徹底していた。
○○と阿求の両方に目をやるが、阿求は笑うのみで。
○○はと言うと「実は全部は読んでいない」物凄く軽い発言でいなされてしまった。見届け人がこれで良いのかと言われても仕方ないであろう。
慧音の旦那は諦めて、妻である慧音の方に戻って行った。慧音はそれを優しく迎え、稗田夫妻に対しては。
「お手柔らかに頼むよ」
と言うのみであった。
「ひとつ」
頭領の居宅兼事務所にて、阿求の荘厳な声が響く。
見た目はあどけなさすら見えると言うのに。声の張りには、有無を言わせない重みが。
半端な人生では作れないはっきりとした威圧感すら存在していた。
「小さな金庫の中身は、頭領の私的な書類の処分方法も含まれているため。出納長を管理しているこの者がすべてを持っていく物とする」
「それ以外の財産および、家業における道具も含めた品々が収められている倉庫の中身は。猟に使う鉄砲など以外はすべて現金化して。出納長管理人以外で等分せよ」
「居宅兼事務所に関しては…………」
阿求はここで言葉を切ったが、その意味はすぐに分かった。依頼人の青年を見たからだ。
「私は出て行く。次の住処である部屋も確保したから、荷物……まぁほとんどが書物だがな。それを全て移動させてすぐに出て行くよ」
書物が殆どと言う部分に対して、依頼人の青年は確かな優越感と嫌味を。遊郭に利用されている派手な連中を見ながら言ってのけた。
はっきりとは言わなかったが、この依頼人は、派手な連中は読み書きの能力すら危ういと思っているのではないか。
引っ越しに関しては実を言うと、○○も少しは手伝おうかなと考えていた時。頭領の、少しは残った書物はどうするのだろうと考えていたら。
『紅魔館から来ました』
とぶっきら棒に答えるメイドが、妖精を何匹も連れてやってきて。
阿求が遺言状の内容を朗読して確認させるのもお構いなしに、二回の頭領の部屋へ登って行き。
空が飛べるからと言うのもあるけれども、あっという間に全てを箱詰めしてしまい。
『失礼いたしました』
そう言い残して、何匹もの妖精の先頭に立って。飛び立ってしまった。
頭領の急な引退宣言、生きているはずなのに死んだかのように始まる身辺整理。
それ以前に、稗田家の屈強な男衆が朝一から自分たちを探し出して、頭領の居宅に連れて行かれ。
そして何よりも、『紅魔館』が頭領の持ち物を全部持って行ってしまった。
退治屋をうそぶいていると言うのに、オロオロとしていた。
そう言う時の覚悟も含めて、退治屋をやらねばならぬと言うのに。
依頼人の青年は柄にもなく、慣れないタバコを吸って何度か咳き込んでいるが。
そんな様子にも派手な連中は嘲笑すら漏らさずに、連中どうしで無駄な話し合いをするのみ。
(面白そうだ、聞いてやろうじゃないか)
慧音が自分の夫や稗田夫妻、依頼人に耳打ちしてきた。慧音も珍しく、悪い笑みを浮かべていた。
しかし話し合いの内容は、実に利己的であった。
結論から言うと、しばらくは金に困る事はなさそうだからまだマシと言うらしい。
やはりまともな仕事を与えてくれた頭領を、疎んじていたようだ。
これには依頼人も、吸おうとしたタバコをしまって。無駄に咳き込まないように努力したくらいであった。
「あの……」
派手な連中の中から、まだまとめ役らしき人間がおずおずと声を出した。
「この建物はどうなりますか?」
そう言いながら、依頼人の方に目を向けた。この依頼人が一番真面目で、付き合いも長く、金銭の管理もさせているから。
彼が受け継いだら住処はどうなるのだろうと考えたのだろう。
阿求が小さくため息をついたのが、○○の目には見えていた。
「長年出納帳を管理していた彼が受け継ぐのであれば彼が……そうでなければ」
「いらんよ、俺は……」
必要ないと言う態度に、連中が明らかに喜んでいた。腹の底すら隠せないようでは、阿求に一任されずとも蠱毒の遊郭で長生きは出来ないだろう。
「でしたら、皆さんで相談の下。受け継ぐ人間を決めるようにと書かれています」
書かれていますではなくて、阿求がそう書いたの間違いのような気は○○もしたが。
依頼人に限りなく有利に運ぶように出来上がっているので、文句は言わない。
「最後に……遺産の相続者たちが3年以内に死去した場合。残りの相続者たちによって現金や財産は等分とすること」
阿求が遺言状の最後の部分を読み上げた時。
慧音は歯を食いしばって笑わないようにして、その旦那は稗田夫妻の特に○○をにらんで。
依頼人の青年は優しくて。哀れみを持った目を、この場で初めて見せた。
感想
最終更新:2019年07月27日 23:09