「…………」
鬼人正邪は、引手茶屋にてひいき客を待っていた折。何となしに辺りを見回してみたら。
「誰が動いてるんだ?」
何となしに、屈強で厄介そうな男を何人も見つけてしまった。
そしてその男たちは何かや誰かを待っていた。
「正ちゃーん」
誰かの命令や、何かに属している者達が何を待っていて。何の利益が合ってその命令に服従しているのだろうか。
あるいは。
「正ちゃん、今日も来たよ。よかったよかった、今日は俺が一番乗りみたいだ」
ひいき客の何人かは、金貸しにまで足を運んででもこの遊郭――あの忘八頭の言う通り、ここは苦界だ――に通おうとしている者がいる。
馴れ馴れしく私の偽名を呼んできたこのひいき客も、その度し難い手合いの1人だ。
「あらぁ~」
顔だけは崩しながら、正邪は目線の方では目ざとく。辺りをうろついている、おおよそカタギとは思えない男の方をもう一度見たら。
はっきりと見えてしまった。カタギでは無さそうな男は、1人や2人では無かった。
先ほど、自分が一番乗りだと言って喜んでいたひいき客が。一分足らずで自分をある意味では狙っている他のひいき客が。
その姿を認めて、小さく舌打ちをした音など。こんなものはどうでも良い。
二人目のひいき客にも、カタギとは思えない屈強な男が付きまとっていたのだ。
これは……偶然である物か。
「ふふふ」
二人目のひいき客にも一人目と同様に。よく分からない笑顔を向けながら、ひいき客の方にはあまり目を向けずに。
何度も何度も、そいつらの後ろ側に何かが無いかを調べていたら。
(おいおいおいおい!?)
二人ともに尾行の存在がいたことは無論驚きではあるが、につき一人につき一人と言う順当な人的資源の使い方をしていなかった。
一人につき二人は付きまとっていた。鬼人正邪が確認できただけでこの人数である。
これにはさすがに、いつもの演技の鋭敏さが思わず停滞してしまい。
張り付いた笑顔のままで二人のひいき客を尾行する、四人のおおよそカタギではない男。

偶然のはずが無い。おおよそこの輪っかの中身に、鬼人正邪は巻き込まれていると考えてよかった。
何か。
何か共通項があるはずだ。
「いつもの遊女さん、今空いているか調べてくるわね。お酒と料理はいつもの感じでよろしいかしら?」
とにかく今は考える時間が必要だ。
いわゆる常套句を使って、引手茶屋の奥の方向に正邪は逃げ出して。とにかく落ち着ける時間を作った。
二階に移動して、窓からもう一度外の様子をうかがう。


やはり外の様子に変わりは無く、二人のひいき客を尾行している四人の屈強な男は。お互いに相手の事を目線で返事らしきやり取りをしながら。
さりとて会話すれば尾行の存在に気付かれる事を危惧して、四人が四人とも。
遊郭街をぶらついて、暇つぶしのような冷やかしのような態度を取っていた。
しかし、必ず誰かが残っていた。偶然とはいえ尾行者四人が一堂に会した事で、役割分担は楽に行えたようである。
皮肉な話だ。

しかし皮肉気な様子と言うのは、留まるところを知らなかった。
「嘘だろう……三人目にも尾行がいるぞ」
正邪はこの事実に、愕然として。へたり込みそうになるほどの衝撃に襲われたが。
そこは、伊達にアマノジャクを名乗っていない。
忘八達のお頭の間諜として動きつつ、あの男から色々と優遇待遇を貰って。それでいていつも通りに振る舞う事に美学を感じているのだから。
そして遊郭ほどの裏表の激しい空間こそ。喋る言葉と腹の底の、余りにも大きい隔たりのある遊郭こそ。
アマノジャクにとっては、精神によって生きている人外にとっては。
最高級に面白くて生き生きと出来る場所なのだ。

とにかく、今はこの三人のひいき客を捌かなければならない。もっと言えば、さっさとお気に入りの遊女をあてがって。
お引き取り願いたかった。
……無論、あの三人の狙いは十二分に分かっている。
スケベだから遊郭でも遊ぶけれども。一番の狙いは、自分。
この鬼人正邪が――連中は自分が鬼人正邪とは知らないけれど――狙いなのだ。自分を抱こうと動いているのだ。

「ふんっ」
三人のスケベ心に対して、階下にもう一度降りて行く際。鼻で息を鳴らしながら、中指を立ててやった。
見えない所では、遊女と言うのは案外こういう物だ。
たまに客も遊女も本気になりすぎて、曽根崎心中(※)よろしく身投げする者どもはいるが。
圧倒的に少数派であった。だから心中物の人形浄瑠璃や歌舞伎は作られるのだ。
珍しい話だから、耳目を引いてくれるのだ。


「あらあらあらぁ~貴方の事、上の窓から見えたわよ。取りあえずお酒はいつものこれで良いかしら、遊女もいつもの子で?」
階下に降りた正邪は、驚くほどに移り変わりが。素の表情と演技の間にある幅が広かった。
引手茶屋の女、正ちゃんことその正体は鬼人正邪であるとは。
この引手茶屋にて働いている奉公人や、番台に座って計算している者達は知らないが。
しかしこの客前に出ているときの表情と、普段の表情のあまりに大きい差は皆知っている。
番台に座って、収支表やらを繰っていた旦那は。思わず鼻で息を漏らして。
下卑たように面白がる音を漏らしたが。
客はみんな、女を前にして鼻の下を伸ばしているし。聞こえた者がいたとしても、それは引手茶屋の人間。
何も問題は無かった。


奇しくも正邪こと偽名を正ちゃんのひいき客である三人が、最も番台に近かったが。
一番のお目当てである正ちゃん――鬼人正邪なのだけれども。それを知っているのは、こいつらの友人だけ――を前に、必死であった。
何せこいつら、恋敵が真横にいるから。必死で、目当ての女と、鬼人正邪こと今は正ちゃんの偽名を使う女と会話しようとしていた。
誰かが話しているのに、少し思い出そうとしただけで、そこに間髪入れずに違う話題を二人のうちの誰かがぶっこんでくる。
話好きの輩は、とにかく自分以外の誰かが話すのを嫌がって。部屋の奥にいようとも右往左往しながら話を始めだすことがあるが。
今のこれは、それよりも酷い。ただ自分の話がしたいのではなくて、目の前の女を他の物に取られたくないがための。
必死のあがきなのだから。醜いことこの上ないが、鬼人正邪からすればそれが中々、面白かった。
けれどもそろそろ、早く呼んだ遊女が来てほしい物だとしか思えなかった。
それに今日は、こいつらは気づいていないけれども。外にカタギではなさそうな屈強な男が。
それがこいつらを尾行して見張っている。

あらぁ~とか、そうなのぉ~とか、うふふとか。正邪はその程度の言葉でしか、三人を扱っていなかった。
相づち未満の言葉だけを、特に今日はそれが酷かったが。この三人に三人とも、二人の尾行者が付きまとっているのだから。
合計で六人の尾行者が、この引手茶屋の近くをうろついてるのだから。
なまめかしい相づちを打ってやっているだけ、優しいとすら思ってほしかった。
――けれども、この三人の友人のあいつ。この三人はアイツの事を友人とは思っていないだろうけれども。
正邪の中で考える事と言えば、もっぱらあいつの事であった。

昨晩は、少しばかり戯れが激しすぎて。一昨日は自分が寝転がっていた場所で、あいつは性も根も尽き果てて倒れてしまった。
寒くしないように、上着を脱いで布団のように掛けてきたが。
彼は、大丈夫であろうか。

自分に対する、初めは手を引いてほしいと言う説得。そのうち口喧嘩。
今ではこちらと彼、どちらが先に根を上げるかの根競べともいえる。野外での大乱闘。
――衣服がはだけたことなど、一度や二度では無い。でもそれこそ、鬼人正邪が求めていた物である。
こいつらを破滅させるのは、こいつらの事を慈悲深くも友人と思っている彼。
そいつと会うための、下準備にしか過ぎなかった。
こいつら相手に肌など、許すはずも無い。布団もお香も酒も食事も無くて構わない、野外で構わない。
こいつらを慈悲深くも助けようと必死になる、彼。彼との大乱闘こそ、この私、鬼人正邪は求めている。


ようやく三人とも、いつも使う遊女が来てくれたので。それを見送った後、正邪は二階に引き取って。顔の筋肉をほぐしていた。
「大変だったな」
横から、この引手茶屋の親分が声をかけてきた。
先ほど、番台で収支表を繰りながら鼻で笑ったあいつだ。
相変わらず、先ほどの事を思い出しては皮肉気な笑みを浮かべているが。それは外に向いている、正邪の方には向いていない。
最もこの男も、自分の事を鬼人正邪とは知らず。氏名不詳の、自称を正ちゃんとしか思っていない。
この遊郭で自分の正体、鬼人正邪であると知っているのは。忘八達のお頭とその隣にいた従者のような男だけだ。
外では、多分、あの三人を助けようとしている彼だけだ。
早く彼と大喧嘩がしたかった。いつもの、あの、暗いけれども人里の端っこだけれども、開けた場所で。

「気付いてたか?あの三人が三人ともに……」
正邪が彼の事を思い出していると、引手茶屋の親分が少し真面目な面持ちになった。
さすがに親分ともなれば、そう言う事に気づけるものらしい。と言うより、気づけるように自らを訓練したからこその今の立場なのだろう。
「ああ、三人共に尾行がいたな……二人ずつ、合計六人。人手を豪華な使い方してるなとは思ったね」
「やはりな、思い違いでは無かった」
正邪が気づいた通りの事を、この親分も気付いていた。
「どこから尾行を送り込まれたと思う?」
正邪は何となしに聞いたが、もう記憶の参照が終わっている正邪には一つの答えしかなかった。
「高利貸しに目を付けられたんだろうな。年齢と仕事と、家柄。その割に女遊びが激しかったから、金貸しの世話にはなっているとは思ったが」
この親分と同じ、そう言う予測を立てていた。

「あの連中も、そろそろいなくなるな。まぁ、儲けさせてもらったよ。お前も儲けたろうけれど、深入りはするなよ」
親分はそう言って話を終わらせてどこかに行ってしまったが。鬼人正邪はまだ思考していた。
だとしてもだ、それにしたってと言う考えが出てくる。
ただの高利貸しにしては、人手の使い方が豪華だ。
それにあの尾行している連中、皆が顔見知りっぽい動きをしていた。
同業者だから、目線で少し挨拶をする以上の物を正邪は感じた。
「確か同じ高利貸しを使っていたな……それだけで終わるか?他にどこかに、根っこがあるんじゃ」
あの男、忘八達のお頭に聞いてみるか。


掛け時計を見たら、もう上がる事が出来る時間だ。あいつら、ぐだぐだと長話しやがって。
「正ちゃん、もう上がりだろう?大変だったな、今日は!」
階下に降りたら、親分がそう言ってくれたので。言葉通りに正邪は引手茶屋での今日の仕事を後にした。

そして正邪は、適当に食べ歩きをしながら。誰も付いてきていない事を慎重に確認しつつ。
忘八達のお頭の邸宅に通じる、秘密の裏道を通って行った。


「やぁ、鬼人正邪」
忘八達のお頭の私室の扉を開けたら、その男はそこにいた。
大人しく、そして丁寧に。収集品と思しき能面を、翁の能面を綺麗にみがいていた。
今日は従者らしき男はいない、話がしやすくて助かる。
「今日は、彼はいないよ。彼には基本的に遊郭宿からの定例報告をまとめてもらっている」
正邪の目線に気付いたのか、忘八達のお頭が補足を入れてくれた。
「後はまぁ……私が直接出張る前の、警告も伝えてもらっている。私が出れば、最悪の事態になりかねない」
忘八達のお頭は、昨日に置いて、反意を企てているうちの1つを。そいつを処断した事がまだ心に悔いを作っているようであった。
ここまでの権力者なのに、血を見るのが嫌いとは。珍しい話だ。
しかし、それはどうでも良い。


「気になる事があってね。私の今日来たひいき客が、三人が三人とも、尾行があった。それも二人ずつ」
話を始めると、このお頭はすぐに思考を現実に戻してくれた。
「二人ずつ?合計で六人?人手の使い方が豪華だね。気になる」
やはり最高権力者ともなれば、こういう時は頭の周りが早い。
「高利貸しに目を付けられたとも考えられるが……それにしたってな」
そう言って正邪は、その三人が使っていた高利貸しを上げて行った。
遊びが派手なだけあり、同じ高利貸しを使っていると言う、被りもあったが。
ただ、三人が三人とも使っている高利貸し。その、とある高利貸しが問題であった。


「稗田の高利貸しだ!!その尾行も、稗田の人間だ!!」
忘八達のお頭の顔が、真っ青になって。
きっと大事な物なのだろうと言うのは分かっていたが、翁の能面を必死に抱える姿は。
こいつの中に有る、余りの信仰心の高さに。正邪も恐怖した。



※曽根崎心中(そねざきしんじゅう)
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が執筆した、人形浄瑠璃の演目
内容は正邪が言った通り、遊女と客との悲恋および心中もの
この話が流行したことにより、心中ものと言う新しい演目が出来上がるが。それと同時に遊女との心中も増加
江戸幕府は、心中に歯止めをかけるために。同作を含めた心中ものの上演を禁ずるまでに至った





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最終更新:2019年07月30日 22:42