「ああ、うん。そうだね」
○○は東風谷早苗から手渡された射命丸の執筆している新聞を手に取って、生返事を浮かべるのみであったが。
酷く残念なことに、それがある種の防御としては最良なのだ。
「何だか界隈が、人里の奥の方がまたきな臭く動き出してきて……こっちも心配なのですよ」
ただ○○が生返事を浮かべる事に関しては……早苗も――ため息交じりだが――仕方ないと判断していた。
……○○の嫁は稗田阿求なのだから。
彼女は、一線の向こう側。自分以外の妻以外の女をあてがう機関である、遊郭の事など。
どうなっても構わないどころか、放っておけば破壊するために出向きかねない。
それがギリギリのところで実行されていないのは、○○の方が、夫の方が一線の向こう側を妻にしたと言う。
その自覚を強く持っていてくれているからに過ぎない。その努力は、東風谷早苗としても認めなければならない。
「○○さん、貴方の常日頃からにおける努力。自らの立ち位置を、寸分たがわずに理解しての行動には敬服しますよ?」
理解はしているからこそ、いくらかは労いの言葉を掛ける事も出来ているけれども。
しかしながらトゲが多い。
「しかしですね……うちの神社に参拝したり、信仰してくださっている方の多くに。人里の住人がいますから」
だがそのトゲだって。守矢神社の参拝客の内訳を考えれば。
「精進落とし(※)って概念、○○さんならご存知ですよね?」
「ああ、知っている。聖と俗は案外と相性が良いからね。と言うよりも、どちらか一方だけでは、どちらともに繁栄は難しい」
それに精進落としだのなんだの言って、女遊びも含めた遊びをする事が多い信仰者たちの事も考えれば。
東風谷早苗が今回の事態を、座視する事が出来ずに○○に対して今回の内情を聞き出そうとするのは。
信者を守ると言う責任感もあるだろうけれども、神社だって案外商売気を出さなければ生きていけないから。
信者が減ればそれだけ神社がさびれる。
さびれて、忘れ去られることを防ぐために幻想郷に進出してきた東風谷早苗からすれば。
客が不慮の事態で一気に少なくなる。
神社と言う商売を考えた場合、老衰や大往生以外で、信者に不幸が集中すると言うのは致命的だ。
「うちの神社としては、精進落としと言う概念もありますし。信者が遊郭で遊ぶこと自体は別に良いんです。遊郭の出先機関にはさせませんけれども」
○○の脳裏に、以前の事件。
八意永琳の――狂言だと知っているのはこの場では○○と東風谷だけ――誘拐事件だ。
事実の一部は巧妙に伏せられているが、遊郭内部の反体制勢力が、守矢神社の境内近くで。
新規の客を漁ると言う、随分と向こう見ずで。落とし穴の上で踊りを踊るようなまねをしていた。
出先機関と言う単語を使ったのは、その事を差しているのだろう。
「理解しています。神社と言うのは、見えない物を売っていますからね。平穏や安定を売る商売としては、遊郭のいざこざに巻き込まれるのは神社の評判に関わる」
「それもありますが……」
東風谷早苗はここで一言区切って、周りを見た。
幸い、ここは人里の中だ。
守矢神社の巫女と、九代目様の夫が何か話し込んでいれば。
周りは自動的に、素恋異常に真面目な話だと考えてくれる。結構な往来で話をしているのに、皆こちらを避けて。
密談をしやすい雰囲気を作ってくれていた。
「……はは」
その雰囲気、○○は有り難いと思ったが。東風谷早苗はうすら寒い物を感じたようであった。
どうやら東風谷早苗の方が、まだ感覚としては外の物を残しているようであった。
この雰囲気を有り難いとしか思わなかった○○は、自分が随分と幻想郷の空気になじんでいると。
今になって分かった。
「まぁ良いです」
しかし早苗はすぐに話を戻した。うすら寒い物を感じたが、もしくは感じたからこそ。早く進めたかったのかもしれない。
「実は今、うちの
諏訪子様が遊郭街に出向いて。忘八さん達のお頭と会談をしているんです」
もっと別の可能性としては、東風谷早苗は中間管理職故に。
この事態の早期収拾こそが、苛まれずに済むと言う実に現実的な考えかもしれなかった。
「
諏訪子……洩矢諏訪子が?東風谷さんの神社の、二柱のうちの一柱が?」
「ええ、そうです。さっきも言いましたが、命蓮寺と違って、うちの神社は煩悩を否定しませんから。遊郭通いも、黙っていてそして本気にならなければ」
「……つまり、信者さんの中で。遊郭に通われている方は案外と?」
「ええ、まぁ。実際に数えたわけじゃありませんけれども。行った事が全くない人の方が、圧倒的に少数。むしろ変わり者かも」
だったら自分はどうなるのだろうかと、○○は考えたが。
元々そういう道を自分で選んだのだ。大体、全てに対して納得している。
阿求と契約した事に、後悔の念は一切なかった。
「……じゃあ、少し話しましょうか。今の依頼の関係で、依頼人の息子さんの周りを調べていたら、遊郭にたどり着いたのですよ」
東風谷早苗は苦虫を噛むような表情をしていた。
「ほんっと、どの案件でも何故か遊郭の影が。大にせよ小にせよ、絡んできますよね」
「それだけ一大産業なのでしょうね」
「まぁ、それは確かに。否定はできませんね。世界最古の職業は娼婦とも言われていますから」
東風谷早苗は皮肉気に笑っていた。冷笑的な立場でいないと、精神の安定が崩れそうなのかもしれなかった。
だが冷笑的な感覚は、遊郭に対してだけでは無かった。
「何かあるでしょう、他にもまだ」
「何かとは?」
「遊郭にちょっかいかける程度には、何かを見つけちゃったんでしょう?あの忘八達のお頭さんが、急におかしくなって対立している遊郭宿をいくつも潰すんですから」
さすがは、東風谷早苗と言うところか。意図的に話さなかった鬼人正邪の事を。
鬼人正邪だとは知らなくとも、隠す程度には大きい何かを抱えていると、すぐに気付いていた。
「鬼人正邪を見つけてしまった。遊郭街でね。今彼女は、引手茶屋で働いている。いったい何をやっているのだか」
鬼人正邪の名前を○○が正直に白状すると、東風谷早苗は天を仰ぎながら、ぺしんと自らの額を叩いた。
滑稽な演技でもしていないと、いよいよ自分の感情が暴走しそうなのだろう。
「知ってるんですかねぇ、忘八さん達のお頭は」
「知ってそうな物だけれどもねぇ、阿求は間諜をやっているのではと推理しているが」
「……なるほど。ドロドロしてそうな仕事、好きそうですものね鬼人正邪は」
「それでね、1つ頼みがあるんだよ。東風谷早苗」
○○は東風谷早苗がため息をついた頃合いを見計らって、本題に入った。
「何ですか?まぁ何も無いとは思ってませんでしたけれども」
「天狗の情報網を貸してほしい。射命丸を始めとしたね。ブンヤをやっている天狗の情報網なら、最高だ」
東風谷早苗は、○○からの協力の依頼に対して何度かコクコクトやるだけで。
はいともいいえとも言わなかったが、表情を見る限りでは、悪い風には思われていなさそうだ。
「無論、ただでとは言わないよ。私だって、いくらか自由に出来る資金はある。仲介を依頼している東風谷さんにも、なにも無しとは言えないよ」
東風谷早苗は少し口を開こうとしたが、結局閉じてしまった。しかし皮肉げな顔ではあった。
「分かってはいるさ」
○○が恥じ入るように声を出す。
「ちゃんとね、分かってる。自由に出来るお金も結局は阿求から貰っているお小遣いなんだから」
「いや、別に……変な事言おうとしたわけでは」
東風谷早苗はそういうけれども、目線が宙をいくらかさまよっている。
似たようなことは考えていたと思ってもよさそうだ。
「まぁ、でも……ほとんどタダ同然でやってるらしいじゃないですか。永遠亭からもあんまり貰わなかったそうで。私だったら多めに請求したいですよ」
狂言誘拐事件を狂言と思わせないための工作に、ある日いきなり指名されたことを知っている東風谷の口調は、いささか厳しかった。
「偉いじゃないですか。その姿勢は。あんまり貰わないだなんて」
けれども若干慌てて○○を褒めてくる姿勢の方が、○○にとっては癪であった。
「永遠亭からは代わりに、まぁ向こうの厚意もあるけれども。薬や阿求の健康診断の費用をかなり割り引いてもらっている」
ややぶっきら棒に○○は答えた。あくまでも阿求への得を優先していると答えたが、ぶっきらぼうにしか答える事が出来なかった。
強がっていると言う自覚があったからだ。結局阿求から随分と利益を得ているのでは、この行為にもさほど意味は。
阿求以外の者は、意味を見出すことはできないだろう。
むしろ、永遠亭からの口止め料を要求しなかったことは。阿求から○○への、阿求の厚意と好意による利益の流入を加速すらさせる。
――その利益をあまり使わないのも、強がりでしかなかった。
だが今の問題は、○○の強がりだったり。それを見た東風谷早苗からの、哀れみによる優しさを噛みしめる事では無い。
「話題を戻したい。今回の依頼人は、息子の事で随分と心を痛めているから……少なくとも真実をね。調べて、伝えたい」
東風谷早苗が少しばかり息をついた。
「その依頼人さんの息子さん……さっき少しだけ話題に出した鬼人正邪とつながりが?」
「ほぼ間違いない。正直、その息子さんと鬼人正邪の関係を断ち切れるか……甚だしく疑問なんだ」
「だとしても、何もしないわけにはいかないですよね?」
「まぁね。今考えてるのは、その息子さんの友達が、鬼人正邪を口説こうと入れあげているから。そいつらを動けなくしたい」
「あの息子さんは、元々の行動原理は。友人が遊郭にどはまりしているのを阻止したいと言う部分だ。初心を思い出せば、あるいは」
いくらかの者達が、鬼人正邪を口説いていると知った東風谷早苗は。今日一番の変な笑みを見せた。
「まぁ、どうせ鬼人正邪なら。正体を隠しているでしょうから。だまってりゃ美形ですから、蠱惑的なんですかね」
そして奇しくも、○○と同じく。分からなければ蠱惑的と言う評価を下していた。
そして、いくらか首を振った後。東風谷早苗はまじめな顔に戻った。
「まぁ、そう言う事情でしたら協力しますよ。聞いちゃった以上はね、全くの一般人がこっち側に影響受けておかしくなるなんて、見たくも無いですし」
こっち側と言った後、東風谷早苗は妙な表情を浮かべた。
偶然にも○○もその時妙な表情を浮かべたが、もうあの息子さんは鬼人正邪に大きく傾いているような気がしたからであって。
東風谷早苗の自虐に反応したのではない。
「ああ、○○様!旦那様!!」
東風谷早苗と○○が妙な顔で変な笑みを浮かべあっていると。
「東風谷早苗、事態が不味い方向に動いたかもしれない。依頼人があんなに息を切らせるだなんて」
件の依頼人である女中が、必死になってこちらに走り寄ってきた。
「○○様!うちの息子が、何者かに大八車に乗せられて、ボロボロの様子で自宅の前に打ち捨てられていったのです!!」
あいつ、鬼人正邪と何やった。○○はこめかみを抑えたが、しかし冷静さは失っていなかった。
「東風谷早苗、計画変更だ。依頼人の息子を見張ってくれ。カラスの力を借りて」
続く
※精進落とし
祭礼や、神事が終了した後、その間は精進料理であったが
肉食や飲酒、異性との交わりを再開することを表現した言葉
歴史を紐解けば、各地の大きな寺社仏閣の近くには
大概の場合、花街や盛り場が存在しており。聖と俗が入り混じっていたことがうかがえる
感想
最終更新:2019年08月29日 22:04