絶望と言う感情が、果たしてどのような異常を体に及ぼすか。それをこの男は、幸いにもまだよく分かっていなかったが。
まさか友人たちが次々と、酷い物では白昼堂々と明らかにカタギではなさそうな屈強な輩から。
両脇を抱えられて何処かに行ってしまった時でさえ、心痛こそ覚えたが。その日の残りの作業に支障は出なかった。

けれども今のこれは。
今日は休みであるけれども、残りの一日を全部横になって過ごしたとしても。それでもなお、明日の予定に支障が出るなと理解してしまっていた。

男は高そうな桐箪笥(きりだんす)を、その中の引き出しの1つを開け放したままにしながら。
ペタンとへたり込みながら、ヒラヒラと舞い落ちたかのように床に落ちている、一枚の紙切れを見つめていた。
その紙切れには短いながらも丁寧な文章が書きつけられていた。
男はその文章の中身をもう一度確認するように、紙切れを手に取ったが。その手は震えていた。
この男から平常な精神はおおよそ奪われてしまっていた。


拝啓、突然のお手紙と君の宝物を預かってしまった事をお詫びする。
もう気づいていると思うが、私は稗田○○だ。永遠亭でお会いしたから、いくらかの予測はつけてくれていると思う。
実は君の母上から、君が深夜に帰ってくるような生活習慣を取るようになっただけではなく。
喧嘩の後と思わしき、血まみれの状態で帰ってくることを。君の母上が大層気にしていた。
なので、どのような秘密の生活を持っているのかの調査を依頼された。
間の過程は省くけれども、君が一体誰と通じているのかは、もう知っている。
このままでも構わないと思う気持ちはあるけれども、依頼の事もある。
どのように転ぶにせよ、話し合う必要がある。
人質を取るようで申し訳ないが、確実を期するために、桐箪笥の中に隠していた宝物は預からせてもらった。
君がこの手紙を見つける日は恐らく×日だろう。(間違ったらすまない、けれども丁重に預かる事は約束する)
その日の午後二時半に、稗田邸に来てくれないか。裏口に回れば、私が出迎えよう

稗田○○より

追伸 キラメンコ事件の事を聞いたよ。上白沢先生の近くに隠しておけば、乱暴者もそこだけは怖くて手を触れない。
なるほど、上手い考えだ。君の母上が、ハレの日の着物は普段は手を触れないのと同じ理屈か。


さほど長い文面では無いのだけれども、○○から残された手紙を。
この男は十回以上読めるぐらいの時間、手に持ったままで微動だにしなくなった。
さきほどこの手紙を、地面から拾い上げる際には随分と震えていたのに。感情が一周回って、今は起伏が無い状態なのだろうか。

そのまま、馬鹿みたいにゆっくりとした動きで。男は壁に掛けられた時計を凝視し始めた。
時刻は現在、11時を少し過ぎたころだ。
まだ、この手紙を書いた張本人。○○からの、稗田○○からの、あの九代目様である稗田阿求の夫からの。
指定された時間には、まだ三時間以上存在していた。

その事実を確認すると、この男は、また急にガタガタブルブルと言った様子で震えだして。
歯もギリギリと鳴らし始めた。
「余計な事を!!」
感情の昂ぶりが頂点に達したとき、男は叫んだ。
と言うよりは、叫ぶ以外の事が出来なかった。

依頼人の自宅で、その息子が大いに感情を爆発させてからしばらく経った。
○○は別にその場面を見ていないが、もしかしたら依頼人の息子が、感情を抑えきれずに乗り込んでくるかもと。
半分は懸念であったが、もう半分では期待もしていた。
けれども射命丸から借りたカラスからの偵察では、あの手紙の事には気づいたようではあるが。
乗り込んでくる可能性は無いようであった。
安心半分と、待つのかと言う気持ちが半分であったが。
より待たされていると言う気分は、あの息子の方だろう。
カラスからの報告では、部屋の中を行ったり来たり。玄関から外に出たかと思えば、また入って行くと言った感じだそうだ。
苛立ちは間違いなく溜めているし、それを聞いた時の阿求が引き出しから物騒な飛び道具――回転式拳銃(リボルバー)!?――を取り出して。
中に弾を込めだしたときは、流石に後ろから抱きついて止めたが。
「ご心配なく、永遠亭に作らせたゴムを打ち出す道具ですから。余程の急所に連続で叩き込まない限りは安心だと聞いてます」

一瞬、ああそうなんだ。思ったよりは安全で良かったと、考えて手を放しかけたが。
例え非殺傷武器の代表格とも言えるゴム弾でも、当たれば痛いし、骨の一本ぐらいは上手くいけば折れてしまう。
それにどうやらこいつは、火薬の力で打ち出す方式のようだ。
空気圧であってもやばい事に変わりは無いが、火薬の大音響はきな臭さに拍車がかかる。
「いやいやいや」
とにかく阿求の手からは、例え非殺傷武器であろうとも持たせたくなかった。
おまけに手慣れた感じも恐怖を助長させた。何かあれば躊躇せずに、弾倉の中身を全て浴びせ倒しそうな雰囲気があった。
もし今、あの息子が鬼人正邪からの贈り物を取り上げられた怒りで乗り込んできたら。
阿求はやるだろう。多分では無く、絶対に。

なので抱きついたままではあったが、上手い言い訳が中々思いつかなくて。頭の中がグルグルと駆け回っていたら。
ようやく、上白沢夫妻の姿が脳裏で通り過ぎてくれた。

「そこまで物騒な話にはしたくない。火薬の音を、花火でもないのに。しかもこんな昼間の室内で……
それに、上白沢夫妻に来てほしいと言ったのも。何かあればあの2人の方が。
特に上白沢先生の腕っぷしが良いだろうから」
だから、そんな物騒な物はしまって欲しいと言うのを表現するように、ゴム弾を打ち出す銃を取り上げようとしたが。
阿求はなかなか手放してくれなかった。
……あの息子が、鬼人正邪の服を使って『そう言う事』をしていたり。
そもそも鬼人正邪本人と『そう言う事』をしている事が、永遠亭からの解析結果で分かったと言う事実を。
本人はともかく、どうやって依頼人に話せば良いのかが分からなくて頭が痛いのに。
この期に及んで、阿求が凶器を振り回す場面は御免こうむりたかった。

「阿求、多分あの息子が何かやるとすれば、俺に向かうだろう。何かあった時、俺がそいつを突きつければ、嫌でもすぐに分かるだろう」
「……言われてみればそうですね」
結局、○○自身が護身用として。ゴム弾発射機を持っておくという事で、阿求は渋々渡してくれた。
納得はしていないだろうから、上白沢夫妻が来たときに阿求を最悪の場合は止めてくれと頼むしかない。


「よぉ」
「ああ、来たね。後出しですまないけれどもあの息子は二時半に来るよ」
「それは良いさ……所で何か、物々しくないか?」
「はははは」
二時になって上白沢夫妻が来たとき、ちょっとした世間話から始めたかったが、旦那の方がすぐに気付いてしまった。
「随分と、あの息子の事を挑発してしまった形だからね。あの友人たちも全員、高利貸しにとっ捕まったよ
そう、だから……阿求が随分と心配してくれてね。出来れば使わないように動きたいけれども」
ゴトンと、回転式拳銃を机の上に置いた時。上白沢夫妻も、さすがに息を呑んだ
中に込められているのはゴム弾とは言え。火薬を使っている以上、丈夫にするにはどうしても。
重くてゴツいものになってしまう。
「俺はこれがあるから、護身は何とかなる。申し訳ありませんが上白沢先生、阿求に何も無いように隣について頂けませんか?」
とは言うが、これは方便だ。
阿求の事だ、回転式拳銃がもう一丁ぐらい。用意してないはずがないぐらいの考えでいた方が良いだろう。
「……そうだな。さすがにそんな物を振り回すぐらいの話にはなってほしくない」
さすがに上白沢慧音も、阿求と同じ側にある存在とは言え、銃が持つ迫力には気圧されてくれた。
中身がゴム弾とは言え、最初に拳銃を見せたのは効果的だった。
いわゆる平和的解決としての弾幕ごっこの雰囲気は、この拳銃からは読み取れない。
あとはあの息子が、暴走しない事を祈るのみだ。
永遠亭から、鬼人正邪の服はもう返してもらっているから。最悪それを交渉材料にすればいい。
……最初から交渉材料にしているとは、あの息子の立場ならば断じてしまいそうだけれども。



「二時十五分か……」
上白沢夫妻に来てほしいと言ったのは二時、あの依頼人の息子に来てほしいと言ったのは二時半。
最大でも30分しか時間は無い、お茶を飲んで一息つくよりも気を張り詰め続けた方が良いと。
別に誰が言うでもなしにそう考えたのか、目の前に急須と湯飲みはあったが。誰も手に取らなかった。


「そういえば」
不意に上白沢の旦那が声を出した。
「あの依頼人に、今日、自分の息子がお前に……稗田○○に文句を言いに行くと言うのは教えているのか」
「教えていない」
○○の質問に対する返答は、完全に即答であった。まったくの逡巡も無かった。
「……そうか」
上白沢の旦那はやや、何かを言いたそうな顔つきになったが。
「まぁ……仕方がないのかもしれないな」
すぐに理解してくれた。あの依頼人の、『稗田』に対する信仰心を思い出してくれたのだろう。

「そろそろ裏門で出迎えてくるよ」
その後、また緩慢な時間が……と言う訳にはいかなかった。もうずいぶん時間は押し迫っている。
待たせるのも悪いからと思ったのだろう、○○は立ち上がって出迎えに向かおうとしたが。
「○○、ちゃんと銃は持ちましたか?」
もう○○にゴム弾とは言え銃を持たせようとしているのは、○○としても諦めの感情ではあるが。
阿求が付いて来ようとするのは、せめて止めたかった。
口には出さなかったが、いつも見慣れている阿求の衣服の一部が、重そうな物が包まれて膨らんでいるのを○○は見逃さなかった。
それがどうしても、○○からの返答を一泊以上遅らせる結果となってしまった。
「俺が行こう。慧音は残ってて。九代目様の近くにいた方が良い。あの息子は苛立っているはずだから、余り仰々しいと……」
幸い、上白沢の旦那が反応してくれた。
「助かるよ」
二重の意味で、助かる。上白沢慧音ならば護衛としては最上であるが。女性的な魅力も最上であるのだ。
そんなのを横に連れたら、いやそもそも連れる事が出来ない。
阿求がそんな、そんな隙を。見逃してくれる物か。
東風谷早苗に協力を依頼する時だって、努めて確認しなかっただけで後ろから護衛が尾行していたはずだ。
その証拠が、いやに迅速に配備された人力車だ。
それぐらいの事は、見なくても理解できてしまっている。稗田阿求を嫁にしているのだから。

「ああ、そうだな」
ただ気になるのは、上白沢慧音の視線が目まぐるしく。夫や○○や阿求の方を移動していた事か。
返答もやや早口だ、先日の折に遊郭の話題が出て機嫌を悪くした時と似ている。
ただ、銃すら(中身が非殺傷弾とは言え)持ち出し始めた阿求を一人にするのが不味いとは、考えてくれた。
「すぐに戻る」
上白沢の旦那も気になったのか、こう付け加えた。
「そうなってほしいよ」
しかし慧音の機嫌がやや悪いのは、この言葉で確定されてしまった。

「急ごう」
阿求は銃すら持ち出したし、慧音の機嫌も決していいとは言えない。
上白沢の旦那は焦燥感をやや覚えながら、早足で行ったが。
途中で依頼人と鉢合わせした。しかしこれは、もしかしたら必然かもしれない。
○○に依頼をして、常日頃の付き合いを考えれば上白沢夫妻が何らかの協力をするのはすぐに考えつく。
夫妻ともに度々足を運んでいれば、そして自分が依頼人だと分かっているから。
気になって辺りをうろつくのは仕方がない。
「君の息子に来るように言った。そろそろ裏門の近くで俺を待っているはずだ」
○○もややめんどくささを感じたが、何も言わないでおくのも良くないと言えば良くない。
素直に喋ったが、簡単過ぎた。そして返答も待たずに○○と上白沢の旦那は二人でそとにずんずんと、向かってしまった。

「やぁ、永遠亭の病室で会って以来だね」
「……」
裏門にたどり着いた○○は、思い切ってその戸を開け放ったら。依頼人の息子は、真ん前で仁王立ちのような姿で待っていた。
しかし○○は臆せずに、笑顔で応対した。
「お茶菓子の用意もしてあるんだ。すぐに出すよ……それよりも立ち話もなんだから、中に入ろう」
むしろ笑顔の度合いがきつすぎて、嫌味ったらしさが出て来てすらいるが。
上白沢の旦那はその嫌味ったらしさに、この息子が切れて飛びかかる事よりも。後ろ側を気にしていた。
「○○、依頼人が追い付いてきた」
「そうか……」
○○が少しばかり唸った。やはりそっちの方が面倒だと思っていたようだ。
しかし○○はへこたれないと言うか、すぐに、この面倒くささすらこの息子を動かす為の材料にし始めた。
「君のお母上からの横槍は、酷く面倒だろう……私も面倒だ。話がうまく進まなくなる。さぁ、中へ」
「クソッ……」
汚い言葉だが、この息子は歩みを進めてくれた。銃も使う必要は、今のところは無さそうで安心だ。

この息子が付いてくる意志を見せるとすぐさま○○はクルリと振り返り、依頼人の方に向かった。
「息子さんと、少し話し合いをしてきます。ご安心を……預かった物を返すのが殆どの用向きですから」
○○よ、お前の言葉は少し組み立てがおかしいぞと言いたかったが。
厳粛な面持ちの○○には、稗田に対する信仰心の厚いこの女中は、息子の方を何度も見やるが。
「そう、悪い結末にはならないはずだ……ええ、ええ。阿求とも話し合って、妥協点を見つけようとしますから」
稗田阿求の名前を出されたら、この幻想郷ではそう簡単に覆せるものでは無い。
しかし、○○は自らの妻の名前を出したとき。体に妙な力がこもっていて。
悔しげな感情をしているように、上白沢の旦那には見えたが。それは見間違いでは無いだろう。


オロオロとする依頼人に対して、○○は大丈夫だからと何度も言ったおかげで。
随分と後ろから付いてきたが、さすがに○○と阿求の部屋までは付いてこなかった。代わりに物凄く深いお辞儀はあったけれども。
きっと見えなくなるまでやっていたのであろう。


「阿求、例の物を彼に返してあげて」
部屋に戻った○○は開口一番そう言った。
阿求は何も言わずに例の物が収められている場所に向かったが、しずしずと等と言う雰囲気では無かった。
どうにもピリピリした空気にあてられていた。
第一、部屋に入った時に。阿求は立っていた。座って待つことに耐えきれなくて、飛びだす寸前だったようだ。
もう少し依頼人の相手をしていたら、危なかっただろう。
非殺傷のゴム弾とは言え、阿求も回転式拳銃は持っているはずだから。
最悪盾になろうかと○○は思ったが、それはそれで阿求の怒りが更に燃え盛る。○○は視線を巡らせて、座布団の位置を確認した。
まともに当てられるよりは、マシになってくれるはずだ。

「どうぞ」
ポイっとは投げ渡さなかった。鬼人正邪の興味と言うか、そう言う事まで出来てしまえる感情が、○○には向いていないから出来る芸当だろう。
思ったよりは、上手くいきそうであった。

「どこまで知っている?」
阿求から手渡された、けばけばしくて下品なぐらいの派手な衣装を検めながら。この息子はようやく口を開いた。
「君が鬼人正邪と通じている事も含めて、ほぼ全部」
息子の口から、深いため息が漏れた。
「もうこの際だから、こちらが有利に立つために全て把握しているぞと言ってしまうね」
しかし○○は手を緩めずに、二枚の封書を渡した。
投げ渡さずに、相手の近くに差し出す形だ。これなら阿求も刺激しないだろう、○○が雑に事を運べば。
阿求も、夫が嫌いなら私も嫌いと考えて。雑になってしまいそうだから。
「永遠亭にね、その衣服を色々と調べてもらったんだ。それから……」
○○は、この依頼が持ち込まれる前に。愛犬と一緒に散歩していた時、鬼人正邪が倒れていた場所を口に出した。
その場所は上白沢の旦那も良く覚えている。偶然、散歩の際に出くわしたので、折角だから一緒に歩いていたからだ。
その事を口に出した際、この息子は封書の一枚目を読んでいたが。
「――ッ!?」
急に真っ赤な顔つきになって、興奮も含めた種々の感情で体を震わせていた。

「大丈夫だ、こっちの言う通りにしていれば。君の母親にもその事は言わない……けれどもここにいる者達は把握している」
そう言いながら、○○はこの息子にお茶とお茶菓子を供した。
これでも口にいれて、落ち着きなさいという事らしいが。そんな気分にはなれないだろう。
この息子は、震える手で二通目の封書を読みだしたが。すぐに泣きそうな顔つきに変わった。
「そう、全部知っている」
上白沢の旦那は、まだ何も知らないのだがなと腹の底で愚痴ったが。まぁ、教えてくれるだろうと言う信頼はある。
実際、言ってくれそうな雰囲気だ。

「君に返却したその派手な、遊郭で使いそうな衣装からも。
人里の端っこの方の、とある場所。その両方から君の体液が検出された!永遠亭のお墨付きでね!」

上白沢の旦那にだって、○○の言いたい事は分かる。
つまりこの息子は、鬼人正邪と一緒に人里の端っこで、しかも野外で。
喧嘩じみたやり取りをしながら、くんずほぐれつ『愛し合う』だけではなく。
鬼人正邪から寒くないように掛けてもらった、あの派手な服を使って。
己で己を慰めるための、『ちょっとした』道具としていたのだろう。
かなりおかしなやり取りではあるけれども、天邪鬼が相手だと考えれば……
傍から見たら喧嘩っぽい方が、下手に愛の言葉をささやかれるよりも、自分に対する執着を確認できるのかもしれない。





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最終更新:2019年09月16日 00:16