「この後どうする?」
「え?ああ……思ったよりも時間を食ってしまったな……」
種々の事をいぶかしみ始めた稗田阿求から逃げるようにやってきた、喫茶店の店内にて。
○○から告白された継続的な被害を受けているとの事実だけではなく。
大丈夫だと思っていた曜日にまで、その間の手が広がった現実を証拠と付きつけられたことで。
上白沢の旦那は、○○から言葉をかけられるまで一切、一言も言葉を発する事が出来なかったが。
ようやく出てきた言葉だって、ロクな物では無かったし。行動も言葉と同様に精細に欠けたものでしかなかった。
割と何回も来ているはずの喫茶店なのに、掛け時計をキョロキョロと探す有様であった。
「まだ30分ほどだから……もうちょっとブラブラしていても、早々怪しい行動とは言えないが……しかし、二歩を見逃したのは辛いな」
「ああ……そうだったな」
そもそも上白沢の旦那は、そこまで豪奢な装飾をほどこされていない物の。懐中時計を持ち歩けるぐらいの立場なのに。
――そもそもこれだって、何年か前に妻である慧音からの誕生日のお祝いだと言う事実は考えないようにして置いた。
それを完ぺきに忘れて、壁掛け時計を探してキョロキョロしていたのだ。
おまけに、将棋における代表的な反則である二歩を見逃したのは。
演技で遊んでいるふりをする上では、致命的な失敗であるのは論ずる必要も無い。
「まぁ……君が俺に、いつ気付かどうかと言う罠を仕掛けていたと言うのは。即興でなくとも、あれ以上の言い訳と言うか設定は中々思いつかないから
それで乗り切るしかないが……」
あまつさえ、上白沢の旦那は。自分がとっさに口に出した言い訳すら忘れていた。
弁明では無く、何処からどうとっても良いわけであるから。単純に忘れやすい物なのかもしれないが。
さっきの事だろうと言う、自らに対する苛立ち以上に絶望感は無視できなかった。
「俺、そんな事を言っていたのか?」
○○が嘘を言うなどとは、そんな事は一切考えていないどころか。そもそも、その発想が無いので信じているが。
自分の記憶には、二歩が上白沢の旦那が仕掛けた中々にいやらしい罠であると言う風な演出の存在は。
上白沢の旦那の記憶には、今初めて刻み込まれたのである。
この、記憶が本当に抜け落ちていると言う告白には。
すまないと思いながらも、誰かに知ってもらいたいと思って領収書の改ざんと横領被害を告白した○○も。
本当に罪悪感やしまったと言う、後悔の念と言う物が○○の顔には浮かんでいた。
「謝らないでくれ……誰かに知ってもらいたいのだったんだろう?それにこんな事……一線の向こう側を娶った者どうしじゃないと、角が立つ」
上白沢の旦那が、慌てながら手のひらを前に突き出していなかったら。この旦那が言う通り、深々と頭を下げて○○は謝罪していたであろう。
巻き込んでしまってすまない、ぐらいの事も付け加えながら。
けれども、上白沢の旦那が欲しいのはそんな物では無い。
「解決するぞ、名探偵?」
この事態に対する、妥当で穏当な結末である。
「……ああ」
普段は○○の名探偵ぶった態度や、それ以上に○○のやりたい事を全力で支援する稗田阿求には。
苦々しい感情や表情でもってして対応していた。普段であるならば、○○に対する名探偵と言う言葉も。
はっきりって、皮肉以外の何物でもなかったはずなのに。
今日この時、口を突いて出た名探偵と言う言葉は。掛け値なく本物であった。
けれどもそこに安穏として、一抹の危機感すらをも抱かないでいられるほど。○○は楽天的では無い。
○○は数秒間、目線を上白沢の旦那の方からそらしたが。それは罪悪感だとか、気恥ずかしさから来るものでは無かった。
「二回目だ……」
「え?」
不意に○○が、全く違う話を持ち出して来たことに。残念ながら上白沢の旦那は、すぐに気付くことが出来なかった。
「阿求が気を使って、手配してくれている護衛と。目線が合った。一回はともかく、この短時間で二回目となると。意識しだしてる」
護衛だとか短時間だとか言うけれども、○○が目線をやっている方向を見ても、断言できなかったのが悔しくて仕方が無かった。
「一番屈強そうなのか?」
斜め後ろ程に、明らかに鍛えあがった肉体を持った人物が二人いたが。静かに、本当に静かに暖かいコーヒーを飲んでいたのが気になった。
そう言えば、稗田阿求は冷たい物があまり体に合わないと言う話を聞いたことがある。
夏場でも、ぬるいお茶や水を飲んで。冷やしすぎないように気を付けている位であるとか。
見れば○○も、暖かいコーヒーを飲んでいて……冷たい水は脇に寄せている。
「二回目はやめておけ。向こうも作為に気付かせてしまった事を、若干まずったと思っているから」
冷たい水に対する態度は、あの屈強そうな二名はどうだったのかなと考えたが。
○○はそれを見透かしたように、やめておけと言って釘を刺した。
「その……せめて答えだけは教えてくれ。あの屈強そうな二人組か?それから、稗田阿求が冷たい物が体にも苦手と言うから、冷水も?」
「ああ、今回は比較的わかりやすくて助かった。冷水に関しても、稗田の家中で働くものは、ほぼ飲まないよ」
○○はその通りだと言って、答えを示してくれたが。
冷水に対する態度を、あの屈強な二人組はどうしていたかを確認し忘れたのは。
上白沢の旦那としては、痛恨の極みであった。
「けれども、そろそろ出よう……何かあったら、またこちらから連絡を入れる」
そう言った後、○○はやや音を出しながら立ち上がった。これもある種の、自分への尾行兼護衛を続けてくれている人たちへの。
かなり回りくどさは感ずるが、挨拶と合図。これらを内包した行為なのであろう。
立ち上がるので、その際の振り向きざまにもう一度だけ確認が出来た。
屈強な2人組は、明らかに安堵したような雰囲気を携えていたが。それよりも上白沢の旦那が特に確認したのは。
無論、冷水の位置であった。返す返すも、稗田阿求は冷たさや寒さが体に毒だと言う話を、先ほどに思い出せなかったのがつらい。
……そして冷水の位置は、机の一番奥に鎮座されており。
最初に提供された時にそこに置いた以外は、一切触れていないのが。
机に滴る結露の水滴や、コップの中身にあるはずの氷がすっかり溶けてなくなっている事。
これだけで、一口も飲んでいない事が十分に確認されたが。
○○は、慣れていると言うのもあるが。見るべき場所を、横領被害にあっていると言う今の状態でも。
的確にやる事が出来ている事実には。被害にすらあっていないのに、本日の寺子屋の授業で小さいとは言え失敗を連発した自分と重ねてしまい。
あまつさえ、黙っていなければならないから、どうしてもそうなってしまうが。
妻である、愛する慧音から。熱は無い物の、何か厄介な病気を患ったのではないかと心配までされてしまった。
○○が稗田阿求に疑われてはならないのと同じく、同じく一線の向こう側である慧音にもこの事実は。
ずっと伏せておくべきである、例え――望みが薄いとは分かっている、けれども立ち向かわなければ絶対に悪くなる。
例え、穏当な解決が奇跡的に得られたとしても。隠し通すべきである。
「この事実は全部隠せ。喋っちゃ駄目だ、阿求の権勢や家中の人手が使えないのは辛いが。俺だって……稗田性だ」
自分が稗田性を名乗っている事を○○が言う時、若干の逡巡が見えたけれども。
「事実じゃないか、何を言葉に詰まる」
そう言って上白沢の旦那は○○を励ますけれども。○○が逡巡した理由、嫌と言うほど上白沢の旦那だってわかっている。
結局は、阿求の好意と善意からくる贈り物しか、良い手札は無いのだ。
そしてそれは、上白沢の旦那だって同じである。
「もう少し散歩してから帰る。今日は、この話をずっと考えていて……寺子屋での授業が上手くいかなくてな……」
○○と別れる際に、上白沢の旦那は恥ずかしいけれども。本日の指導や教鞭に冴えが無かったことを告白した。
本当に恥ずかしかったが、○○は何よりも手札の数を、知っている情報の量を重視する。
そこから質を考えて、取捨選択する。
であるから、自分の状態や状況を言わないのは。
○○に対しての不利になりかねない……そう考えていたはずなのに。
「……そうか、やはり告白するにしても性急すぎたな。良いよ、良いよ。季節の変わり目で機嫌がすぐれないと言うのは、間々ある。俺もその手で行こう」
○○が明らかに罪悪感を抱き始めていた。
結局この告白は、○○の足をひっぱただけでは無いのだろうか?
「じゃあな、何かあればまた連絡する」
そう言いながら別れる際の○○の姿は、はっきり言ってキョロキョロしたりして。落ち着きがややなかった。
上白沢の旦那は、数少ない味方すら。協力すべき立場である自分すら、○○から意図せずして遠ざかったのではと。
そう考えるには十分であった。
真っ直ぐと帰る気はしなかった。
「……散歩でもしよう。どこか、気のまぎれそうな物がある場所は」
こういう時、一線の向こう側を嫁にしていなかったら。勢いで遊郭に行く物なのかなと考えたが……
○○が横領の被害にあった事を、脇が甘いとは思わずに全てを犯人に。犯人の血であがなおうと動くのと同じで。
フラフラと上白沢の旦那が遊郭街に向かっても。その隙をついて籠絡したと、妻の慧音はそう考えて遊郭を攻撃しかねない。
しかもその攻撃、比喩ではなくて本当に、人里の最高戦力の出陣と言う最悪の結果になりかねない。
――横領被害と、精細を欠いたが故の悪い勢いで遊郭へ。この二つに雲泥の差があるのは。
上白沢の旦那だって、分かっている。
けれども、遊郭に向かわないのは最低でも守らなければならない一線である。
最初から考えてい無い事もあるにはあるが、確かに遊郭には向かわなかったが、それでもおぼつかない足取りで。
そうは言っても聖なる雰囲気を守っている洩矢神社のふもとへと、上白沢の旦那は足を向けた。
あそこならば……年中屋台や市が立っている。
遊郭街とその近隣施設の次に、盛んな場所であるけれども。
信者が遊ぶのはともかく、神社としては遊郭と距離を置くと言う東風谷早苗の方針があるから。
どれだけ騒いで、飲んだとしても。清い場所であるのは有り難かった。
「うーわぁ……珍しいお客さん」
洩矢神社の境内で、信者や日常の清掃や神事やら雑事やらを。
それら全てを、そつなくも真摯にこなしていっていた東風谷早苗であるが。
今日この時、この日初めて。雑な感情と言う物が出てくるだけではなく、あまつさえそれを表に出してしまった。
昼をすっかり過ぎて、夕方とも言えるような時間であったのは助かった。
大きな神事でもない限りは、誰かの相手と言うのは日中で全部片が付いてくれるから。
この境内も、決して立ち入り禁止と言う訳では無いけれども。
夕方、日没の時間をそろそろ気にしだす折となっては。
外の世界の有名観光地ならばいざ知らず、幻想郷では人がまばらになる時間である。
……無論、例外はある。日が沈んだからこそ出来る、卑猥な話と言うのもあるし。そう言う施設――遊郭――も存在する。
……そして東風谷早苗が遊郭を特に思い出してしまったのには、無論理由がある。
上白沢の旦那には責任は無いのだけれど、友人である○○が、あの名探偵気取りが関わると厄介ごとばかり。
○○が関わる、あの名探偵気取りの関わる案件には。何故だか、大なり小なり遊郭の影が見え隠れするどころか。
先日の一件では遂に、遊郭街の最高権力者である忘八達のお頭と。
遊郭に慈悲を与えて存在を認めている、人里の最高権力者の稗田阿求との会談。
その為の密会場所を、神社の二柱の一つである、洩矢諏訪子が提供してしまった。
諏訪子自身は、自分たちは遊郭の出先機関の職員では無くて、二大巨頭に顔見世の場所を作ったフィクサーだと言って。
大層ご満悦な顔で、あれ以来上機嫌が過ぎる様子で外出するのが鼻につくぐらいであった。
おまけに帰宅は遅いどころか、朝帰りもそんなに珍しくなくなったし。
帰ってきた折の諏訪子は、鼻につく匂いを。
ケバケバしいお香、あるいは化粧品の匂いを漂わせていた。あんな強い臭気、香りとは言いたくない。
分かってはいる。忘八達のお頭に、稗田家との密会密談場所を提供した見返りが全くないなんて。
そんな事があり得ないという事ぐらい。
けれども自分一人でやり合うには、たとえ家族である諏訪子が相手でも分が悪い。
なのでもう一柱である八坂神奈子にも、早苗は助力を乞うたけれども。
『金を払って遊ぶ者と、金を貰って何かを提供する者。それ以上の関係は築いていない……ああいう腹芸は諏訪子は上手いから』
そう言って、
神奈子は諏訪子の暗躍に全く口を出さない。と言うよりは、出したくないとまで。
はっきりと態度で表してきた。
『今の状況は、遊郭街のケツもちだ……稗田が怒りだす前に、間に立って火の粉を減らす……そこに利益が全くないわけでもない』
あまつさえ、諏訪子の暗躍に対して。いくらかの理解もにじませてきた。
結局その話はそれでおしまいにした。そうしないと、神奈子と諏訪子の両方に対して、早苗は声を荒げそうになってしまうからだ。
「ほんっと、珍しいお客さんで……○○さんは調査任務ですか?それともあなたは○○さんの別動隊?」
早苗らしくも無く、腕を組みながら人差し指をくるくると回したり、相手に刺したりするようなしぐさを見せながら。
それ以上に苛立ちを全く隠さずに、早苗は上白沢の旦那に向かって行った。
本当に、今が夕方で。人気が少なくて良かった。
この時間まで境内にいる人間は、信心深いから……変に頭を回して、見ないように覚えないように努めてくれる。
本当に、幻想郷と言う場所は……忘れられる心配こそないが、無いけれども。
幻想郷住民が見せる信心深さに対する若干の呆れと恐怖を、早苗は首をふって払った。
「東風谷早苗?」
相変わらず上白沢の旦那は、早苗の事を正式名称で呼んでくる。『さん』を付けないのは、仲よくなり過ぎないようにと言う自制だろうか?
「いえ?普段からそうやって、自分の奥さん以外は上下の名前を全部呼ぶのは大変でしょうに」
早苗は自分の嫌味ったらしさと性格の悪さに、嫌悪感を抱いたが。止められなかったし、止めた方が多分酷くなる。
いざとなったら、諏訪子様に助けてもらおう。夜遊びにふけっている姿を我慢してるのだから、それぐらいはやって貰わないと。
けれども上白沢の旦那は「はぁ……慧音以上に仲の良い女性を、作ろうとも思いませんから」
一線の向こう側が、心強いと同時に激昂したときは危険な諸刃の剣だとは、理解しているだろうけれども。
計算して近づかないのもあるけれども、天然だって十分に混じっている返答に。
「あはははは……」
早苗は少し、けれども本当に面白いと思ってしまって。笑う以外の事が出来なかった。
「はぁ……似たような症状を見せるんですね」
ややもすれば神経質な早苗の笑い声に、上白沢の旦那は少しばかり虚を突かれたけれども。
皮肉気な笑いを見せる姿には、さすがに、少しずつではあるけれども早苗も心配になってきた。
「また振り回されているんですか?」
「いや、○○に責任は無い」
「まぁ確かに……極論言えば、依頼人の周り。問題起こしてる奴からの業が巡り巡って、ですからね」
「依頼人の周り、ねぇ……話を聞くだけならば、案外面白い事もあるのだろうけれど。そうは言っても、○○は依頼される側だから
○○の立場は、責任感こそあるけれども、他人だからなぁ。当事者の様な焦燥感は、知らなかった。私も同じだが」
少し早苗には、上白沢の旦那が何を言いたいのか分からなかった。
言っている事は理解できるのだけれども、質問に対する答えとしては不適当と言うか、ずれている様子が見えたけれども。
この旦那の裏にいるのは、上白沢慧音であるから。そこを追及することは無かった。
最も、そうであっても。
遊郭での存在感を増して、ケツもちになりつつあると同時に。夜遊びにふける諏訪子よりは。
十分に優しく、同情的に見れるのだけれども。
「まぁ、お互いともが。振り回される側なのかもしれませんね」
これ以上突っ込んだ会話をする気も無かった。
魅力十分な上白沢慧音に癒してもらえ、ぐらいの気持ちだ。彼女は女である早苗から見ても、ちょっと触りたくなる位の魅力だ。
一人歩きできるならば、そこまで重大事でもないだろう。
喫茶店での○○とこの旦那の会話を知らない早苗は、そう考えてしまったが。
それを責める事の出来る者など、誰もいない。
「私はもう奥に引っ込みますけれども……養蚕(ようさん)の神事に使う虫の世話もしなきゃだし。
神社自体に閉門は無いですが、ケーブルカーが動いているうちに帰らないとしんどいですよ」
そう言って最初よりは柔らかい態度で、早苗はこの場を後にしようとしたが。
「養蚕(ようさん)?絹を作ってくれる虫、蚕(かいこ)の事ですよね?」
「ええ、そうですよ?」
養蚕に対して、上白沢の旦那が妙に興味を引かれたのは、早苗としても意外であった。
絹織物自体は高級品として珍重されるが、それを製造してくれる虫に関しては。
気持ち悪いと、男性でも思う場合が多いのに。
「確か、蚕(かいこ)って。完全に人の手で世話をし続けないと、エサすら食べれずに……」
「ええ、簡単に全滅しますよ。這う能力も、品種改良を続けすぎて衰える通り越して無くなったから。
本当に、虫の口元に持って行ってやらないと、餓死するんですよ。こんな生き物、多分これだけですよ」
「そこまで貧弱なら、人間がいなくなったら?」
「数日持たずに絶滅ですよ」
「ああ……なるほど…………それは、本当に……興味深い」
早苗は、絹の生産者である蚕(かいこ)についての知識を披露したら、上白沢の旦那は感慨深そうに天を見上げた。
(この人、疲れてるなぁ……)
「疲れてるねぇ」
奇しくも、後ろからの声と同じような言葉を思ってしまったから。
急に、新し能力が出現したのかとびっくりしたが。
何てことは無かった「あ、なんだ。諏訪子様」洩矢の二柱のうちの一柱、洩矢諏訪子であった。
「今日は、遊びには出かけられないんですね?」
早苗は随分と皮肉気な言葉を諏訪子に向かって出した。
今日はまだ遊郭に遊びに出かけていないけれども、どうせそろそろ出かけるだろうなとも思ったからだ。
「いつもの、気に入ってるのが休み入れてるから。しばらく私の相手ずっとしてくれたから、しかたないよ」
けれども諏訪子は、皮肉を絶対に理解しているはずなのに受け流し。
あまつさえ、遊び人の雰囲気を堂々と早苗に向かってぶちまけた。
これはきっと、上白沢の旦那がまだ。蚕に、養蚕についての興味深い事実で感じた物を反復し続けて。
周りに目も耳も向いていないから、諏訪子もこんな際どい話が出来たのだろうけれども。
「東風谷早苗……ああ、これは。洩矢神社の洩矢諏訪子様。気付かずに申し訳ありません」
そのまま、感情の反復を続けた末。ようやく戻ってきた上白沢の旦那であるが。
やはりこの男、余りにも感慨深すぎて。洩矢諏訪子が近づいてきた事はおろか。
「疲れてるねぇ」
「疲れてる……まぁ確かに、そうですね」
先ほどと同じ言葉を掛けられたと言うのに。まるで初めて聞いたかのように相手をしていた。
もしここに○○がいれば、二歩は自分が○○に対していつ気付くか仕掛けた嫌らしい罠だと。
そう稗田阿求に即興で付け足した設定を口走った事を忘れていた事と相まって。
今すぐ帰らせたかもしれなかったが。
不幸にも、○○は先に帰ってしまった。
だが早苗は、さっき言われたことが聞こえていない事に。確かに不安を感じた。
……それと相反して、諏訪子は笑っていた。
その雰囲気は、忘八達のお頭に密会と密談の場所を提供した時と同じような雰囲気だと。
早苗は断言できた。
「意地悪しちゃだめですよ?疲れてるなら休ませないと」
諏訪子が何かを嗅ぎ取ったのは、内容は確かに気になるが。
下手に首を突っ込みたくない早苗は、諏訪子に釘を刺そうとするが。
「養蚕に興味あるの?何だったら見ていきなよ、別に隠し立てするような事じゃないから、そこの小屋の中で蚕を育てているから
誰だって好きに見れるよ。早苗、実演してあげなよ」
しかし諏訪子は、早苗から差された釘を、釘とは思ってもいなかった。
カエルの面に、小便をかけたような物でしかなかった。
「……」
東風谷早苗は何も言えなかった。やはり、諏訪子は神様であった。
人間とは違う価値観と勢いの存在なのだと、改めて思い知った。
「…………」
早苗は後ろで見ている諏訪子と上白沢の旦那を、明らかに気にしながら蚕へエサを運んでやっていた。
「中に入りなよ、その方がよく見えるよ」
しばらくすると、諏訪子はまた歩を1つ進めた。
もう早苗は何も言わなかった。
「良いのですか?洩矢諏訪子」
「構わないよ、エサの時間とフンの世話には気を使うけれども。出入りは特に気にしなくても」
「……では、お言葉に甘えまして」
諏訪子に促されて、旦那は中に入ったが。
それ以降、養蚕の為の小屋に入った後は、諏訪子と上白沢の旦那は喋らなかった。
けれども何も考えていない訳がない、上白沢の旦那は個人的な事を。
そして洩矢諏訪子は、上白沢の旦那に打つ次の一手を考えている。
それぐらい、早苗にだって理解できた。観察も推理も容易だ。
上白沢の旦那は、物思いにふけっていて視線が案外と早苗の作業は見ずに蚕の方ばかりを見るし。
諏訪子は、上白沢の旦那とは違う方向を向いて。ほくそえむのを必死で抑えていた。
そして上白沢の旦那は、ほくそえむのを必死で抑えている諏訪子にも。
気が気では無い早苗にも気づかずに質問をした。
「この蚕は、食べさせてやらねば餓死するのですか?文字通りの意味で。何匹かを一か所にまとめて、そこに葉っぱを盛ってやっても?」
「無理なんだよ、すごいよね」
この質問は、諏訪子が答えた。
ますます早苗は気が気では無い。
「いっそのこと、葉っぱで虫をかぶせてやっても?」
「口の上にあるから、食べれないんだよ」
「では、葉っぱの上に置いてやれば」
「口の届く範囲しか食べれないよ、這う力が極端に弱いから、仰向けになったら起き上がる事も、葉っぱのある場所によじ登る事も出来ない」
「そんなに弱いのか……」
「でも絹を吐き出すんだから、高級品を作ってくれるんだからすごいよね」
「私にはそんな芸当は、絹を出すなんて事はできませんけれどもね。私の出す物にいかほどの価値が……」
そう言って上白沢の旦那は、また急に黙りこくってしまった。
諏訪子は、また喋らなくなってしまった。
上白沢の旦那が喋らない限りは、自分から口を出すことは無かった。けれども頭は動かしていた。
それは上白沢の旦那も同じであるけれども……内容が問題だ。はっきりと後ろ向きであったのだから。
(私は一体、何を生み出せているのだろうか)
上白沢の旦那の思考の根底にあったのは、これであった。
蚕のように絹を吐き出す事も、金目の物は一切吐き出すことが出来ずに。
ただただ、慧音の事業である寺子屋運営の。確かに教鞭をとっているけれども、それは自分が慧音の夫だから。
慧音の好意と善意で、ただその役を与えてもらったに過ぎない。
実際問題、寺子屋の生徒たちから自然発生的に与えられた固有名詞は。
『旦那先生』である。そして生徒たち以外からの、特に稗田家中の奉公人達からの呼び名も。
『上白沢様の所の旦那様』である、いくらかの表記ゆれはあっても上白沢慧音と言う存在が、まず一番最初にやってくる。
そう、上白沢慧音のついでなのだ。
自分は上白沢慧音の夫だから、寺子屋で2人目の教師になれた。
いくらかの偶然はあったとはいえ、比較的容易に○○と……
稗田○○と仲良くなれたのも、それは自分が上白沢慧音の夫と言う。
慧音の威光によって、自らの価値が高められているから、稗田家にも易々と出入りできる身分になれたに過ぎない。
「私は金目の物を、生み出せているのだろうか」
不意に口をついた言葉は、誰にも聞かせていない。独り言である。
東風谷早苗は、作業の手を止めて。真剣に心配そうな顔で上白沢の旦那を見やるが。
声はかけるなと、諏訪子が止めていた。
その間にも、この旦那は取り留めのない思考で。どんどん後ろ向きになる。
そして、そして。いつだったかの事も思い出してしまった。
いつだったか急に、自分は周りからどう思われているのだろうかと。
慧音のような極上の別嬪から、かなり強烈に惚れられて。
稗田○○程では無いけれども、名声もお金も、立場も与えてもらって。
その返礼は出来ているのだろうか?
あの時は結局、答えが出せる気がしなくて情欲をぶつけてごまかしてしまったが。
慧音は、受け止めてくれた。
それで満足してしまった。
○○は名探偵気取りだと思う事も多かったが、妻である稗田阿求からの助力もあるとは言え。
ひらめきは本物である。
実際に、先日解決した鬼人正邪がらみの厄介ごとも。
鬼人正邪と密通している男が、どこに鬼人正邪からの贈り物を隠しているだろうかという段階になって。
寺子屋に残されている資料から、かつての成功体験の応用だとひらめき。
そして実際に、見つけた。
……あの資料も、結局は慧音がまとめた物だ。
稗田阿求が助力しているとは言え、○○が仕上げをやっているのは事実だ。
けれども自分は?
慧音に情欲をぶつけることこそあれど……そのときだって慧音は優しく。
『満足してくれたか?』と確認してきてくれるが。
酷く自分本位の生き方のような気がしてならない
今はもう、満足し続けていた自分が、酷く小物に見えてしまっていた。
それも蚕(カイコ)未満の。金目の物を何も生産できていないのだから。
「…………そろそろ、ケーブルカーの最終便が出る頃かな?」
上白沢の旦那は、考えをまとめてしまった事で。これ以上のひらめきに恵まれる事が出来なくなり。
この場を後にしたがった。
最初は却って欲しかった東風谷早苗も、憔悴を続けていくこの上白沢の旦那の姿を見れば。
ケーブルカーの話を持ち出すことは『帰れ』と言外に言ってしまうようで言えなかったが。
いざ上白沢の旦那から、帰ろうとする声を貰っても。
喜べなかった。
かといって引き止める事も出来なかった、もう日没は近い。上白沢慧音が心配するには、いやもう心配しているはずだ。
「○○さんに会ったら言ってください、最近の貴方、シャーロック・ホームズ気取りのほかに、エラリー・クイーン(※)っぽさも出て来てるって!」
東風谷早苗としたら、この程度の軽口が限界であった。
「分かりました、伝えておきます」
実際、○○の名探偵気取りに頭を痛めているはずのこの旦那は、知らない名探偵の名前を出して。
○○に対して、お前の名探偵気取りがまた酷くなったぞと言う軽口に。
全く反応しなかった。
「まぁ、○○さんは名探偵が好きですから。喜ぶでしょうけどね!」
しかたがないので、軽口のオチは早苗が付けたが。本来ならばこの種のオチは、上白沢の旦那が付けてくれた。
しかし上白沢の旦那は、何も言わずに養蚕小屋を後にした。
一番の問題は、諏訪子が付いて行ったことだ!
「諏訪子様!!」
今日一番の、悲鳴にも近い大声を早苗は上げたが。諏訪子は無視した。
「やぁやぁ、旦那さん。一個だけ別れのあいさつ代わりに言わせて」
「なんでしょう?」
「君か○○、どっちかが厄介ごと背負ってるよね?あるいは両方かな?それも秘密裏に処理したい。協力できるって、○○に伝えといてよ」
「分かりました……○○も喜ぶでしょう」
上白沢の旦那は気づいていなかったが、これはある種の証拠を。
洩矢諏訪子に提出してしまった形であった。
否定も肯定も、するべきではなかった。
※エラリー・クイーン
アメリカの名探偵
作家名もエラリー・クイーンであるが、これは二人の作家による連名
感想
最終更新:2019年10月16日 13:42