○○は、昨日は深刻さを隠す為に遊んでいるふりでやっていた将棋で、二歩を見逃すと言う大チョンボからの回復は結局あきらめた。
だからあの大チョンボを利用する方向に動いた。
幸いにも上白沢の旦那が、二歩は自分が用意した罠だと。いつ気付くか試していた、などとうそぶいてくれたのが助けとなった。
……問題は上白沢の旦那が思わず口走ったこの言葉を、当の本人が完全に無意識で口走っており。
全く気付いていない、覚えてもいないと言う点であるけれども。
それに関しては、残念ながら今は何もできない。
○○はそれよりも、横領被害の実態把握に全神経を傾けるべきだと考えていた。
それ前の間、阿求には申し訳ないとは返す返すも考えてしまうが。
仮病と言う訳でもないが、何となく精細を欠いたような動きを見せて。○○は阿求からの追及を何とかかわして行くことに決めたのだけれども。
「え?旦那さんが。熱を出して寝込んだって?」
最悪の場合は1人で、この横領被害の実態を掴もうと言う決心を起床時に付けたと言うのに。
間髪入れずに、悪い報告がまた持ち上がった。
(ジリ貧どころじゃないな……明らかに下降線に乗ってしまっている。俺1人で何とか出来るのか?)
「はい、そうなのでございます。○○様。上白沢様の所で、布団から起き上がると同時に夫様が倒れられて。永遠亭に担ぎ込んだと」
○○は神妙な面持ちで、暖かいお茶を口に含みながら聞いているが。
奉公人からの声は、心の中での考え事に夢中で。聞こえていないとまでは行かなかったが、うんともすんとも言えなかった。
しかし、これはまだ誤魔化しのきかせやすい部分であった。
上白沢の旦那と○○は、公私ともに頻繁に交流があると言うのは。別に隠すような事では無い、周知の事実だ。
昨日も――間を取るためとは言え――二人で喫茶店で会話をすることが出来る程度には仲が良い。
昨日の会話が、深刻さなど全くない雑談であれば。全く持って普段の光景そのもので、終わらせることは出来たのだけれども。
「心配だな……」
○○は湯飲みの中に残ったお茶を眺めながら、1人ごちる。
「本当に……その通りでございます。上白沢先生は、今日の授業は宿題の採点と課題用紙を何枚かするだけで。昼までには終わらせるとの事です」
「……そうか」
○○は残ったお茶を、冷める前に飲み干しながら言った後。少し思案顔になった。
傍から見れば、そして二人の関係を考えれば。
この思案顔は、○○が上白沢の旦那を心配しているようにしか見えなかったのは、○○としても助かった。
……確かに心配はしている。
けれども周りの考える心配と、○○の考える心配は。全く持って別方向を向いているのは。
○○としても自覚していたし、そして横領被害と同じく隠さねばとも即断出来た。
そもそも上白沢の旦那は、昨日の時点からおかしかった。
演技などでは無くて、確かに精細を欠いていた。
本人の言なので、疑う余地は無いが――だから余計に厄介、そして深刻だ――寺子屋の授業でも小さな失敗を連発したようだ。
その言葉を聞いた時、○○としてはもっとうまいやり方、せめて下手でも慰めをするべきだと。
熱を出して倒れたと聞いた今になって、ようやく思い至った始末であった。
あの時の○○は、上白沢の旦那から授業で小さな失敗を連発したと聞いて。
心の中で小さく詫びた、それだけで済ませてしまった。
近くには阿求が手配した、護衛兼周囲の監視役がいたはずだから。
あまり深刻な話題を長引かせたくなかったので、小さくて短い返事をしただけで立ち去ってしまった。
だがあの時、短くても良いから。急にこんな話題を君におっ被らせてすまないぐらいは、言ってよかったのでは。
覆水盆に返らずとはこの事である、そこそこ跳ね返りの強い性格のあの上白沢の旦那ならば。
少しの憎まれ口と一緒に、『いまさら外野には置けんぞ、協力させろ』ぐらいの事は言いそうな性格だ。
そしてその種の言葉を口走れたのならば、言霊と言うのは、はっきり言って全く馬鹿に出来ない存在だから。
あの旦那の中で気力と言う者が醸成される、その手助けとなったはずだ。
結果論と言われればその通りだが、自分は友人の健康すら損ねる始末になってしまった。
…………上白沢夫妻の場合は、まだまだ長生きするはずなのだから。
それを考えると、非常に心苦しい。
「……心配だな、今は永遠亭?それとも自宅に戻れたのかな?」
「詳しい診断は分かりませぬが、永遠亭から帰ってきたのは確かでございます。今日の授業は、宿題の確認と課題用紙をやるだけで
なので、昼までには終わらせるとは連絡網で回って来たことは聞き及んでおります」
ひとまずは、少しばかりの安堵が出てきた。
けれども、だからと言って上白沢の旦那を無視する運びにはならない。
周りの人間とは違う方向性とは言え、心配をしているのは確かなのだから。
「そうか……昼まではあの旦那1人なのか」
ならば、昼までならば上白沢慧音に聞かれると言う心配を感じずに。あの旦那から少しは聞き取れるかなと考えた。
何も無ければそれでいいのだが、ここまで急激な変化を知らされれば、裏側を考えずにはいられない。
「お見舞いに行かれますか?」
湯飲みのふちを、指でツツツと撫でながら壁時計を見て。何時間ぐらい話せるかな、そうは言っても熱が出たのは本当だから。
等と考えていたら。
妻である阿求が、横から急須を持って。お茶のお代わりの必要かどうかを確認しながら聞いてきた。
阿求の後ろ側には、書類を保管するタンスが合った。
無論、その一部は○○が使っている。そこの、とある引き出しの、一番奥に隠すような形で。
○○は自身に横領被害を被らせた、実行犯と思しき人間の名前を書きだしており。
それぞれに、白の要素と黒の要素も羅列して。推理の助けとしている。
……偶然だと思いたかったが。
阿求の真後ろに、その絶対に見られてはならない。被害の確かな証拠を羅列した文章が眠っているタンスがあったのだ。
思わず○○は、その文書が入っている引出に目をやりそうになったが。
寸での所で、阿求ならそれだけで何かに気付きかねないと。第一昨日の二歩を見逃した件を。
阿求が、忘れるはずは無いと思い直して。眼球周辺の筋肉が、急発進と急減速をほぼ同時に命じられた事で。
若干のこわばりを、自分でも分かるほどに隠せなくなってしまいそうだったので。
「ああ、阿求。散歩がてらに様子を見てくるよ……上白沢先生も、すぐに帰ってくるとは思うが。少しは隣に誰かいた方が安心してくれるだろうし」
そんな、全くの嘘では無いけれども。あまり意味の無い事をつらつらと喋りながら。
阿求の手から急須を受け取り、顔面の特に眼周辺の筋肉のこわばりを見られたくなかったから。
急須は丁重に、食卓に置いて。阿求の小さな体を、○○の小膝に乗せて。少しばかりイチャつくような姿で、間を作った。
その姿は、いつもの事だ。ならばその後に来る展開も、○○は簡単に予想できる。
「では、私はこれで。何か御用がおありでしたら、および立て下さい」
家中の者は、稗田夫妻が不意に互いが互いを求め合う様子を見るのに慣れている。
こういう時、年季が多ければ多いほど。家中の奉公人は即座に、稗田夫妻から離れて。
夫妻だけの時間を作ろうと努めてくれる。
この素早さには、○○も大いに助けられている。
場面の展開として、これほど優秀で即効性のある状況も、そうそうないであろうから。
本当に……稗田家の奉公人は、上から下まで優秀な人物がそろっている。
そう思いながら、○○はタンスの方向に目をやった。
今度は阿求が自分の小膝にいるので、見られる心配は無い。
「季節の変わり目だからなぁ……お汁粉でも買って行こうか。それとも快気祝いの方が良いかな…………」
お汁粉と言って、思い出した事があった。
「そう言えば、上白沢の旦那は。塩気のある物の方が好きなのかな、この間もおせんべいを持ってきてくれたから」
妻である阿求の嗜好には敏感――阿求は塩気のある物が好きだ――であるけれども、そう言えば他人が何を好きかはあまり考えたことが無かった。
平時であれば、上白沢の旦那辺りから『依頼が絡まなければ、他人にはほとんど興味が無いんだな』ぐらいの苦言はいただけたであろう。
「そうですね、でしたらせんべいなどはお見舞いには向いていませんし……急に用意するのも嫌らしいですから。快気祝いでよろしいのでは?」
「そうだね、阿求……確かこの間、旦那さんが持ってきてくれたおせんべい、阿求が好きな味ばかりだったよね」
「ええ、よく覚えてくださいましたねあなた。あの店は少し味が濃いので、男性向けとされがちですが……私はあれぐらいの方が好きなのですよ
塩気があると、暖気を感じられますから。生姜醤油味ならば、最高ですね」
阿求が味の好みの話をしているのを聞きながら、飲み干された味噌汁の器の底を○○は眺めた。
稗田家で供される食事の味付けは、高貴な家柄らしく上品な味付けであるから……
つまるところ、薄味に仕上げられるのが殆どであった。
阿求の体が寒さを毒としているから、生姜等と言った体を温める薬味を好むのは、自然の成り行きかもしれなかったが。
味付けの濃い物が好きと言うのは、多分、稗田家の味付けが単純に好みからは遠いのかもしれなかった。
「帰りに、おせんべいでも買って帰るよ。せっかく天気も良いから、昼ごはんまでには帰るけれども、散歩もしてくるよ」
永遠亭から自宅に戻っているのだから、そうそう重病では無いはずだ。
そうは思いつつも、○○は。不安の種があちらこちらで芽吹いているのを、心中で感じ取っていた。
無論何も無いかもしれないし、と言うよりはそれを望んでいた。けれども、それが薄い望みである事は○○も分かっている。
季節の変わり目に、○○からの衝撃の告白。横領被害を受けていると言う告白を受けたのだから。
心理的に何も無いはずが無い。
……けれどもそれだけで、永遠亭に担ぎ込まれるほどの高熱を出すだろうか。
聞いた話ではあるけれども、起き抜けにまともに歩けずに倒れてしまったと言うではないか。
いや、いや……それだって。
立派に一線の向こう側に立っている上白沢慧音からの言葉のみ。
しかも自分は、その事実を家中の人間から聞いただけ。又聞きよりも酷いかもしれなかった。
だから、口づてに伝わるうちに。妙に重症化している風に伝わったと……正直、そっちの方が良かった。
「ああ……見舞に来てくれたのか?」
けれども、上白沢慧音が大慌てで。そのせいで話が大げさに伝わってしまったと言う。
せめてもの希望は、病床の上白沢の旦那を見る事で。粉々に打ち砕かれてしまった。
「何があった?」
○○はキョロキョロと、上白沢宅の中を見回し。奥まで確認して、確かに上白沢慧音がいない事を断言出来てから、言葉を紡いだ。
何かが有ったのは明白だ、少し考え事を続けすぎたせいでは、ここまで酷くはならない。
「そうだな……昨日、あの後に洩矢神社に行ったんだ」
○○の表情筋が少し強張ったが、高熱で半分夢うつつの上白沢の旦那は気づかなかった。
しかし、よりにもよって散歩先に洩矢神社とは!
前回の事件、鬼人正邪がらみの厄介ごとの最終局面で利用した自分が言うのは、甚だしく筋違いなのは分かっているが。
あの後、洩矢神社の一柱である洩矢諏訪子は。
遊郭と稗田家の間に立って、密会場所を提供したり。稗田家の動向をそれとなく伝えると言った役回りを。
外の言葉で言うならば、フィクサーと言った役回りを好んでやっている。
いつだったか東風谷早苗と不意に、散歩先で出くわした時。
『
諏訪子様は調整役だとか言って、うそぶいていますけれども……』
等と、全く評価していない重々しい声で、○○に聞かせると言うよりは思い出して嫌気がさすと言った様子であった。
東風谷早苗から、前回の依頼を解決する際に天狗の情報網と監視網を借りた恩恵はまだ続いており。
しかもそれは○○よりも、阿求の方が使えると大いに評価して気に入っており。
さすがに毎日では無いが、遊郭街の動向を大体週に一回ぐらいの頻度で。
天狗の新聞では無くて、新聞になる前の生の情報と言う奴に触れている。
大言壮語と派手な見出しで耳目を引く天狗の新聞と違って、カラス天狗が任務として行った情報収集活動の成果を手にしているのだ。
敵だと認識している遊郭内部の情報であるから、阿求がいつどうやって天狗からその情報を引き取っているのかは分からないが。
それでも、遊郭街においては、忘八達のお頭とは違う存在による統制が生まれた事。
しかもその新しい統制は、阿求にとっては好ましい状況であるらしく。
阿求と一緒に風呂に入っている折に、気分が良くてつい口をついたあの言葉はよく覚えている。
『洩矢諏訪子さんったら、遊郭街で女を抱いているそうで……まぁ、神様ですから男も女も無いんでしょうね』
結局それ以上の事は教えてもらえなかったが、洩矢諏訪子が暗躍を始めているのは知っていた。
(クソ……洩矢諏訪子の性格を見誤った)
高熱に浮かされて、『そうだな』といったっきり、うわ言のように『えー』とか『あー』とか言って思い出そうとしているばかりの上白沢の旦那の横で。
○○は洩矢諏訪子の謀略を案外好んでいる性格を見抜けなかった事を、悔しがった。
東風谷早苗の真っ当な性格と、豪快であるが常識的な判断が多い八坂神奈子の陰に隠れている事を。
もっと考えるべきであったと、○○は悔しがった。
「洩矢神社という事は、洩矢諏訪子に?」
上白沢の旦那は、布団に寝ているのに眼が回っているので。仕方なく○○が、聞きたい事だけを聞くことにした。
「あ、ああ!そうなんだ!」
洩矢諏訪子と言う名前を聞いた瞬間、上白沢の旦那はガバリと起きそうになったのを。○○が宥めた。
こんな姿を上白沢慧音に見られたら、自分であってもどうにかなってしまう。
そうなると、上白沢慧音と稗田阿求の仲が間違いなく、こじれてしまう。それだけは避けたい。
「何を言われた?」
「見抜いてくれた」
その言葉を聞いた時、○○の脳裏には改ざんされたいくつもの領収書が見えた。
だが先走らずに、落ち着いて。
「何を見抜いたんだ?」
と聞くのみである。無論、間違っても『くれた』等と言って、ありがたがる気は無かった。
「俺たちが、厄介ごとを抱えている事をだ」
○○は眼を見開いて、驚愕に震える体を抑える事が出来なかった。
「それで、何という風に返したんだ?返答は!?」
思わず語勢が荒くなった。病人を前にしてやる行動では無かったが、暗躍が好きそうな洩矢諏訪子の影を前にして。
神を前にして、平静を保てというのが無理な話である。
「協力できると言ってくれた、○○も喜んでくれるだろうと言っておいた。あの人は中々優しいよ、俺みたいな、慧音のついで。あるいはオマケにも優しいから」
○○は眼を見開く事しか出来なかったが、○○だって神を前にしていつもの状態を維持できていない。
そう考えれば、上白沢の旦那が不用意に応えたのも。無理からぬ話かもしれなかった。
――しかし一つだけ言えるのは、○○は遠からずのうちにもう一度、洩矢諏訪子と会わねばならぬことであった。
……無論、1人で。
上白沢の旦那はこんな状況であるし、阿求に知らせる訳にも行かない。そうすれば、横領被害が白日の下に晒され。
血の雨が降ってしまう。
……そもそも、友人であるこの旦那をこんな目に合わせた張本人、そうとすら思っていた。
「言ってみれば俺は、慧音の腰ぎんちゃく……もっと酷い例えを言えば金魚の――
「もう良いから、寝て早く体を治せ!!」
しかしこのまま洩矢神社に乗り込んで、友人に何をやったと聞きだすのも。
洩矢諏訪子の思った通りになりそうで。そこが癪であった。
「あら?」
○○が今から洩矢神社に乗り込んでやろうかと、そんな事をいくらか思う頃になった折。
稗田邸にて、夫である稗田○○の帰りを待っている阿求は。ちょっとした間違いを見つけた。
「……今日の荷物、このおせんべいは私しか頼みませんのに。夫の荷物に紛れていましたわね」
「……そもそも、夫も私もこのおせんべいは、今日頼んでませんのに。まぁ、あれば食べますけれども」
「……そもそもあの人は、甘い物の方が好きなのに。○○が頼むとは思えませんのに」
全ての事柄は往々にして、上手くいけば上手くいくほど。どこかで慣れと言うか、舐めた感情が出てくる。
それが犯罪に関わるものであれば、相手に対する舐めると言う感情は。
他の事柄に比べて、大きくなりやすい物であった。
全ての犯罪は、過度な冒険心と調子に乗った心と、相手も同じだけの知性を持っている可能性を考えない。
それが原因でほころぶものであるのかもしれない。
感想
最終更新:2019年10月16日 13:49