「何だ
諏訪子……今日は早いんだな」
洩矢神社にて、社殿にやってきた八坂神奈子は呟いた。
神奈子の眼の先にいるのは、ざっくばらんな会話が出来るほどに仲も良ければ年季もある相手。
その上この時の
神奈子の口調は……呆れと言うか諦めと言うか。そう言う弱々しさが表に立っている声色であった。
そう、今の洩矢神社で
神奈子がそんな疲れを見せながら声をかけるのは。
フィクサーを気取って、遊郭街にて存在感を増し続けている。洩矢諏訪子以外にはいなかった。
「あー……うん。今日ぐらいは早めに帰って、早起きしておかないと不味いかなと思って」
少しは真面目な事を言ってくれていそうな
諏訪子であったが、しかしながら彼女はその実全く真面目では無い。
今の
諏訪子の姿は、しかめっ面を浮かべながら熱いコーヒーを飲んでいるだけであった。
……そうは言っても
諏訪子は神様だから、神様であるという事を知っている者達からすれば。
『洩矢様は何ぞ、難しい事をお考えでいらっしゃる』ぐらいには、幸いにもそう考えてくれる信者は多い。
「昨日も、行ってたんだよな?」
けれども八坂神奈子は、洩矢諏訪子とは旧知の仲である。少なくとも昨夜に置いては何をやっていたかぐらいは、理解できる。
「もちろん」
「……そうか。それから、早苗から伝言だ。暗躍は遊郭街の内部だけにしてくれとさ。人里での情報収集は早苗がやるから……
要するに、昨日みたいに上白沢の旦那にちょっかいを出すなとさ」
「無理だよ、それは。そうは言っても遊郭は、人里に置いてもっとも金を稼いでいる機関だ。稗田と全く関わらないなんてありえない」
……
神奈子だって、長年の付き合いからくる直感があるから。
諏訪子が早苗からの伝言と言うよりは忠告を。
それを素直に聞き入れるとは到底思ってなどいなかったが。
いくら何でも即答は酷いだろうと、そうとしか思わなかった。
「それでも
諏訪子、答えを腹の底にしまうぐらいの――
思わず
神奈子は声を荒げそうになったが、寸での所で気づいて外の方向へと目をやったら。
早苗の姿が見えた。見える程度の距離なのだから、ここで声を荒げればまた何かがあった事ぐらい、気づかれてしまう。
幸い、早苗は信仰してくれている人間と何かを話している最中だったので。
神奈子からの言葉を、
諏訪子がひらりと受け流してしまった事に激昂しかけた、その表情や雰囲気に対して。
どちら共に読み取られることは無かったが。
「え!?」
その代り、早苗の方が何かの異常事態に見舞われてしまい。短い言葉であるけれども、切っ先の鋭い声を上げてしまっていた。
無論、フィクサーなど柄では無いと言う
神奈子は早苗が見せた様子に、何が起こったのか見当がつかずに緊張感を走らせたが
「ああ……やっぱりか。昨日は早じまいしておいてよかったよ」
諏訪子はと言うと、熱いコーヒーを飲み干しながら。何かの予測が的中した事を喜んでいたが。
その喜ぶ表情は、黒々しい物が際立っていた。それが
神奈子を珍しく苛立たせた。
「お前は出るな、私が行く」
「うん、まぁ。一旦任せるよ」
諏訪子が立ち上がりかけたところを、完全に阻止する形を取りながら。
神奈子はずんずんと境内に降りて行った。
しかし
諏訪子はと言うと、しばらく――と言っても10秒すら無い――考えた後、些末だと思ったのか。
半端に浮き上がらせた腰を、何だかんだで浮き上らせたが。
それは奥の方に置いてある、ポットで新しいコーヒーを入れるための起立でしかなかった。
神奈子から機先を制されたと言うのに、
諏訪子のあの態度は。
どうやら
諏訪子の中では、もうだいぶ図柄と言うのが出来上がっていて。
今は別に、自分が表に立とうが立つまいが。そのどちらを取っても多勢に変わりは無いという事なのだろうか。
それとも戯れに上げた観測気球の一部であるから、重大視していないのだろうか。
だがどのような設計図を、
諏訪子が脳裏にて描いていたとしても。それを
諏訪子は教えてくれないだろうし。
自分は……もう一度早苗の表情を確認したら、その顔が青ざめていた。
そんな状態の早苗を放っておくことは出来ない、後手後手に回っている事は理解している。
それでも自分は、青ざめ表情の早苗の隣に『いなければならない』のだ。
あの子には、多かれ少なかれとは言え。間違いなく無理をさせて、幻想郷に連れてきてしまった。
その負い目……
諏訪子はそこにだけは手を出さず、茶化すことも無いが。
……
諏訪子ほどに長生きして、暗躍が好きな性格ならば。気付いていない方がおかしい。
「早苗」
一体
諏訪子は何を考えているのだろうか……そもそも素直に、コーヒーのお替りを入れに行ったのだろうか。
社殿の奥に消えた
諏訪子の姿は、ここからではもう確認できない。
「早苗、何があったんだ?私で何とかできる事なら何でも――
「上白沢の旦那さんが倒れた!」
洩矢神社の一柱である、八坂神奈子が境内にまで下りてきたとあって。周りの信者は早苗を相手にする時以上に恭しく頭を下げたが。
そのような礼儀作法の全てを、早苗はどこかにかなぐり捨ててしまいながら。今知った事実の方がより重大で、なおかつ深刻だと。早苗の姿は、そう告げていたし。
上白沢慧音が一線の向こう側である事は、
神奈子も知っている。だがそれよりも!
この話はあの旦那の急病だけでは終わらない!!
恐る恐る、
神奈子は早苗を少し奥に。
ひそひそ話をしても聞かれない場所まで連れてきた。殊勝な信者たちは、何も言われずとも真反対へと引き下がって行った。
「昨日、
諏訪子がちょっかいを出したのと関係があると思うか?」
距離を見て、安全だと断言できた
神奈子は喋りはじめたが。早苗は
神奈子ほどに精神力が戻っておらず。
苦悶に歪んだ表情を浮かべながら「無いはずがありません……」としか言わなかった。
けれども黙ってこそいたが、行動はあった。昨日の事を思い出しているのだろう……養蚕(ようさん)小屋の方を苦々しく。
はっきり言って、睨みつけるような形ですらあった。しかし早苗がなぜそのような事をしてしまったのかは……
昨夜に置いて、結局遊郭街へと足を向けてしまった
諏訪子の影響は無視できないし。
それ以前に、玄関先から出て行く
諏訪子の事を早苗は、随分罵り調で全部ぶちまけた。
……あれは、
神奈子様にも、つまりは私にも聞かせるために。大きな声を出したのだろう。
確かに
諏訪子のやった事は、調整のための情報収集とは名ばかりの、野次馬よりも酷い火遊びかもしれなかった。
妻である上白沢慧音と比べて、余りにも小さな自分の実力に苛まれている姿は。ともすれば殊勝ではあるけれども。
それを慰める役として、
諏訪子が似合わないという事だけは分かる。
それがここに来て、上白沢の旦那が倒れると言う。最悪の結果を招いたのであった。
何とか早苗から聞き出した限りでは、永遠亭から自宅には戻れているようだが……だからと言って喜べるはずは無かった。
上白沢慧音は間違いなく、一線の向こう側なのだから。
その上、大事な大事な旦那にちょっかいを掛けたのが。遊郭街で頭角を現し出している
諏訪子と来れば……
上白沢慧音があらぬ憶測を、と言うよりは妄想をたくましくすることは言うまでもないだろう。
そうなれば
諏訪子を上白沢の前に突き出すだけでは済みそうにないし。
諏訪子がそんな事、抵抗するはずだ。
「謝りに行かないと……」
一通りの事をしゃべり終えた後、早苗はふらふらと。ケーブルカーの方に歩いて行った。
飛べるのに、飛ぼうという事が思いつかないらしかった。
「待て、早苗……直接向かえば上白沢慧音を刺激。そうでなくとも、いぶかしませるかも知れないぞ。
旦那が倒れたのならば、今日の寺子屋は早じまいするはずだ」
「じゃ……どうすれば良いんですか」
早苗はもう既に半泣きであった。このまま放って置けば完全な泣き顔になるまで、あと何分もかからないであろう。
神奈子は悩んだ。無論
神奈子だって、謝罪の意を全く述べないのは罪悪感もあるけれど、悪手という事ぐらい理解している。
けれども、今この場で向かうのもやっぱり悪手なのだ。
「早苗の所にまで『倒れた話』が来たという事は、稗田○○にも急病の報告は入っているはずだ……
稗田○○ならば、あるいは……何か引っ掛かりを覚えて、早苗に会いに来てくれるかもしれない。
今日は今から、予定通り宣伝活動を続けろ」
「○○さんが来なかったら?」
「……その時は、私が稗田に手紙を出す。うちの
諏訪子が遊郭街で『うろうろ』していますが、そちらのご機嫌に影響ないでしょうかと……当たり障りなく。
それから、今日の宣伝活動は私も出る」
神奈子が人里に降りるのは、早苗をいつも通り一人で行かせるには余りにも心配という事もあるけれど。
今現在、上白沢慧音が殴りこんでこないという事は。あの旦那は殊勝にも沈黙を守ってくれているが。
一線の向こう側にいる女性を娶ったものどうしと言う、○○に対する信頼と仲間意識は大きい。
だから昨日の事を言うとすれば稗田○○で、文句を言いに来るとしても稗田○○のはずだ。
……そう思いながら、八坂神奈子は神社の出入り口をもう一度確認した。
上白沢慧音が殴りこんでくる様子は、無かった。時刻は10時30分を少し回った程度。
そろそろ、と言うかもう今日の寺子屋は終わったかもしれない。
掃除ぐらいなら、生徒だけでも何とかできるだろう。それに人里の方向の騒がしさは。
上白沢の旦那が倒れたことを心配すると言う、それのみ。
八坂神奈子は、出来る限りの白の要素。上白沢慧音が殴り込みには来ない、その状況証拠を頭の中で考えあぐねいていた。
そして今日の宣伝活動は、八坂神奈子が隣にいたお陰で。つつがなくとは到底言えないが、失態だけは犯さずに済んだ。
だが。
「今日の風祝様は、どこかお加減が悪いのだろうか……」
「寺子屋の、上白沢慧音様の旦那様も倒れられたと聞く」
「心配じゃのう……季節の変わり目は体を壊しやすいと言うのは良く聞くが」
早苗の宣伝活動に、普段の眼球をきらめかせるぐらいの輝かしさを見て取れなかった見物人は。
口々に、今日の早苗の様子から、何か風邪の前兆にでもやられているのではないかと、口々に噂と心配を飛びかわしていた。
「さっきは、稗田様の所の……○○様を見かけたのだが。きっと上白沢様の所にお見舞いに行った帰りのはずだが。
難しそうな様子で顔は下を向いておられた。流行病なら心配だのう……」
「うちの子は体があまり強くないんだ……今の内に永遠亭で健康診断とやらを受けに行くかな……」
等と、稗田○○も難しい雰囲気であったと言う噂話まで聞こえてきた。
だが八坂神奈子と東風谷早苗の聞き耳は、そこで完全に止まってしまった。
その後も里の住人は口々に、自己流の健康法を披露したり、やっぱり永遠亭に行くのが一番だと言う者もいたりで。
病気の予防法に話が進んで行ったが。酷い言いぐさだが、そんな事はどうでも良かった。
稗田○○が難しそうな様子をしていた。それが聞こえた瞬間、東風谷早苗は八坂神奈子の方を。
助けを求めるかの如く見たし。
八坂神奈子は八坂神奈子で、一番話が出来そうな存在が来てくれるかもと言う期待と。
諏訪子のやらかした事に対する謝罪をどうすれば良いかで、感情は一杯であった。
「とにかく、午前の部は終わりだ。一旦神社に帰るぞ」
「……はい」
そう
神奈子が言って、早苗もうなずいたが。
帰り支度は、えっちらおっちらと。わざと時間をかけていた。
……無論、期待していたからだ。期待ばかりでもなかったけれども。
しかし何も起こらない方が辛いのも事実。
そして稗田○○は――里の評判ではいたくお優しい方、だから話をしにきてくれたのだろうか――
洩矢神社がよく宣伝活動に現れる場所に来てくれた。
「俺の友達に、何やった?洩矢諏訪子が、あの暗躍好きが」
その時の○○はわざとらしい笑顔でもなく、明らかな怒りの感情も見えず。
淡々と、能面でも被ったかのように表情が動いていなかった。
「こっちも忙しいんだ……ただでさえ…………」○○は領収書の改ざんの事が頭にあったが。
部外者にそれを出来るだけ言いたくなくて、首を横に振って自らに自制を促した。
……しかし。
これが計算の結果であるならば、やはり稗田○○は。
妻である稗田阿求のお陰と言う部分は大きかろうとも、名探偵としての格を得つつあるのかもしれなかった。
皮肉な事に、今のこの様子は、稗田阿求が喜びそうな雰囲気を今の○○は持っているなと。
八坂神奈子は、そう断言できた。
感想
最終更新:2019年10月16日 13:51