太陽が真上に登り歩道を照らす中で、さとりと探偵は昼の街を歩いていた。うだるような夏の暑さは少し和らいでいたが、
それでも日差しがアスファルトを照りつけ、熱い空気を探偵に纏わり付かせていた。滲み出た汗が額を流れる。ハンカチで汗を拭う探偵。
「暑い…。」
思わず言葉が口から漏れた。いくら天気に文句を言っても結局は何も変わりはしないのであるが、それでも自然と湧き出るものであった。
ふと横にいるさとりを見ると、彼女は汗ひとつかかずに涼しい顔をしていた。妖怪は汗をかかないのであろうか。それともこの助手が居た、
地底とやらは暑かったのだろうか。探偵の心の中に疑問が生じた。
「私の屋敷は暑くありませんが、場所によっては熱いですよ。」
探偵の心を読んださとりが答える。
「死んだ罪人が送られる灼熱地獄とか?」
「今は使っていませんが、昔はよく怨霊が焼かれていましたよ。」
成程、地獄の業火からすれば地上の暑さなどはどうという事はないのかも知れない。人間は精々が数十度で騒いでいるが、
彼方は炎が出ている以上は数百度という単位なのであろう。文字通り桁が違う。
「手を握りましょうか?」
唐突にさとりが言った。
「急にどうして?」
探偵が尋ねる。さとりは優秀な助手であるが、しばしば探偵が理解できない行動をとる。もっともそれは、後になれば、
そして後の祭りとなれば、それこそが最善の行動だと分かるのであるが。頭が良いタイプにありがちな他人の考えが分からないという欠点は、
少々目を瞑らなければならないだろう。これまでさとりが探偵にしてきたことを考えれば。だがしかし、心を読む妖怪にしては、
それはあまりにも、余り有る、探偵の両の手には余り過ぎた皮肉な欠点なのであるが。
「…いいです。」
ムスッとした様子で進むさとり。不機嫌になったさとりの様子を見て、しまったと思った探偵が後を追う。
「ほら、悪かったって。」
「結構ですよ。」
どうやら一瞬でかなりの具合までさとりの機嫌が悪くなってしまったようである。そして彼女はここからが恐ろしい。
「そうですよ。ええ、所長の思っている通り。その通りです。いつもの私の気まぐれですよ。「急に機嫌が悪くなったな」ってそうですね。
私はいつも急に機嫌が悪くなる面倒な女ですよ。ええ、「何で怒っているか分からない」、そうでしょうね、所長はいつもそうですからね。
鈍感、本当に…。これじゃあ私が馬鹿みたいじゃないですか。」
怒濤の攻撃がさとりから降り注ぐ。心を読まれている以上、下手な事を思っただけで全てが彼女に筒抜けとなる。これは中々に恐ろしい。
「いくぞ。」
探偵が構わずさとりの手を取る。言い訳をするよりも、何も考えていない行動の方がまだマシだと言えた。
「またいつものように誤魔化そうとして…。」
むくれるさとりの手を引き、進んで行く探偵。ジャンケン遊びでチョコ以上、パイナップル未満まで歩数を進めると、さとりの足が再び止まった。
後ろを向いて探偵が尋ねる。
「どうした?」
「--------」
さとりの声が発せられたが、探偵の耳には既に入っていなかった。一本の赤い筋が後ろを歩いていた人の首筋を走り、そしてスローモーション
のように徐々に川が太くなり、帯と成って流れ出す。命が不可逆的なまでに撒き散らされたことに気が付いた通行人は、膝から崩れ落ちる。
糸が切れたマリオネットのようだ。そう探偵は思った。
次の瞬間、探偵はさとりの腕を掴んだまま全力で走り出していた。全力で自分の手でさとりを握りしめ、がむしゃらに走っていく。
普段ならば痛いという苦情が、最低でも二言三言は来そうな行動であったが、さとりは大人しく探偵に腕を引かれていた。案外に軽いさとりを引っ張りつつ、
ビルの合間の路地を二つ抜けると、未だ間近で起こった凶行に周囲の人は気が付かずに、何事も無いかのように過ごしている安全な場所まで来た。
忘れていた負担が急に復活したかの如く、心臓が激しく探偵の体を打ち付け、息が詰まり全身の細胞が酸素を求める。汗が額に浮かび出し、
重りを付けられた足が自分の体重を支えきれずに、解けた手が地面についた。
「貴方…。」
さとりが後ろから探偵に抱きつく。柔らかい感触を伝える小柄な影に、もう一つの影が被さろうとしているのが探偵の網膜に映った。
「きゃっ。」
強引にさとりを振り解き、そのまま体を捻る探偵。したたかに地面に投げ出してしまったさとりに心の中で詫びながら、足をもたつかせながら振り向くと、
丁度相手が刃物を振りかぶっているのが見えた。一般人には縁が無いであろうその凶器は、ナイフというには大きすぎて、もはや刀とカテゴライズするのが
相応しいものであった。破れかぶれの格好で探偵は持っていた鞄を通り魔に突き出す。強烈な、コンクリートで殴られたような感触が指を襲い、
刃物を受け止めた鞄は横へ吹っ飛んでいった。慣れていないせいであろう、自分が切りつけた刃物に体重を持って行かれた通り魔が、
よろけるようにして二、三歩歩き一旦ぶれた体制を整える。今度は腹の前で突き刺すように刃物を固定し、通り魔は体を落とし探偵に飛びかかろうとした。
興奮で口が歪み黄色い歯から零れた涎が、ひび割れた唇からぬらぬらと垂れていた。
探偵に向け躍りかかった通り魔が目の前で横に飛んだ。物理法則を無視するかのように男の体が跳ね、ゴム毬のようにバウンドして吹き飛ばされていく。
太陽を受けて燦々と輝くガラスに男の体が突っ込み、ショーウインドウが派手に壊れる音がした。
「さて、行きましょうか。」
いつの間にか探偵の横にいたさとりが、探偵の手を取って歩き出した。未だに状況が掴めていない探偵をよそに足を運ぶさとり。
「犯人なら大丈夫です。複雑骨折の上に全身にガラスが刺さっているせいで、当分は動けなくなっています。」
「先程の被害者でしたら、もう既に別の人が手当をしていますよ。救急車は二分後に到着します。」
「鞄でしたら、ほら、私が持っていますよ。財布も貴重品もちゃんと入っています。」
「事情聴取も要りませんよ。他の人が十分に証言してくれますよ。」
探偵の心に浮かぶ疑問に先手を打って答えていくさとり。しばらく歩いて冷静になった探偵の心に一つの疑問が浮かんだ。-心が読めるのに、
どうして通り魔が近づいているのにさとりは気が付かなかったのか-と。横にいるさとりの顔を見る。さとりは口元に微笑を浮かべて探偵の方を見返した。
まるで、探偵が自分を助けたことが嬉しいかのように。何も答えないさとり。二人の間に無言の時間が流れた。
「…こうやっていると涼しいでしょう。」
「ああ…。」
さとりの言葉に探偵が応える。探偵は遂に、心の中の疑問を口に出すことは出来なかった。
感想
最終更新:2019年10月16日 22:08