稗田阿求は間違いなく、確証こそない物の何らかの違和感を覚えて。
仮に杞憂だとすれば、後から笑い話にすればいいと思いながら、少しばかり動きを見せていたが。
諏訪子の場合はもう少しだけ、趣と言うか。杞憂ならばそれで構わないと言う部分には変わりはなくとも、どう思うかについては随分違っていた。
阿求の場合は、『何も無い所に吠えかかる、少し頭の悪い犬でしたわ』と自嘲と自虐を織り交ぜながら、談笑の種にしてしまえるが。
洩矢諏訪子の場合は、遊郭街にて存在感を現し始めている彼女が、何故遊郭街にてぽっと出のはずなのに大手を振るう事を許されているかと言えば。
それは今の遊郭街の支配者、そして稗田阿求から、自分たち夫妻以外の人間の為という事で、最低限のお目こぼしを貰う事に成功している。
あの忘八達のお頭に対して、
諏訪子は全面的に協力しているからだ。
人里から好意的に見られていて、稗田家としても相手が神であるからいくらかの手心と言うか深入りしない立場の存在が。
遊郭街の今の支配者であるあの男に対して、全面協力しているのだ。
……無論、それは
諏訪子としてもいくらかの権力の積み増しと。下世話で俗っぽい対価を求めてこそはいるが。
あの忘八達のお頭が失墜、最悪の場合では変心した場合。被害と言うか、被る火の粉に加えて面倒くささと言うのはこの程度では済まない。
――それよりはマシとは言え、忘八達のお頭や取り入っている
諏訪子に隠れて、稗田阿求が激怒するようなことをしている輩がいた場合も。
はっきり言って、面倒くささと言う点では等しい。
「やぁ、やぁ……忘八のお頭。今日も少し世話になるよ」
しかし、遊び人の気配を隠そうともしなくなった
諏訪子であるから。どこで気付くか、何に違和感を覚えたのか。
それに関しては、稗田阿求が耳にしたとすれば。気付いてくれた事に対する感謝があるから、大っぴらにする事は無いだろうけれども。
――そこから気づいたのか――と言う、呆れの感情が同じくらい、下手をすれば感謝よりも大きくあるだろうから。
きっと稗田阿求は余り感謝の念を表には出してくれないだろう。そんな暇があれば旦那である○○の周りをさらに固めて、守りに入る。
けれども忘八達のお頭の場合は違う。
彼は、もう遊郭街の外では生きていけない。遊郭街のような空気が無ければ、即座に窒息してしまうという事を十分に理解しているから。
きっと
諏訪子に対して――本当の信仰心は
諏訪子以外に向けているのは確実だが――平身低頭で、更なる奉仕。
支払っている金銭以上の何かを、この忘八達のお頭は自発的に与えてくれるし。
――正直なところでは、
諏訪子もそれをあてにしている節がある。
今でさえ十分に、支払った金銭以上の利益を享受しているけれども。
こういうのは別に、多くて困ることは無い。ましてや洩矢諏訪子は神様だから。
人間では扱えない量や数の愛欲だって、受け止めれるし、実際に受け止めてきたことも多い。
洩矢諏訪子は祟り神だから。祟りと言うのは、場合によっては八坂神奈子のような、軍神と言った分かりやすい力よりも。
より大きな意味、大きな恐怖、そして大きな依存心にも近い信仰を得る事を。
祟り神である洩矢諏訪子はよく知っていた。
「洩矢諏訪子様、本日も遊郭街へのお目通りの程。誠にありがとうございます。神様の遊び場としての認知も進み、他のお客様もご利益の一端を得ようとしまして
我々の宿で遊んでくださるお客様が増えまして、鼻も高く、嫌らしい所では懐の程も随分暖かくなりました」
忘八達のお頭は恭しく頭を下げながら、そしてその後ろにはきらびやか――過ぎる――衣装をまとった女性たちが何人かいた。
全員が全員、きらびやかなくせに十二単のような荘厳さや奥ゆかしさ、慎ましさはかけらも感じ取れない。
物質的な意味でも、布切れの薄さと言う物がありありと見て取れた。
最も、ここに来る客はそれを期待どころか、金を払ってそう言う事をしに来ているし。速くおっぱじめるためには持ち物は軽い方が良い。
けれどもそんな、薄布を見ながら洩矢諏訪子はふと、稗田阿求の事を考えていた。
あの娘の場合は、こんな服装をしても似合わないなと……
早苗は発育が良いから、初々しくて良さそうだ。
神奈子は、大女の気があるとはいえ、それはそれで『そう言う』服を着せるのも、なかなか面白い。
だが稗田阿求の場合は……別に
諏訪子は、稗田夫妻の事は公務で話している位だから。
稗田阿求の奥深い部分、ましてや肉欲の事なんて何も知らないけれども、それでも着衣越しに見て。
稗田阿求の体は、申し訳ないけれども貧相としか言いようが無かった。
稗田家の存在で、ましてや九代目様として事実上人里の頂点に君臨しているのに。
ならば栄養状態に至っても、およそ頂点と思っても差し支えは無いはずなのに。体の発育に関しては、貧相としか言いようが無かった。
やはり体が弱いと言うのは、事実のようだ。
最高の栄養状態と、最高水準の医療機関である永遠亭が付きっ切りだから壮健のように見えるだけで。
実態は薄氷なのだなと、にべもなく考えていた。
――だからこそ、魅力あふれる肉体を持っている遊郭街の。ましてや忘八達のお頭が経営しているような宿であるならば。
一番安い遊女ですら、他の遊郭宿であるならば、一番を張ってもおかしくない。
なるほど、稗田阿求が恐怖と言うよりは。遊郭街全体に対して、恐慌含みで相手をするはずだ。
何せどんなに安い遊女ですら、自分よりは魅力ある肉体を持っているのだから。
そう考えれば、上白沢慧音はよくぞ稗田阿求と良好な関係を維持できているなと感嘆する。
あれは、旦那の前ではどうしているかは知らないが。普段はゆったりとした服を着ていながらも。
体の線などを強調していなくとも、その豊満な魅力を隠しきれていないのはよく分かる。
稗田阿求からすれば、何にも増して夫である○○には近付けたくない存在のはずだが。
上白沢慧音は、あの探偵稼業に巻き込まれている神経質そうな旦那の存在が。
結婚しているからと言う事実が、そして上白沢慧音の方も少々暴走気味の愛を旦那に抱いているから。
こちら側に、○○の方に来ると言う心配が無いから良好な関係を築けているのだろう。
――正直、そうであってほしい。
上白沢慧音は、人里の最高戦力と言う側面のみで。それが必要と言う部分のみで、稗田阿求が演じているのだとすれば。
あまりにも恐ろしい。
まぁ、しかし。
稗田阿求の事を考えるのはここらで良そう。
今日『も』遊びに来たのだから。
神奈子の表情からは何度も『またか!』と言うような声が聞こえてきそうであったが。
そんな
神奈子だって、自分が遊郭街に食い込むことによる利益を、しっかりと把握している。
文句は言わせん。実際、投資以上の物を取り返せる風向きは確かにあるのだから。
「今日も良い女ばかり取り揃えてくれたねぇ……いい子いい子。何だったらお前の事も抱いてしまいたいよ。どっちもいけるからさぁ」
稗田阿求の正確や、出方について考える事をやめた
諏訪子は。
少しばかり酒が入って、聞し召し始めていた。
この忘八達のお頭は、まぁ確かに、それなり以上には良い顔を持っているけれども。
酔い始めた女性がやった事とはいえ、忘八達のお頭に対してこんなにも子ども扱いとは。
声こそ出ていないが、遊女のうち何人かから息を呑んで張りつめてしまった空気が出てきたが。
それは遊女の全員では無かった、今日用意された女達の何人かは、もう既に
諏訪子の夜お手付きが入っている。
忘八達のお頭が用意するだけはあり、戸惑ったりしてもそれは最初の方だけである。
すぐにこの女たちは、洩矢諏訪子と言う存在について。
ああ、下手をすれば子供のような雰囲気すらあるけれども。相手は神様なんだと言うのは。
それを『肌』によって理解する事が出来る位には、洗練されているし要領だって十分である。
実際、今日この時に息を呑んで張りつめてしまった遊女は全員。
諏訪子の相手をするのが初めて――
つまり、まだ神様によるお手付きを経験していない遊女たちであった。
「あっはっは……この子達は、初めてだったよね?私の相手をしてくれるのは」
実際
諏訪子としても、初めての女たちを前に。少しからかう程度の者でしかなかったし。
それぐらいの事を許容出来てしまうぐらいには、
諏訪子は遊郭街に多大な利益を。
現金以外の、特に遊郭街と言う組織に対して安定性と言う物を与えていた。
事実、
諏訪子が遊び歩くようになってから。きな臭い動きは眼に見えて減った。
黒幕は相変わらず息を殺して、きっとまだ諦めてはいないだろうけれども。
観測気球すら見えなくなったのは、良い兆候以外の何物でもないだろう。
事実ここ最近の稗田阿求の機嫌は――遊郭街に関する事だけならば――懸案が無いので、良いぐらいであった。
忘八達のお頭だけではなく、それの配下である遊女たちだって、高級遊女ともなれば夜鷹のように体だけとはいかない。
世情にも案外通じていなければ、太い客と会話を合わせる事が出来ないし。
世情と言う物を少しでも理解すれば、稗田家の、特に稗田阿求の機嫌1つで自分たちは魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)するこの幻想郷に置いて。
巫女でも魔女でもメイドでもない、ただの人間にとってほぼ唯一安全な場所である、人里から放り出されるのだと、理解は嫌でも出来てしまえる。
――それ故に、商い拡大を目論む連中の頭の悪さには、忘八達のお頭だけに限らず。
高級遊女たちは、怒りすら覚えている。
その懸案を通り越した稗田阿求の癇癪からくる災厄から、
諏訪子は自分たちを守ってくれる存在。
諏訪子は、高級遊女たちからそう思われることに成功していた。
「はい、そうでございます。洩矢諏訪子様。実は近々、宴席がありまして。
その前に洩矢様の、神様のお手付きになっておいて、お座敷の事を知っておいてもらおうかと考えまして。
無論、彼女らは私が今日、勝手に連れてきているだけなので。お代はいつも通りで構いませぬ」
「そう、ありがと」
諏訪子は短く礼を述べた後、実に慣れた手つきでまだおぼつかない様子の遊女を、自身の横に引き寄せつつ。
目の前に並べられた大皿から、料理をひとつ、つまんだが。
「――?」
「いかがしましたか?洩矢諏訪子様」
少し、
諏訪子の様子が。
いや、素声自身は何も言っていないから。おかしいとすら思われないのが大半であるけれども。
けれども
諏訪子は少しばかり、思考が一か所に固定されて、そしてさすがは忘八達のお頭である。
客の様子の変化には、とてつもなく聡い。もっともそうでなくては、遊郭街に置いて支配者役などは出来ないのだろうけれども。
「いやね……別に変では無いのだけれども。板前変わった?前のもこれも、どっちも美味しいけれども。
若干、切り分けた物の歯触りが違うからさ」
「調べてきます、しばしお待ちを」
「悪いね」
諏訪子はそう、相変わらず言葉は短いけれども。しかしながらちゃんとした様子で謝った。
……だがそのちゃんとした様子と言うのは、忘八達のお頭に対する取り越し苦労を掛けたかもしれない事だけではない。
はっきり言って、取り越し苦労なら。杞憂ならばそれで構わない。
戻ってきたときに、お猪口をひとつさし出して、酒を一杯与えればチャラに出来る。
それで笑って済ませれば、それで終われる。
だが。
「洩矢様」
忘八達のお頭が、何枚かの書類を持って戻ってきた。
これは、取り越し苦労や杞憂では無いかもしれない、そう言う気配が見えてきた証拠だ。
まだ確証や断言は、
諏訪子も忘八達のお頭も無いけれども。
ここまでの頂(いただき)に立つことが出来る存在の感じる、おかしな気配と言うのは。
概ね当たっているのが常である。
そう言った物を感じ取れる才能が有り、またそれを磨いたからこそ。
どちらともが、何かの頂点に君臨できているのである。
「洩矢様がごひいきにしてくださっている板前ですが……近々において、宴席の予約をしている客が、予行だと言って連れ出しているようです」
「あの板前、高いよね?あの板前より上となると、この遊郭街では……」
「あの板前は、私が雇っているのでひいき目もありますが。五本の指に、どんなに低く見ても十本の指には数えられます」
「それを連れだした?私の知ってる奴が連れ出したのかい?ああ、それとも鬼が?星熊勇儀が、たまに地上の遊郭で遊ぶとは聞いたが」
「いえ……鬼の星熊様が無理を言って、と言うのでしたら私も苦笑しながら戻って来れます」
「そいつ、私の気に入ってる板前連れ出した奴、鬼じゃないならどこで金稼いでるんだろ?」
「どうぞ、写しを取ってきましたのでお納めください。私の方でも調べを進めます」
諏訪子がいよいよきな臭い物を感じ取らざるを得なくなったころに、忘八達のお頭は。
するりと、
諏訪子に対して手がかりとなり得る物を。
諏訪子お気に入りの板前を連れ出した、謎の人物が記した予約表を差し出してきた。
「――遊女はここに残って。料理はみんなで食べていいよ、ちょっと山に戻って、指示だけ飛ばしてくる」
稗田阿求だけではなく、洩矢諏訪子も。
そして洩矢諏訪子の場合は、より危機感を持って対応を始めた瞬間であった。
前門の虎、後門の狼どころではなくなった瞬間でもある。
感想
最終更新:2019年12月17日 23:31