「……」
諏訪子は珍しく、真面目な表情で書類の束を。
天狗に頼んで借りたカラスから送られてきた報告書を、一通一通、丹念に目を通していた。

奇しくも阿求と諏訪子がほぼ同時に、今の状況に対する違和感を覚え。
どちらともが自分なりに、使える手段を可能な程度で、さりとて手心など加えずに行使し始めた。
そしてその行使の量や勢いの度合い、比べるならば諏訪子の方が上であった。
遊郭内での不祥事がそのまま、諏訪子の権勢に直結するのだから、真面目にならないはずが無かった。
そうなってから、何日かたった。あれからずっと――相変わらず諏訪子は、遊郭街へ遊びに行っているが。
と言うよりは、もしかしたら神社にいるよりも遊郭街にいる時間の方が長いぐらいにすらなってきているが。
しかしそれでも、随分と締まった表情を浮かべるようにはなってくれた。

「……何だかなぁ」
しかし、早苗の表情は全く晴れなかった。
諏訪子はここ最近では最も真面目な、フィクサー気取りで裏で糸を探っている様子も無いと言うのにであるが。
それは、家中の存在であるならば嫌と言うほど見えてしまうからである。
諏訪子は、さすがに水も食物も一切無しで、ひっきりなしに来る報告書を読んでいるわけでは無かった。
傍らには緑茶と、お茶菓子が供されている。無論、早苗が不機嫌な原因はそれでは無い。
それを咎めてしまうほど、早苗は狭量では無い。
早苗が問題としているのは。
「…………あーん」
諏訪子が時折見せる、この光景である。まるで子供が親から食べ物を口に運んでもらう事を期待しているかのような。
そう言う光景である。
洩矢諏訪子ときたら……遊郭通いが多すぎて。遊郭でやるようなことを、思わず持ち出してしまうようであった。
しかも神社で。

「ふぅー!?」
早苗が思わず、縄張りを荒らされた蛇のような声で諏訪子を威嚇した。
「どわぁ!?」
報告書に意識を集中していた諏訪子は、まさかそんな声が聞こえてくるとは思わず、跳ね飛んで驚いたが。
「ああ、何だ早苗か……なんか機嫌悪いね?」
とうの諏訪子は、この有様である。自分の行動がいかに、利益の存在を無視できない神奈子ですら、苛ませているか。
それを全く……いや、諏訪子ほどの存在がそれを理解できていないなど、あり得ないから。
冷酷な損得計算で、無視をしていると言い切るべきかもしれなかった。

「何を調べているかは知りませんが!報告書の検分なら、遊郭街でやったらどうですか!?
あそこなら諏訪子様が今見せたみたいに、『あーん』とした動作をしても、口に食べ物を突っ込んでくれますよ!?」
「え、ああ……」
しかし、神奈子と早苗を苛ませてる事柄を。冷酷な損得勘定で無視をしていたとしても。
今のこの、早苗から指摘された事実には。あの諏訪子ですら、目を丸くしていた。
しかし。
「あーごめんごめん、よくやってもらってたからさぁ」
悪びれる様子は無かった。あったとしても、少し恥ずかしがる程度。そこに殊勝さはかけらも無い。
「だから遊郭街に行けと言ってるんですよ……」
そんな諏訪子の姿に、早苗も平素の関係をどこかに置いて行ってしまい。
かなり荒っぽい口調に変わりつつあったが。
「ははは、でも内容が内容だからね。遊女たちが調査の内容を心配して、ちょっとオロオロさせてしまうんだ」
それに対する諏訪子は、相変わらずにこやか……しかし早苗の眼にはニヤニヤとした物に映っていた。
「こっちはピリピリしています!」
早苗は最後にそう言い捨てて、神社から外に出て行ってしまった。
「あっはっは」
諏訪子は、分かっているくせに茶目っ気たっぷりに笑いながら。
数多ある報告書をいくつかの組に、諏訪子なりの方法で仕分けて行った。

さすがに、上白沢の旦那が倒れてから数えても――つまり諏訪子と阿求が違和感を覚えた日。
いくらかの日数が経ったので。上白沢の旦那も回復して、早苗もまぁなんとか意気が戻った。

しかし諏訪子と阿求は、腹の底で考えるのみで事態をまだ口外してはいない。
横領被害を受けている当の被害者である、稗田○○も言うはずが無い。
言えばどこかで破滅の音がするのは必定だから。
だが事態は、沈黙を保ったままで活動を続けていた。圧力の溜まり続ける容器は、限界まで変化を見せない事は往々にある。


しかしながら○○は一人きりで。精々が上白沢の旦那だけが援軍の状態で考えて、動いて、なおかつ気づかれてもならない○○にとっては。
これは余りにも分の悪い戦いであった。
「……」
「……」
そもそもが心労による一時的な発作だった、上白沢の旦那はもうとっくに回復して、○○と喫茶店でコーヒーを共にできているが。
楽しげな雰囲気を出せるはずが無かった。何せ二人とも、この里で起こっている。
稗田阿求に対して唾を吐くような真似をしている輩の事を、誰がとまでは分からなくともその存在を、信じなければいけないのだから。

「それで○○……」
稗田○○には暖かいコーヒーと焼き菓子が、上白沢の旦那には最近流行の氷菓子の亜種のようなコーヒーが供されて、しばらく経った折。
無言ではいくらなんでも良くないと。
それに○○には阿求が放った護衛が常に付いて見ているから、これ以上の無言は余りにもおかしい。怪しまれる。
そんな二重の意味を持たせながら、重々しく口を開いた。
「俺が倒れている間に、何かわかった事はあるか?容疑者の段階でも構わんから、数を特定する事ぐらいは、出来ていてほしいな」
容疑者の数ぐらいは知りたいと、上白沢の旦那が言ったとき。
○○は、焼き菓子を咀嚼(そしゃく)する口の動きが瞬間的ではあるが、止まってしまった。
残念ながら上白沢の旦那はそれを見てしまった。
「捗々(はかばか)しくはないようだな……」
若干諦めながら上白沢の旦那は、流行であるコーヒー味の氷菓子に目を落とした。

「犯人は最低でも三つの業者において横断的に協力関係を築いている。あるいは配送、あるいは問屋と言った具合だ」
しかし犯人が1人や2人では済みそうにないとの、○○からそう言われてしまうにおいては。
何もわからなかったんだ……と言われた方がマシだった。慰めの言葉を紡ぐことで、この場を紛らわせる。


だが、一度話し始めた○○の邪魔をしたくも無かった。
コーヒー味の氷菓子にスプーンを差したまま、上白沢の旦那は○○の方に目線を戻した。
「ずっとずっと、配送業者を確認して、自分が何を買ったかをつぶさに記録して突き合わせた。
稗田家では、基本的に御用達の業者を作らないと言う方針がある。
好みだと言う菓子屋に料理屋ぐらいは存在するが、普段使いする物品に食料品、そしてそれを運んでくれる業者。
これらは必ず、一定期間の持ち回り制で。その業者の数も増減する。決まった業者は作らない。
ご用命を受けてから1年以上たった折に、思い出したかのように再び使う業者もあれば。
二か月かそこら程度の休眠期間をおいて、再び使い始める業者もある。
こんなめんどくさい方法を使う理由は、御用達と言う存在を作る事によって、変な権力を持たせないためだ」
上白沢の旦那は、コクリと頷いた。
洒落た、コーヒー味の氷菓子はそろそろ溶け出しているが。食べる気にはなれなかった。
幸い器が大きいので、とけ切っても一息で飲んでしまえばいい。

「それでも……信用できる業者と言うのは確実に存在するし、さっき言った三つの業者がそうなんだが。
三つとも使っていない時期は、存在していなかった」
「少し質問をしたい……」
上白沢の旦那は、嫌な可能性に気付いてしまい。それを確認しなければと思ってしまったが。
仮に、それが的中していたとして自分は、何が出来るのだろうか。
そうは思ったが、聞かざるを得なかった。ここまで来ては知らない方が、不調を来す。
「聞きたい事がある、○○、お前が横領被害を受け始めた正確な時期は分かるか?
お前の話を聞いていると、その三つの業者はかなり長くから稗田家の用命を受けているようだが?
そして、○○。お前が稗田阿求と結婚してからも、そんなに短いわけでは無い」
上白沢の旦那が質問をした時、稗田○○は「クククク……」と神経質に笑い始めた。
手に持っていた焼き菓子は、手の力が不用意に強くなった事で割れてしまった。
これは、凶兆以外にあるまい。
「…………分からないんだ。俺がお小遣い帳を付け始めたそもそもの理由が、何か高値を掴まされてる気がする、あるいは隠れた無駄遣いかなだったから
そう、だから。今の質問には、全く分からないと答える他は無い」
やはり、凶兆であった。考えうる限りでは、最悪の答えであった。
「……今日の荷物は、横領が。改ざんの心配は無いのか?」
堪らず上白沢の旦那は、質問を変えてしまったが。
「確率的には、分は良い方だよ」
○○は、はっきりと断言してくれなかった。この言い分では、合ったり無かったりという事らしい。
そこまでやられて尽きない、稗田家の財力も大したものではあるが。
今そこは、まるで重要では無い。


結局、この案件と言うか。
今まさに受けている被害の、その首謀者たちが想像以上に広い範囲で○○を追い込んでいる。
今日の会見で、上白沢の旦那が確認できたのはそれだけであった。
ただ聞くことしか出来なかった。
上白沢の旦那は最早自分が恥ずかしかった。○○には言ってないが、倒れて以降の慧音の様子が自分に対して過保護ではと思うぐらいだからだ。
そして慧音は、普通は喜ぶべきなのだが――恐ろしく魅力的だ。そんなのからべったりとされてしまえば――
昨日も、反応して。相手をしてもらったが、それを思い出す事すら恥ずかしくなってきていた。
もしかしたら意気が上がらない理由は、そのせいで疲れているからではと思うと、余計に。
何せ今日の朝は、気づいたら慧音の上に乗っていたのだから。

だが○○は、上白沢の旦那が恥ずかしがる。こんな状況でも反応する自分の男としての部分への、苦悩には気づかず。
殆どうわの空で、無論本人はずっとこの件に対するせめてもの落着を探しているが。
業者が特定出来ただけ、それですらまだ増える可能性があるし。
全ての業者を特定してもまだ、誰がそれをやったのかを特定する必要があった。
万に一つも間違いは許されない。稗田阿求の性格を考えれば、そして被害の実態を合わせて考えればなおの事である。


上白沢の旦那と稗田○○が、全く別の事で苦悩しながら。会話も無く往来を歩いていたら。
「不味いかもしれん……」
○○が不意に、けれども誰に聞かせる訳でもなく。
うわ言と言うのがぴったりな声色で、しかも状況がまた悪化したような事を呟いた。
「どうした、○○?」
上白沢の旦那が恐々として振り向くが。○○は歯を食いしばって、目線をあちらこちらに動かして。
何かを考えているようではあるが、混乱しているようでもあった。
「俺の後ろにいてくれ、話は俺がやる」
しかしこう言われてしまえば、そして○○が歩を進めている先にいる人物は。
稗田邸に度々入るようになれたおかげだろう、それが稗田の家中で働く奉公人であると、そう理解するのに時間は必要なかった。
立ち振る舞いの上品さからして、市中に入ればなおの事、他とはまるで違うのだから。


「やぁ……」
○○はゆっくりと……事情を知っている上白沢の旦那から見れば、それが警戒心の高さだと言うのは、理解できてしまった。


「これは、○○様じゃないですか!奇遇ですねぇ」
「ああ、そうだね」
それだけに、何も知らない――はず――のこの奉公人の笑顔がまぶしかった。
「珍しいね、外で会うなんて」
「あはは…………ちょっとインクと紙の束が欲しかっただけで。計算をやっていると、いろんな所にちょこちょこ書きたくなりますから」
「ああ、そうなんだ…………そうだ、思い出した。そろばんを頭の中に突っ込んだとか、そう言われてたよね、貴方は」
「ええ、まぁ…………他の方と違って、体は華奢(きゃしゃ)でひ弱な方ですらあるかもしれませんが、私は計算が得意で、そのお陰で稗田家で働けております」
「ああ、そうだった。そうだった。当たってて良かった」
「いえ、思い出してくださって嬉しいぐらいですよ」
そのままよくある、社交辞令的な会話が少し続いた後にその計算に強い奉公人とは別れたが。
○○が急に横道に逸れたので、急いで追いつくと。その顔は顔面蒼白であった。
「何があった?何か変な会話をしていた風には見えないが」
「会話じゃない、あの奉公人が購入した物が問題なんだ。彼は計算が得意だから、気づいたかもしれない。
いやそもそも、あの奉公人に阿求は荷物を運ぶのを!しかも俺の荷物を運ばせた!こう動いてくれると期待して!」
「頼む、○○!何があったか教えてくれ!!」
狂乱含みの○○を見ていると、上白沢の旦那も狂乱が巻き起こるが。
○○はまだ冷静な部分で、口に手を抑えて一言ずつゆっくりと喋った。

「この間、俺は警戒しすぎて。インクと神の束しか買わなかった。だが犯人達は、俺が買うと思ったおせんべいを、余分に入れて水増しした」
背筋が寒くなった。思い出してしまったからだ。
○○とは何度も喫茶店やらでお茶を共にしたが。彼が塩気のある物を好んで食べている場面は、ただの一度も無かったからだ。

「俺は甘い物が好きで、阿求は逆で塩気のある物が好きなのだが。世間的には男が塩気のある物を好むからな、犯人は間違えたんだ。
……もちろん、領収書は高めに改ざんされていた。その時の荷物を、領収書付きの荷物を部屋まで運んでくれたのが。
阿求から指示されて、あの計算が得意な奉公人が運んだんだ。
彼の眼には、改ざんされた領収書が見えていたはずだ…………
そんな計算に強い男が、あの時俺宛てとされた荷物と、同じものを買っていたんだ。せんべいまで同じだった」
確認作業。そんな言葉が上白沢の旦那の脳裏に浮かんだが、口から出てくれなかった。






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最終更新:2019年12月17日 23:34